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みんなのミュシャ展

先日、娘につき合って京都文化博物館で行われていた「みんなのミュシャ展」へ行ってきました。ミュシャの作品はこれまで何度かどこかで目にしたことのあるという程度で、この絵を描いた人がミュシャという名であることすら知らなかった。

で、見に行ってみて、すごかったです。なんとなくちらっと目にしたのとちゃんと見るのとではこれほど違うものかと改めて思いました。ほとんどの絵は女性が描かれ、その周りに花や装飾がほどこされている。絵のうまさがひしひしと感じられるのと同時に、多種多様なデザインを創造するパワー、それを緻密に描く根気強さ(?)に圧倒されました。

娘と夫は絵を描くから、ひたすら絵の描かれ方を観察し(特に人物)、その巧みさに感心していましたが、私はとにかく創造の力(特にデザインする力)を感じていました。絵の好みは別にして、大いに刺激を受けました。そして、私も早く帰って音楽に取り組みたいと思いました(笑)。これまでもそうですが、ジャンルに関わらず創造の熱を感じると、モチベーションが上がるようです(笑)。

ちなみにミュシャはチェコ出身で、展覧会のどこかに「スラヴ」に関することが書かれていて、それを見たために絵を見ている間、ずっと頭の中にドヴォルザークの「スラヴ舞曲 Op.72-2」が流れていました(彼もチェコ出身ですね)。少し切なく、民族色を感じられるようで、印象深い曲です。

 

オットー・ネーベル展を見て

京都文化博物館で、オットー・ネーベル展を見てきました。この展覧会について、私の感じたこと、考えたことを簡単に書いてみようと思います。

最初に、この展覧会のことはネットで知りましたが、その際作品の画像を見てパウル・クレーのようだと思いました。実際、クレーやカンディンスキーと関係があることは、展覧会の説明でわかりました。

この色合いを見てパウル・クレーのようだなと思った。

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京都文化博物館の展示会場入り口

さて、何の先入観もなしで、会場へ入りました。最初の説明で、ネーベルはまず建築からスタートし、それから俳優、詩人という顔も持ち、バウハウス(ドイツにあったデザイン・アート系の学校)でカンディンスキーやクレーと出会ったことなどがわかりました。ネーベルが画家であり詩人であることについて、

言語と造形芸術が交わる領域での実験を可能にするふたつの天分を備えていたということになる。

と書いてあり、まずこのアーティストへの興味が強まりました。言葉という具体的なものと、抽象的な芸術が、表現では別々の姿であるけれど、彼の中ではどこか交わっている?

作品は、とにかく色彩が素敵。色へのこだわりはかなりあったらしく「カラーアトラス(色彩地図帳)」というものを作り、ディテールにこだわった、緻密な作品作りをしていたということがわかりました。でもぱっと見た感じ、全体的に軽やかで明るめで楽しげ、というのが私の持った印象。さらに、色も配置もバランスがいいから、見ていて安心感が得られる。クレーの作品とはだいぶ違うこともわかりました。

途中、「音楽的作品」というコーナーがあり、興味津々。そしてなんとそこは写真撮影がOKでした。昨年行った、ライアン・ガンダー展では写真撮影がOKで驚きましたが(動画はダメと言われました)、これまで行った美術館はほとんどどこも写真撮影はだめだったと思います。海外の美術館では撮影OKの所が多いのではと思いますが、正反対の考え方ですね。

「音楽的作品」は、タイトルも「二倍の速さで」「ロンド・コン・ブリオ(元気に)」「叙情的な答え」などなど。説明によると、

ネーベルは自分の努力を、ある楽譜をオーケストラとともに読み込み、練習する指揮者の仕事と例えている。

「音楽的作品」の中の「かなり楽しく」という作品

「音楽的作品」と書かれてなかったら、これらの作品を音楽的と感じたかどうかはわかりませんが、逆に、こういったテーマをつけているのを知った上で、ネーベルの作品を眺めると、どの作品も「音楽的」なのではと思えないこともない。楽譜じゃないですよ。音楽のイメージ。

「純潔と豊潤」これは「音楽的作品」には含まれていないけど撮影OKの作品のうちのひとつ。

つまり、色や構成にある種の秩序があり、それが音楽的なんじゃないかなと。音楽もただのバラバラの無秩序の音の羅列では、一般の感覚では音楽には聞こえないと思いますが、秩序があるから音楽として聞こえてくる。拍子や旋律やハーモニーなど、何かバランスを持って聞こえるものが音楽であると感じるのだと思います。

おおざっぱに言えば、ネーベルの作品には、心地よい秩序があり、それがどこか考えようによれば音楽的な感じがして、安心感を与えてくれるのでは?と。

親交のあったクレーも非常に音楽を愛していた人で、絵画と音楽をどのように行き来していたのか、興味あって、以前本も借りたことあるんですがちゃんと読めてないです。

同じく親交のあった、カンディンスキーについても、

抽象の度合いが上がるにつれ、音楽を引き合いに出すようになり、「コンポジション」「即興」「印象」と呼ぶ作品において、記譜するように感情をフォルムと色彩で表現しようと試みた。

という説明がありました。

3人とも創作の中で音楽を意識しているということは、どういうことなのか?カンディンスキーの

人間は自らの内に音楽を持っている

という言葉も紹介されていてますが、私も以前から気になっているテーマの一つです。

でも、もしかしたら、ネーベルの構成力は建築からもきているのかも?とここまで書いて思いました(そんな説明もあったかもしれないけど読めてない)。建築と音楽も共通性がある(どちらも空間を形作るもの。目に見えるか見えないかの違い)。彼の作品が何によってそうなっているのか?色々なものが混ざり合って生まれてきたのだろうと想像してみる。

音楽も絵画も言葉も、結局内面を表す「手段」であることについては日頃考えていますが、そのことを裏付けるような気持ちで見た展覧会でした。

緑のインスタレーション

先日、嵐山へ行ってきました。

もみじの若葉は、紅葉とはまた違った美しさがあり、以前から好きですが、最近「青もみじ」という言葉を聞くようになりました。「青もみじ」という言葉を使った京都観光の案内も見かけるようになり、きっとまた多くの人が観光に訪れるだろうと思っています。

さて、嵐山は今の季節としてはやはり観光客が多い気がしました。「青もみじ」宣伝効果か、それとも単純に京都へ来る人が増えているためかはわかりません。

同じ日に色々行くと印象が混ざるので、今回は常寂光寺をメインにして、あとは周辺を散策しました。

常寂光寺山門から中を見ると、早速、期待していた光景が。かやぶきの仁王門の前に優雅に広がる青もみじの枝。なんと絵になる光景。

それからずっと、感嘆のため息をつきながら庭を散策しました。昔、俵万智さんが「眼福」という言葉を使ってらっしゃるのを読んだことがあるのですが、まさにこういう時、この言葉を思い出します。

目が喜んでいる、いや、目を通して心が喜んでいる。でも、画面とか本ではわからない、その場に身を置いて初めて感じることができる喜びです。あまり意識できてなくても、音やにおいや気温や色々な要素を体全体で感じているんだと思います。コンクリートやアスファルトに囲まれているよりも、生き物としてはやはりうれしいはず?(笑)

常寂光寺

仁王門をくぐった先に見える光景

夫が庭を見て「インスタレーション」という言葉を使いましたが、まさに庭は、石、木、などの自然素材、そして生きた植物を使ったインスタレーション、アート作品なのだと思います。

インスタレーションとは、ウィキペディアでは次のように説明されています。

「1970年代以降一般化した、絵画・彫刻・映像・写真などと並ぶ現代美術における表現手法・ジャンルの一つ。ある特定の室内や屋外などにオブジェや装置を置いて、作家の意向に沿って空間を構成し変化・異化させ、場所や空間全体を作品として体験させる芸術」

これまで、それほどたくさんは見ていませんが、インスタレーションは光、風、音、映像などを使って空間の中で何かを表現するアートと認識しています。庭の場合、普通のインスタレーション作品に比べると、自然がそうなるままにまかせている部分が大きいと思います。季節や時間によって、ほんのひと時も同じ形を留めていない、変化し続けるアート作品。庭師がどうすれば自然を美しく見せられるかという仕掛けをすることで、私たちは自然ってこんなに美しいんだと気づかされる気がします。日本のように豊かな自然のあるところで、どうして昔からわざわざ人工の庭というものを作ってきたのか? やはり自然を愛でるためという気がします。

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木洩れ日が美しい

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境内一番上まで行くと京都タワーも見えます!要するに山ですね(笑)

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シランの花

祇王寺も苔の美しいお寺。二尊院や落柿舎など素敵な場所が近くにたくさんあり、何度来てもその都度違う、見切れないほどのコンテンツに出会います。若い頃には気づかなかったことや考えなかったことが増えていく分、違った感じ方ができて楽しいんだと思います。

 

おまけに、何年か前の6月始めの祇王寺の写真です。

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幻想的な苔の庭

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ここもかやぶきの屋根ともみじの組み合わせ。絵になります。

 

アジア回廊現代美術展に行って

今日は二条城で行われている、「アジア回廊現代美術展」へ行ってきました。

いつものように多くの観光客でにぎわっていましたが、中は広いのでそんなに混んでいるという感じもしませんでした。

展示会場の最初の作品は、庭に立つ「フルーツの木」で本当は大きな木の上に色々な大きなフルーツがなっているインパクトのある作品ですが、今日は強風のため膨らませてなくて、しぼんでいました。残念。

そして、屋内の会場へ入ると、まずカラフルな作品が目にはいります。と同時にその上に横たわる超太い梁が目に入り、その迫力に圧倒されます。一緒に行った夫はやはりそちらに反応。

中へ入っていき、作品を見て回ります。どうしても、建築物の存在感が強いので、ただアート作品を見ると言うよりも、その全く異質な組み合わせを楽しむといった感じです。でも、不思議にアート作品は、古い骨太で寛容な空間に包まれるような感じで佇んでいました。

庭の方にも、いくつかアート作品があり、これもまた渋い庭の中に面白みを加えるかのように展示されていました。

二条城はこの美術展があるから久しぶりに行ったのですが、展示物がない状態よりも、あった方が、その迫力や存在感に気づかされるのだと思いました。また、アート作品とのコラボが、普段と違う雰囲気を作り出し、空間の面白みを感じさせてくれる。線の細い和風建築もあるけれど、二条城は太くて強い感じ。そこに個性の強い現代アートがきても、それが和らぐ感じがして面白かった。

二条城は広いから、結局全部見る前に閉場時間が来てしまったのだけど、元々敷地内は俗世界とは切り離されたような場所で、さらにアート作品によって不思議な世界になっていた。今日はそこで、色々なことを感じたのだけど、こういう日常と違う場所に来ることで、普段感じないことを感じられる。感性が刺激される。

少し前に読んだ、アーサー・ビナードさんの『もしも、詩があったなら』(光文社新書)の中で、

「詩というものは、役に立つか立たないのか?」

という自問があり、

「自分と自分の愛する人びとが生きのびるために、役に立つのか」といった次元であれば、もしかしたら詩は有用かもしれない。

と自答しています。

それは、

「人びとの思考停止を突こうとするのが詩」

だから。

詩が文字によって、人の心に何か気づきを与える可能性があるなら、アートや建築空間や音楽などは感じることによって、もしかしたら普段眠っているかもしれない部分を呼び覚ますことがあるかもしれない。

「アートや音楽というものは、役に立つか立たないのか?」

自分の中に眠っている感性に刺激を与え、感じる力を養うという意味では役に立つかもしれないと、改めて思いました。例えば何かを見抜くには考える力も大切だけど、感じる力も大切ではなかろうか? だからそういった分野の経験や教育は大切とも!

まあ、役に立たなくても好きなものは好き!ですけどね。

(*画像をクリックするとアマゾンにとびます)

パリ・マグナム写真展を見て

京都文化博物館で行われている「パリ・マグナム写真展」へ行ってきたので、ちょっと書きます。

マグナムというのは、京都文化博物館のサイトより引用すると

1947年、ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、デビッド・シーモアによって「写真家自身によってその権利と自由を守り、主張すること」を目的として写真家集団・マグナムは結成されました。以後、マグナムは20世紀写真史に大きな足跡を残す多くの写真家を輩出し、世界最高の写真家集団として今も常に地球規模で新しい写真表現を発信し続けています。

ということです。

日曜の朝にこの展覧会のことを知って、マグナムについてほぼ何も知りませんでしたが、面白そうだから行ってみることにしました。

写真は、1932年から2017年5月までのもので、「人」を主役としたものが多かったという印象です。ストライキ、デモ、集会、暴動、戦争などを含む様々な状況の中での、人の姿や表情がうまくとらえられていて、その瞬間の前後について想像を膨らませたくなるような感じがして、じっくり見ていました。様々な人の表情から、何を感じて、何を考えているのだろう?と考える。

展示室の入り口を少し入ったところに、アンリ・カルティエ=ブレッソンの言葉が紹介してありました。

「以前の私は詩のために詩を探求する人のように、写真のための写真を求めていた。マグナムの誕生で、物語を語る必要性が生みだされたのだ」

確かに、物語を感じました。物語は見る人を引きこむのだと思います。

写真はモノクロームがほとんどで、最後の方でカラーが出てくるのですが、ふと感じたことがあります。モノクロームの写真をたくさん見た後、カラーの写真を見ると、急に物語から現実に引き戻されたような感じがしました。目に映る情報が増えて色が気になる感じ。全部カラーならそんな風には思わなかったかも。今回の展覧会はモノクローム写真がとても魅力的だなと思いました。そして、写真だからこそできる表現というものがあることを改めて感じさせてもらいました。

もっともっと色々なことを思ったんですがね、なかなかまとめるのは難しいです、いつも。

先入観なしで、好奇心で接して何かを感じるというのは楽しいものです。音楽に限らず、常にわくわくさせてくれるもの、インスパイアしてくれるものを探しているなと自分で思います。道端の花でも!

 

現代アート(ライアン・ガンダー展)を鑑賞して

大阪の国立国際美術館へ行って「ライアン・ガンダー展」を見てきました。このアーティストのことは知らなかったのですが、美術館のサイトを見て、おもしろそうだなと思って行くことにしました。
たまに美術館に行きたくなりますが、広がりがあって、明るくて、空間が楽しめるようなモダンなタイプが好きで、作品そのもの以上に全体の雰囲気を楽しみたいという感じです。
さて、展示室の中に入って、作品を半分くらいみたあたりで、「ああ、ぜんぜん、わからん」と思って、初めて音声ガイドを借りることにしました。これまでも現代アートは「よくわからないもの」という認識で、それでも美術館という空間を楽しめればいいと思っていました。でも、今回は「なにか手がかりが欲しい」という思いが強くなりました。現代アート以外の作品、風景画や静物画、抽象画でも、そこから何かを感じる、それなりの鑑賞の仕方を自然にしていると思います。でも、現代アートは大体「わけがわからない」という印象で、なぜ、そんなにわかりにくいことをするのだろうと思うこともよくあります(例えばカバンや靴が置いてあるだけとか、意味不明なコラージュとか)。
ただ、昨年行った金沢21世紀美術館で見た「西京人」という展覧会は、メッセージ性が高いと感じ、全体的に親しみやすいい印象でした。常設で、人気のある「プール」も、鑑賞者が作品の中に入り、それを他の鑑賞者が見るという、常に変化する作品という風に感じて、おもしろかった。この美術館は鑑賞者に、より自発的に参加することを促すようにできていると思います。とても、すてきな美術館でした。

(話を戻して)音声ガイドを借りて、また最初から見始めると、面白い! それを聞いても作者がなぜそれを作ったのか、何を意図しているのか、そういうことはわからないのですが、作品に少し親しみが持てるような気がします。それが何でできているのかとか、それは製作の過程でできたもので完成品はネットで見られるとか、それは〇〇とのコラボで作られたとか、どういうしくみで動いているとか、そこの穴と横にあるものとの関連とか、そういったことがわかるだけでも、楽しくなってくる。
美術館を出てから、夫とライアン・ガンダー展について話をしました。夫は音声ガイドは利用しませんでした。それで、どうだったかと聞くと、「面白かった」と。私は音声ガイドがあった方が楽しめたけどと言うと、「それはそれでいいんじゃない」と。私は、現代アートの鑑賞の仕方がいまいちわからない、よくわからない、どっちかというとつまらない、というと、「子どもだったら、きっと面白がる」と言う夫。それを聞いて、はっとしました。なんか目からうろこが落ちたような。一瞬自分が童心に帰った感覚がおこり、「あっ、楽しいかも」と思えました。子どもなら、様々な不思議な展示物を見て、「これは何を意味するのだろう?」とか、「これって、アート作品といえるのだろうか」とか、「作者は不親切じゃないか?」とか、そんなことは考えないでしょう。ただ、純粋に好奇心を持って接し、「これ何やろう?」と自分の想像をふくらます(でも興味持てないものはスルー)、そんな気がします。現代アートは感じるものじゃなくて、何を意味しているか考えるものと思っていました。その答えがさっぱりわからないから、つまらなかった。答えはそれぞれの頭で自由に作り出すということを子どもは勝手にやるかもしれない(?)。
作品を受け身で楽しもうとすると作品に色々求めてしまうけど、自発的に楽しむのなら自分が勝手に想像して楽しめばいい。そもそもアート鑑賞(現代アートに限らず)に正解などはないはず! そうなると作者がそれに意味を持たせているのか、ひらめきだけなのか、どっちでもいいとすら思える。人によって全く違った解釈が生まれる可能性を秘めている。そういう風に思うと現代アートはこれまで思っていたのとは違う意味を持っていると思えます。
大人だから、意識しなければ「子どものような心」で接することはできないけど、次からは現代アートを違った目で鑑賞できるかもしれない。もっと、自発的に想像ごっこにトライしてみよう。もちろん、スルーしてしまう作品もあるかもしれませんが💦。他のことでもそうですが、肯定的に接するのと、否定的に接するのではそもそも違った印象になると思ってます。
色々考えてから改めて思い返してみると、ライアンさんの作品はいたずら心、ユーモアがあったな。音声ガイドの説明でも何度か笑ったし。今回のアート鑑賞は、ちゃんとその後それについてつっこんで話をしたことで、私にとってぐっと実りあるものとなりました。よかった(^^)

絵と景色と音楽と

18日は京町家ギャラリー「高瀬川・四季AIR」で行われている「小林冬道 VS kuma3 二人展」でオカリナ奏者でもあるkuma3とコンサートをやりました。
小林冬道さんは水彩画、kuma3は色鉛筆の絵ですが、それぞれの個性で素敵な絵をたくさん描かれています。
コンサートはクラシックソロ1曲を除いて、あとは童謡や唱歌、アイルランド民謡など8曲はピアノパートを私が編曲したものをやりました。
17日にリハーサルをやるために、ギャラリーに行って初めて用意していただいた電子ピアノ(ギャラリーにピアノがないので)を触ってやはり最初は違和感ありましたが、お客さんがいても弾いてくれていいと言ってくださったので、合わせリハーサル以外にBGMのように色々な曲を弾いて、楽器のくせをつかもうと試みました。
2~3時間くらい弾いてたでしょうか、どうタッチすればより弾きやすいかわかってきました。
今年初め、ギャラリーでのコンサートで弾きませんかとkuma3に誘われた時、電子ピアノという点は気になったものの、その状況はとても素敵だなと思ってぜひやらせてくださいと言いました。今回、高瀬川の流れが見えるギャラリーで絵を鑑賞し、音楽を聴いていただくというこの企画を実際体験して、やはりいいなと思いました。今日のコンサートは皆さん椅子に座って静かに聴いてくださりそれはもちろんよかったのですが、昨日BGMのように弾いているのもとても楽しかったのです。
ギャラリーという日常と少し離れた場所で、しかも美しい景色を眺めながら音楽を奏でるとはなんと幸せなことでしょう。またこういう状況の中で弾けたらうれしいな。もちろん生ピアノで!