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京都府立植物園がピンチ?

先日、京都府立植物園の再開発の話を知りました。中でも気になったのが、広場に野外ステージを作るということです。

植物園は、植物を観察したり、散歩したり、広場で遊んだり、ベンチに座って本をよんだり、池を眺めてぼーっとしたり、それぞれが思い思いに自然と触れ合うことのできる場所です。

広場に野外ステージ、ですぐ思い出したのが梅小路公園です。以前行ったときに、ちょうど野外ステージで演奏をしていました。スピーカーから流れる音が響き渡っていましたが、こちらは別に音楽を聴きにいったわけではないし、そういう気分でもないし、聴きたい音楽でもない(アコースティックの楽器ならまだ耳にも優しいと思いますが)。今ここに大音量の音楽はいならいと思いましたが、音はさえぎることができません。そこを去るしか音から逃れることはできません。音は音が届く空間を支配してしまうんですね。

広場を離れ、梅小路京都西駅の方へ行くと今度は別の場所でスピーカーから大音量の音楽が……。

スピーカーを使って「にぎやかに」することが楽しい気分を盛り上げる、という考えが普通になっているのかもしれませんが、どこでもそんな風にしてしまうってどうなんだろうと私は思っています。

音楽フェスのように、音楽を聴くために人が集まってくる場所ならいざ知らず、普通の公園での大音量音楽というのは、必ずしも歓迎されないのではないかと思います。梅小路公園で音楽フェスありますが、普段は普通の公園ですよね。

京都府立植物園の中には、自然の山のようなエリアがあり、街中にいるのを忘れるくらい、落ち着いた雰囲気があります。そこに、スピーカーからの大音量をとどろかせるのは、やや暴力的でもあるとも思えます。

街中のスーパーや商業施設では、当たり前のように音楽が流れています(隣接した店が流す音楽が混ざっていたり、途中でブチっと切れてアナウンスが入ったり、延々販促用の同じ曲が繰り返されたり)。あまり気にしている人はいないかもしれませんが、そうだとすればあまりにむやみに音楽が乱用されていて、慣れてしまっているのだと思います。

『シュタイナー教育の音と音楽』ー静けさのおおいの中でー(吉良創/Gakken)の中に次のように書かれています。

生まれたばかりの赤ちゃんにとって、まず必要なのは「静けさ」というおおいです。これは赤ちゃんだけのことではなく、私たち人間すべてにとって、「静けさ」のある状態は必要であり、つくり出さなければならないと思います。

私はドイツで四年ほど暮らしたことがあるのですが、そのときに感じた大きなことのひとつは、すべての環境が、それまでの私のいた東京の環境よりもずっと静かだということでした。

(中略)

そうした生活が続いていくと、自分の耳が変わってきたことに気づきました。今まで気づかなかった音に気づくことができるようになったのです。

P16-17

人間は外部の情報を得るとき、耳よりも目を使います。五感のうち9割近くが視覚による情報というデータもあります。なので音に対しては案外無頓着になりがちかもしれません。音楽関係や仕事柄耳を使う人、その他普通の人よりは音に注意を向ける人もいると思います。私も日々ピアノを弾きながら音色(音質)に耳を傾けます。ですから、音に対してやや敏感な面もあるかもしれません。

そういった個人差はあるでしょうが、やはり自然を楽しむ植物園は静かである方が望ましいと思います。静かであって初めて気づくことがあるはずです。意識していなくても、鳥の鳴き声や風や葉っぱの音が耳に入ってくるでしょう。自然の音は耳の感性を豊かにしてくれると思っています。

広場の野外ステージだけでなく、アリーナを含むスポーツゾーンも植物園に隣接する敷地に作る計画があり、大会や音楽イベントなどがあるとここも「にぎやか」になるかもしれません。にぎやかなのがだめというわけじゃないのです。植物園の雰囲気が壊されるのが残念なのです。まだ、美術館や図書館ならばいいのにと思います。

以下のサイトで署名を集められています。私も賛同しました。

京都府立植物園が危ない!「生きた植物の博物館」の存続にあなたのお力をお貸しください! The Kyoto Botanical Gardens are in danger!

長い年月をかけて作り上げられてきた京都府立植物園が、今後どうなるのか気になります。

緑のインスタレーション

先日、嵐山へ行ってきました。

もみじの若葉は、紅葉とはまた違った美しさがあり、以前から好きですが、最近「青もみじ」という言葉を聞くようになりました。「青もみじ」という言葉を使った京都観光の案内も見かけるようになり、きっとまた多くの人が観光に訪れるだろうと思っています。

さて、嵐山は今の季節としてはやはり観光客が多い気がしました。「青もみじ」宣伝効果か、それとも単純に京都へ来る人が増えているためかはわかりません。

同じ日に色々行くと印象が混ざるので、今回は常寂光寺をメインにして、あとは周辺を散策しました。

常寂光寺山門から中を見ると、早速、期待していた光景が。かやぶきの仁王門の前に優雅に広がる青もみじの枝。なんと絵になる光景。

それからずっと、感嘆のため息をつきながら庭を散策しました。昔、俵万智さんが「眼福」という言葉を使ってらっしゃるのを読んだことがあるのですが、まさにこういう時、この言葉を思い出します。

目が喜んでいる、いや、目を通して心が喜んでいる。でも、画面とか本ではわからない、その場に身を置いて初めて感じることができる喜びです。あまり意識できてなくても、音やにおいや気温や色々な要素を体全体で感じているんだと思います。コンクリートやアスファルトに囲まれているよりも、生き物としてはやはりうれしいはず?(笑)

常寂光寺

仁王門をくぐった先に見える光景

夫が庭を見て「インスタレーション」という言葉を使いましたが、まさに庭は、石、木、などの自然素材、そして生きた植物を使ったインスタレーション、アート作品なのだと思います。

インスタレーションとは、ウィキペディアでは次のように説明されています。

「1970年代以降一般化した、絵画・彫刻・映像・写真などと並ぶ現代美術における表現手法・ジャンルの一つ。ある特定の室内や屋外などにオブジェや装置を置いて、作家の意向に沿って空間を構成し変化・異化させ、場所や空間全体を作品として体験させる芸術」

これまで、それほどたくさんは見ていませんが、インスタレーションは光、風、音、映像などを使って空間の中で何かを表現するアートと認識しています。庭の場合、普通のインスタレーション作品に比べると、自然がそうなるままにまかせている部分が大きいと思います。季節や時間によって、ほんのひと時も同じ形を留めていない、変化し続けるアート作品。庭師がどうすれば自然を美しく見せられるかという仕掛けをすることで、私たちは自然ってこんなに美しいんだと気づかされる気がします。日本のように豊かな自然のあるところで、どうして昔からわざわざ人工の庭というものを作ってきたのか? やはり自然を愛でるためという気がします。

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木洩れ日が美しい

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境内一番上まで行くと京都タワーも見えます!要するに山ですね(笑)

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シランの花

祇王寺も苔の美しいお寺。二尊院や落柿舎など素敵な場所が近くにたくさんあり、何度来てもその都度違う、見切れないほどのコンテンツに出会います。若い頃には気づかなかったことや考えなかったことが増えていく分、違った感じ方ができて楽しいんだと思います。

 

おまけに、何年か前の6月始めの祇王寺の写真です。

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幻想的な苔の庭

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ここもかやぶきの屋根ともみじの組み合わせ。絵になります。

 

万葉集にもある「美男かづら」

先日、いつも買いに寄ってついつい長話になるお花と丹波のお野菜を売っているお店に行くと、ぱっと目をひく赤い実の植物(切り花)が目に入りました。前も赤い実の色々な植物のドライフラワーをいただいたり買ったりしていますが、「これ何かわかります?」と私が見ていた植物について聞かれました。「美男かづら?」と言うとやはりそうでした。

この秋何度かお花屋さんやお店のディスプレイで美男かづらの植えてあるのを見てすてきだなと思っていました。けっこう高いんですね。実が赤くならないという話も聞きました。
とにかく、気になっていた植物です。そして、またまた「あげましょうか?」と言って、赤い実のついた一本の枝を適当に切ってくださいました。ええ、そんな、うれしすぎる!
それでその時、お店の方が「美男かづら」(さねかづら)が入っている万葉集の歌を紹介してくださって、その時、万葉集の中身についてあまりしらないことに気づきました。

それで、早速図書館で別冊太陽の「万葉集入門」という本を借りました。このシリーズはけっこう写真も多くて読みやすいから好きなんです。それでぼちぼちと読んでいるのですが写真も美しいし、ちゃんと説明もあってわかりやすい。何より新鮮な驚きは、自然をめでたり、人間関係を歌ったり、短い文章の中に生き生きとした表現が感じられることです。
当然かもしれませんが、7世紀あたりの大昔の人も現代の私たちのような感覚を持っていたことが、不思議な感じがするのです。言葉として残っているからそのことがわかる。それよりもっと昔の人たちも変わらないのかもしれない。唱歌の歌詞なども自然を歌ったものがあって、昔の人は感受性が豊かで表現もすてきだなと思っていましたが、もっともっと昔の人も豊かな自然から多くのことを感じ取って、素晴らしい言葉を残している。
一つ、訳も含めて引用したいと思います。

(額田王 ぬかたのおおきみ)
冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来(き)鳴きぬ
咲かざりし 花も咲けれど 山を茂(も)み 入(い)りても取らず
草深(ぶか)み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉(もみじ)をば 取りてそしのふ
青きをば 置きてそ嘆く そこし恨めし 秋山そ我は
(冬ごもり)春が訪れると、今まで鳴いていなかった鳥もやってきて鳴く。咲いていなかった花も咲いているけれど、山が茂っているのでわざわざ山へ入って取りもせず、草も深いので手に取って見もしない。
秋山の木の葉を見れば、黄色く色づいた葉を手に取って賞でる。まだ青い葉はそのままにして色づかないのを嘆く。そのことだけが残念なことよ。
なんといっても秋山に心が惹かれる、私は。

春に対しては淡々と、秋には思いを込めて書いている歌。わかりやすくておもしろい。
このような本もこの歳になっておもしろいと思えるのかもしれない。なんとなく見過ごしてきているものの中にまだまだおもしろいものはたくさんあるのだと思います。

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自然を感じて

今日は大田神社のカキツバタを見て、またそこから近い深泥池まで行って自然を楽しんできました。いずれも歴史が長く、特に深泥池は氷河期以来の動植物が今も生き続けている!という自然豊かな場所です(深泥池といえば、おばけの話が有名で子どもの頃は怖く感じましたが(笑))。
上賀茂神社と大田神社の間にある、藤木社の樹齢500年のクスノキの存在感もすごいです。いつも巨木を見かけると、オーラを感じ、しげしげと眺め、ずっとそこに生き続けていることについて不思議な思いがします。何百年も周りでおこっていることをずーっと見てきてるんだなと思えたり。どうしてもただの木とは思えない(笑)。
ゆっくりと自然と向き合って、色々感じて、また創作などに生かせそうな気分です。