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アルバム『スピリッツ』について

西洋音楽とその他の音楽について」というブログ記事に書いている『キース・ジャレット』を始めとする何冊かの本による影響で、音楽についてどういう風に考えればいいのか、ちょっと混乱しました。つまり、自分の音楽のベースになっていた西洋音楽というものについて、改めて考えたのです。

そんなちょっとしたターニングポイントを経験する中で、印象に残っているものの一つが、キース・ジャレットの『スピリッツ』というアルバムです。キースはライブ録音をそのままレコードにすることも多くて、ものすごくたくさんアルバムがありますが『スピリッツ』はかなり特殊です。

彼自身が、ある期間、クラシックの音楽家たちと演奏を続けていて、即興のない世界、そして求めているものが違う人たちの中で違和感を覚え、やっぱり自分のいる場所ではないと思い、精神的にまいってしまうことがありました(結局その後また彼はクラシックの演奏も続けますが)。そんな中でジャンルで分けられた「音楽界」ではなく「音楽そのもの」を強烈に再認識し、何かにとりつかれたように自然に生まれてきた音楽を集めて作られたのが『スピリッツ』です。これは、素朴な、どこか知らない国の音楽?という感じです(演奏には様々な楽器が用いられています。キースについて驚くべきところはたくさんありますが、色々な楽器を演奏できるのもその一つです。ここではなるべく素朴な音のする楽器が選ばれています)。やはり民族音楽の影響もあるようで、抑えていた彼の思いがほとばしるような印象です。たった一人で豊かな音楽の世界を繰り広げています。

これを聴くだけでも、彼が普通のピアニストとはかなり違うことがわかると思います。彼はこれらの演奏を少しずつカセットテープに録りため(二つのカセット・レコーダーを使い多重録音をしている)、なくしたり壊したりしないように大事に取り扱った彼にとって特別大切な音楽のようです。これらを録音した時期は、二度と訪れることのないような特殊な心境であり絶対に残しておかなければならないと思っていたということです。『スピリッツ』以前と以降の音楽は違うというくらい、重要なアルバムのようです。

キースの再出発の原点となる『スピリッツ』を聴いていると、こちらもインスパイアされそうです。心が解放されるような気分に。こんな音楽を内に秘めながら、ジャズをやったり、クラシックをやったり様々なスタイルで表現しているのですね。深いというか広いというか、ただただ驚くばかりです。

「音楽って何なんだ?」とキースが思い悩むことが書かれている本を読み、私も音楽って何だろう?と改めて考えるにことになりました。難しい「問い」です(;’∀’)。

フィリップさんのピアノはすごかった!

今日は、夫の知り合いの方に誘っていただいたジャズライブに行ってきました。場所はその知り合いのご夫婦が時々開かれているライブハウスで、最初ライブの話を聞いた時、ピアニストがフィリップ・ストレンジさんと知って驚きました。少し前にフィリップ・ストレンジさんと岡田暁生さん共著の『すごいジャズには理由(わけ)がある』を読んでいて、フィリップさんがとてもすばらしいピアニストであると知っていたからです。

そして、実際その演奏を聴いて、思っていた以上でした。テクニック、リズム感など技術的な面も圧倒的に素晴らしいのですが、より引き込まれたのは音楽性と表現力です。ジャズの即興は実際、聴いててよくわからないということも少なくないのですが、フィリップさんの即興は魅力あふれていてその音楽にとても引きこまれる。それがなぜかはよくわかりません。今日のプログラムがスタンダードとか知っていて親しみのある曲が多かったというのもあるかもしれませんが、即興の中に非常に深みのある音楽が盛り込まれている。そして、丁寧で繊細な表現。フィリップさんが弾いている姿を見ながら、どうしたらあのように素敵な演奏ができるか、羨望のまなざしを送り続けていました(笑)。

途中の休憩時、二人のミュージシャンは二人のお客さんと立ち話をしていましたが、夫が行ってきたらというので、うしろで待っていると、どうぞどうぞと輪に入れてくださって、私がフィリップさんに話しかけたらそれからはしばらく二人で話ができました。音楽の話、ピアノの話、キース・ジャレットの話など。フィリップさんがキース・ジャレットの論文を書かれていることを著書で知っていたので。

もう一人のギタリストは、ジョシュア・ブレイクストーンという人で知らなかったのですが(実はけっこうすごそうな人です)、とても楽しい人でした。途中、フィリップさんがめちゃ乗ってきて即興を繰り広げだした時、ジョシュアさんはギターを置いて部屋を出ていきました(笑)。もう、一人でやっといて!って感じで。

ライブハウスは小さな部屋ですが、そのためかアットホームな雰囲気でお客さん同士、そしてミュージシャンとが自然と打ち解けやすい感じで、また普段ジャズを聴かな人でも楽しめるような、優しさと温かみがあっていいライブだなあと思いました。

『キース・ジャレット』より その2

前回に引き続き、また『キース・ジャレット』(Ian Carr著・蓑田洋子訳/音楽之友社)を読んでいて、気になったことについて少し書きたいと思います。

1976年にキース・ジャレットは日本で10回のソロ・コンサートツアーを行っています。このうちの5回分が『サン・ベア・コンサーツ』というタイトルでアルバム化されました。そのアルバムについて、批評家の反応はさまざまだったということですが、その中に、批判的なものもあったということです。そして、それに対して著者は次のように述べています。

このような批評家たちはジャレットの音楽そのものがわかっていない。その大きな原因は、真に価値のある音楽的表現はハーモニーに基づいていなければならないという彼らの思い込みにある。その思い込みのせいで、彼らは世界の音楽のおそらく80パーセントを、そしてまた、キース・ジャレットの音楽の本質的な部分を理解できないでいるのである。リズムはリズムだけでも、演奏さえよければ、音楽的装飾や展開に頼らなくても完全に音楽として成り立つということが理解できないというのは、おそらく、西欧のクラシック音楽の判断基準をジャズと即興演奏に当てはめているのであろう。

「西欧のクラシック音楽の判断基準」を、他の音楽にも当てはめるべきではないという著者の考えについて、改めてそうだなあと思いました。自分に当てはめて考えてみると、他の多くの人たちと同じようにほぼ西洋音楽(クラシック以外も含め西洋音楽理論がベースとなっている音楽)の影響の中で生きてきて、それらからたくさんの感動を得て、自分の作品もそういったことがベースになっていると思いますが、だからといって西洋音楽のルールの中だけでやらなければならないというわけではない。知らず知らずとらわれすぎないよう、もっと自由にやっていこうと思えたのでした。でも、全然知らない民族の音楽のようにはならない。知らない成り立ちの音楽は自然には出てこないから。でも、多くの人と共有できる西洋音楽がベースとなっていることは、それはそれでいいと思っています。

「ぼくは最初の最初から、音楽的には完全に真っすぐ進化して来たと思う。ぼくは、いろんなカテゴリーの音楽を渡り歩いたけれども、それは、その時その時に、それらのカテゴリーが、それぞれ、ぼくの中の音楽に一番近いものに感じられたからだ」

というキース・ジャレットの言葉がありますが、ジャンルにとらわれず良いと思うものを吸収し、自分の音楽を生み出そうとする情熱にはすさまじいものを感じます。読んでいて刺激を受けます!

『キース・ジャレット』より

たまたま図書館の蔵書を検索していて見つけた『キース・ジャレット』(Ian Carr著・蓑田洋子訳/音楽之友社)という本を読んでいます。中身を全く知らずに借りましたが、キース・ジャレットをはじめ、彼の家族、様々なミュージシャンへのインタビューをもとに書かれているので、大変興味深いです。何よりもキース・ジャレットの音楽に対する考え方、向き合い方には好奇心そそられずにはいられません。100ページ以上読みましたが(約3分の1)、気になる箇所はメモをとっています。後から探しても見つけるのが大変なので。この本は欲しいと思いますが、ネットで見た限りではもう普通には売ってない(;’∀’)。中古も高くなっている(;’∀’)。とりあえずまた探してみようとは思っています。

ぱらぱらと見たところ最後の方にとても気になることが書いてあるようで、そのあたりのことをブログに書くことになるかなと思っていましたが、100ページを超えてしばらくして、これは!という箇所が出てきたので(私にとってですが)、それについて先に書こうかなと思います。

ジャレットが古今の最も偉大なインプロヴァイザーのひとりであることは間違いないが、それにもかかわらず、彼の音楽が常に聴衆に何かを語りかけているのは、彼が自分と人々の違いよりも、人々と共有しているもののほうをよく認識しているためであるように思われる。

ナディア・ブーランジェはかつて次のように語ったことがある。「普通のことを避けようとしてむきになってはいけません。そうする人は、人生の外で生きているのです」

ジャレットの強みの一つは、彼は決して普通のことを恐れないということである。彼は、ソロ・コンサートで、リズムに有頂天になり、しばしば、長い間、強力なリズム・パターンを持続させる。

ブーランジェの言葉をなぞるように、ジャレットもこう言うのである。「ジャズは、ユニークでなければならないということになってしまっている。ユニークであることは自己中心的なことである。ぼくの考えでは、人が一番やろうとしてはならないことは、独創的であろうとすることだ。もし、他の八万人の人々とそっくりな響きになるとしても、人真似をしていないならば、それはやはり音楽だ」

彼が民俗(フォーク)音楽や、民族(エスニック)音楽をよく理解しているおかげで、そして彼の持って生まれたメロディーの才能のおかげで、彼の演奏するものの多くは奇妙に親しみを感じさせるが、それでもなお、次々と新しいアイディアが現れてくる。ジャレットのコンサートをあれほど素晴らしいものにしているのは、明らかに親しみを感じるものが、まったく予想もしないものと一緒に並べられているという安心感である。

キース・ジャレットの音楽が独自性がありながら聴きやすいのは、そういう信念を持っているからだということがわかりました。私は、ユニークであろうとすること、独創的であろうとすることを悪いと思いませんが、どちらかと言えばキース・ジャレットの考えに共感します。私など全く次元の違うところでやっていますが、常に「人々と共有しているもの」について意識がいきます。そして、時代の価値観が少しずつ移り変わっていく中で、共有の部分も少しずつ変化していっているような気がしていますが、この本の最後の方でもそういったことについて触れられていることを最初のぱらぱら読みで発見しました。

自分の音楽を探求するということは内に向くことですが、誰かに聞いてもらうことが前提だから外への意識を持ち続けているわけです。その狭間で、音楽って何だろうと思うことがよくあります。

引用部分に「民俗・民族音楽」の話がありましたが、『和声の変遷』(Ch・ケックラン著・清水脩訳/音楽之友社)に次のように書かれている部分があります。

一般に古い民謡には人工的な作意というものがなく、それは《心の声》である。感情の内的な要求である。なぜ民謡がながく世にのこり、その感化力が豊であるかはこのためである。

心を動かすのは心(音楽に込められた)ということでしょうね。個人個人の思い(好きという)によって音楽は受け継がれていき、それは結果として人々の間で共有される。個人のための音楽と共有する音楽について考え、その間を行き来しながら日々音楽に向き合っているような気がしています。

引き続き読みます。

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即興演奏についてなど

「すごいジャズには理由(ワケ)がある」(岡田暁生・フィリップ・ストレンジ著/アルテスパブリッシング)の一番最初にビル・エヴァンスの言葉が紹介されています。

ジャズとは一分の曲を一分で作曲することである。

なるほど。

改めて考えてみればすごいことですね。でも、同時にこうも思います。もしビル・エヴァンスが1分の曲を1時間かけて作曲したら?本人的にはどっちがいい曲になるだろう。もしかしたら、即興の方がいい曲かもしれない。完成度が高くて、どこも触る必要がなくて。でも、1時間あれば、ここをこうしてみようかなとか、また試してみることができる。あれこれやって、やっぱり最初のがいいとか。ショパンは即興が得意だったらしいけど、それを思い出して記譜するのが大変だったとジョルジュ・サンドが言っていたと確かどこかで読みました。

ジャズに限らず色々なピアニストの即興演奏の動画を何度も見ていますが、いつも感じるのが、聴衆が今から目の前でどんな曲を弾いてくれるんだろうという期待に満ちた様子をしていることです。そして演奏中もとても興味深げに耳を傾けている。即興演奏の醍醐味は、目の前でが曲が作られているということではないかと思っています。

私の場合、どう考えても時間をかけて作った方がいいに決まっているのですが、それでも少しでも素敵な即興演奏ができればいいなと思っています。今の所、こっそりBGMの合間にちょろちょろっと弾いたりという程度です。即興演奏しますと言って弾ける日が来るかはわかりません(笑)。

昨年末からジャズピアノの先生(でもジャズじゃない作曲もされている)の所に行きだしたのは、頭の中にある音楽をもっとうまく引き出せないかなという抽象的な願望があったというものあります。先生としてもちょっとどうすべきかわかりにくかったと思います。とりあえずジャズのレッスンですからスタンダードなどを弾いて行く中で、自分の目標に近づくために何をしたらいいかということが少しずつ見えてきて(それはジャズを弾くことでなくて)、自分に課す課題が増え、しばらくはそれらに取り組んでいきたいと思い、レッスンはストップすることにしました。回数は少なかったのですが、先生との会話やレッスンの中で、色々と気づくことができたので感謝しています。

この本の帯にジャズピアニストの南博さんの言葉が紹介されていて、その中に

ジャズ、クラシック、ともに語源は曖昧です。分け隔ての分岐点は、あなたの感性の中にあるのです。

と書かれています。

普通ジャズが弾きたいと言って習いに行くと、ジャズのルールを教わります。当たり前だと思いますが、私の中ではすでに結構色々な音楽が混ざっている、曲も作ってるから、やはりあまりそのルールにとらわれても仕方なくて、ただここ何ヶ月かで、よりジャズとクラシックの両方(さらに他にも?)を行き来できるような感じというのが、なんとなくわかるような気がしています。多分。

「憂鬱と官能を教えた学校」(菊地 成孔,・大谷 能生著/河出書房新社)もジャズやクラシック、民族音楽と横断していて面白い。音楽を俯瞰してみると、一つのジャンルの中にいたらわからないことが見えてくると思います。

たくさん見つかった課題に取り組んで、さて、思うようにいくかそれはわかりませんが、そうやって続けていけばまた何か面白いことがあるでしょう。

 

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歌うピアニスト

キース・ジャレット のジャズにとどまらない音楽性に興味を持って、聴き始めるとこれまでとは違ったように聴こえてきました。先日たまたまSpotifyで彼の「ケルン・コンサート」の中の「パートⅠ」が流れてきました。このアルバムは昔からうちにあって(夫が高校生の時に愛聴していたらしいもの)、ずっと以前に何度かなんとなく聞いたことはあるのですが、それほど興味を持ってませんでした。ところが、今回はちゃんと聴いて、驚きました。なんと、素晴らしい即興演奏!約26分間にわたるこの作品はその場で作ったとは思えないクオリティです。最初から最後までが一つのストーリーのように繋がっていて、何か物語のよう。この時の演奏は楽器が予定と違っていたり、困難な状況の中で行われたようで、それにも関わらず歴史に残るほど素晴らしいと書かれているのを、感動した後で興味を持って調べてみて知りました。以前はそれほど惹かれなかったものに、強く魅力を感じられるようになったというのは私自身が変わったからかな?

キース・ジャレットは歌いながら弾く人で、そのことも以前はあまり好きではなかったのですが、でもこれは、彼の中に歌があるということだなと思うようになりました。オスカー・ピーターソンはまるでボーカルのようにスキャットしてますね。別に実際歌ってなくても、歌の感じられる作品や演奏が結局私は好きなんだと思います。歌とは旋律で、縦方向の和声に対して、横にずっと繋がって流れていくもの。一つとは限らず、二声だったり三声だったり。バッハもショパンも歌が大切と言っていたことをいつも思い出します。

ケルン・コンサートとはまただいぶ雰囲気の違う、キース・ジャレットの静かなアルバムも好きです。昔の曲などのアレンジでは、わりと原曲の雰囲気を大事にしている感じで、そういったところにも共感してます。クラシックも弾くし、彼の幅広い表現に大いに刺激を受けています。

今度コンサートがあれば行ってみたいなと思いましたが、予定はなさそうで、何年か前の大阪のコンサートでは、お客さんが咳をしたりしたことに気分を害して途中でやめてしまったらしい(詳しい事情はわかりませんが)。それは残念すぎる!今度もしコンサートがあるなら、どうしよう?やはり途中まででも聴いてみたいから行く、多分(笑)。

リード・シート

ジャズミュージシャンは普通、リードシートを見て演奏しますね。リードシートにはメロディとコードだけ書いてあって、これがジャズの楽譜。弾く音符が全部書かれているクラシックの楽譜とは違います。私も一応、童謡やその他のポピュラーソングなど、児童館などではメロディとコードだけで弾いてますが、これをリードシートと呼ぶのだろうか?それはわかりませんが、まあ適当といえば適当です。編曲して楽譜にしているのもあります。
レッスンで何度か、ジャズをリードシートで弾くことにトライしましたが、ジャズっぽく、ちょっとでもかっこよく弾くには無理ですね。なんか、ノーマルな無難な選択になってしまう。なので、編曲しています。その方がはるかにバリエーションが増える。その過程で色々とネタを身につけていって、何曲もやってそれでリードシート見て感じよく弾けるようになればいいかなと思ってます。アドリブはどっちでもいいです。もう結局ジャズっぽくないかもしれません(笑)。

デューク・ジョーダンのジャズバラード「TWO LOVES」はアドリブのない曲です。たまたまうちにあった古いジャズの曲集に、これの完全コピー譜があって、弾いてうっとりしています。

記号化について

大晦日に、『憂鬱と官能を教えた学校』【バークリー・メソッド】によって俯瞰される20世紀商業音楽史(菊池成孔+大谷能生/河出書房新書)ーについて少し書きましたが、まだ下巻を読んでいる途中です(なかなかすすまないけど下巻の方がより面白い感じが)。

けっこうページを割いて、コードとモードの話があるのですが、その中に出てくる話で「これは」というのがあります。そう言った箇所が色々あるんですが、その中でも気になった部分です。

記号化について

記号化作業を中心にして現象を斬っていくとさ、すべての現象を記号化できるっていう風な妄想が絶対わいてくるのね。記号化が役に立つのはさ、富士山でいうと七合目ぐらいまで。で、そっから先は遠慮して踏み込まない。っていう風にした方が、どっちかって言うとわれわれの生活上の感覚に合致しているわけなんだけど、えー、七合目まで登ってひき返す山男はいない(笑)。そこに山があるから絶対登るわけですよ。で、富士山なら山頂があるけれど、記号化には山頂がありません。(中略)

記号化を100%達成しよとすると、必ずこういうところに入り込むんですよ。つまり、全部を一覧表にして序列化できるという発想、何かの数的な構造によって事象をすべて捉えようという発想が人間には時折生まれますが、すごくきわめて理論的な当たり前なことを言いますと、数的な秩序で全ての物事を記号化できる唯一の学問は、数学だけです。

本を読んで面白いと思ったり、共感したりするのは、普段から考えていることと接点を感じた時で、この「記号化について」には結構反応しました(笑)。

著者の伝えたかったこととずれているかもしれませんが、ここを読んで思ったのが、(音楽を)記号化できない部分、この部分がけっこう肝というか、本当に難しくて、謎で、秘密な部分じゃないかな? 勉強したってわからない、言語化できない、つかみどころのない。例えば長年愛されている音楽がなぜそうなのか、ある音楽を聴くといつでも心が動くのはなぜか、いくらアナライズしても言葉では理由を説明できないんじゃないでしょうかね。

じゃあ、そこには何が隠されているんでしょう? パッションだったり、愛だったり、感動だったり?? 何でしょう?(笑)

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再びジャズピアノ

今日はジャズピアノのレッスンでした。

昨年、一度別の先生でトライしましたが、普通のジャズピアノ教室は私の求めている所とはちょっと違うかなと思ってすぐにやめてしまいました。先生はいい先生でしたが。

先週初めて今回の先生にお会いする前に、メールで何度かやりとりをしましたが、前回と同じように、「オリジナルを作っていて、ジャズが弾きたいというわけではないんです」と先生を困らせるかもしれないようなことを言いました。もっと自分の表現の幅を広げたいというか、ジャンルにとらわれずに自由にやれればとか、そんなことを話しました。

それに対して先生は、とても好意的で理解のあるお返事をしてくださいました、別にジャズである必要はないし、自分の音楽の可能性を広げればいいと。それで再度トライしてみることにしました。最初お会いした時、先生のCDもくださいました。先生はバークリーを卒業後、長年アメリカで音楽の仕事(ピアノ・作曲)をされてきましたが、一つはブラジルで、一つはアメリカで録音されたものです。この二つはまるで違う雰囲気のアルバムで、先生もジャンルにこだわらず、幅広い表現をされていることがわかりました。どちらのアルバムもとても素敵で気に入りました。私の曲も弾いてと言われたので2曲聴いていただきました。とてもいいと思う、好きですよと言ってくださいました。ほめてくださる先生です。

今日は、「枯葉」やその他知らない曲をやりましたが、とても楽しいレッスンでした。横長のピアノ椅子に並んで座って弾いたり。どんどん挑戦することを勧めてくださる。個人の表現を尊重してくださる。私にはぴったりの先生かも(笑)。

レッスンの帰り道。今日の三条大橋からの眺め。雨がぱらついていましたが、青空。

 

「ゴリウォーグのケークウォーク」は楽しいリズム

以前、たまたまネット上で『ヨーロッパ近代音楽とジャズ和声における相互関係の研究』(著者は山本理人氏:㈱宮地楽器企画管理部/小野貴史氏:信州大学教育学部芸術教育講座)という論文を見つけました。

その中に「ジャズからヨーロッパ近代音楽への影響」という項目あって、ドビュッシーがどのようにジャズの要素を取り入れたかということについて書かれています。興味深いなと思ったのでその中から少し引用します。

「ラグタイムは19世紀後半から20世紀への変わり目で盛んになった。もし当時ヨーロッパ大陸で活動していた近代の作曲家がジャズの影響を受けるとすれば、当然その最初期のものはこのラグタイムであったと推測できる。(中略)パリで活躍したクロード・ドビュッシーは19世紀から20世紀にかけての作曲家であり、彼の作品の中にもジャズに関する言葉がタイトルとして用いられるものがいくつか存在しているし、それらの作品には当然のことながらジャズの手法が取り入れられている。たとえば1906年から1908年にかけて作曲されたピアノ組曲『子供の領分』の第6曲「ゴリウォーグのケークウォーク」を見てみよう。この曲は、人形のゴリウォークが、アフロ・アメリカンのダンスであるケークウォークに合わせて陽気に踊る様子を描いていると伝えられている。つまり、ケークウォークとはダンスの一種だがドビュッシーのこの曲で判断するならばラグタイムの変種であると見て差し支えない。」

この曲の、わくわくする独特の感じはそういうことだったのか、なるほどーと思いました。ラグタイムと言えば、ジョプリンのエンターテイナーのような曲を思い浮かべますが、この曲もその一種ということですね。

ラヴェルもジャズに影響を受けたようですが、この論文にも他の作曲家の名前と共に出てきます。論文にはクラシックとジャズがどのように影響し合ってきたのかというようなことが書かれていますが、ドビュッシーの曲にしても、ラヴェルの曲にしても別にジャズには聞こえないし、それぞれが持つ独特のカラーの中にジャズの要素をうまく取り込んでいるのだなと思います。ショパンはバッハばかり弾いていたらしいけれど、ショパン独特のカラーがある。ビル・エヴァンスも家ではクラシックばかり弾いていたらしいけれど、やはりビル・エヴァンスカラーがある。

いいと思うものを自分の中に取り込んで、表現をより豊かにしていくって、素敵だと思います。