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万葉集にもある「美男かづら」

先日、いつも買いに寄ってついつい長話になるお花と丹波のお野菜を売っているお店に行くと、ぱっと目をひく赤い実の植物(切り花)が目に入りました。前も赤い実の色々な植物のドライフラワーをいただいたり買ったりしていますが、「これ何かわかります?」と私が見ていた植物について聞かれました。「美男かづら?」と言うとやはりそうでした。

この秋何度かお花屋さんやお店のディスプレイで美男かづらの植えてあるのを見てすてきだなと思っていました。けっこう高いんですね。実が赤くならないという話も聞きました。
とにかく、気になっていた植物です。そして、またまた「あげましょうか?」と言って、赤い実のついた一本の枝を適当に切ってくださいました。ええ、そんな、うれしすぎる!
それでその時、お店の方が「美男かづら」(さねかづら)が入っている万葉集の歌を紹介してくださって、その時、万葉集の中身についてあまりしらないことに気づきました。

それで、早速図書館で別冊太陽の「万葉集入門」という本を借りました。このシリーズはけっこう写真も多くて読みやすいから好きなんです。それでぼちぼちと読んでいるのですが写真も美しいし、ちゃんと説明もあってわかりやすい。何より新鮮な驚きは、自然をめでたり、人間関係を歌ったり、短い文章の中に生き生きとした表現が感じられることです。
当然かもしれませんが、7世紀あたりの大昔の人も現代の私たちのような感覚を持っていたことが、不思議な感じがするのです。言葉として残っているからそのことがわかる。それよりもっと昔の人たちも変わらないのかもしれない。唱歌の歌詞なども自然を歌ったものがあって、昔の人は感受性が豊かで表現もすてきだなと思っていましたが、もっともっと昔の人も豊かな自然から多くのことを感じ取って、素晴らしい言葉を残している。
一つ、訳も含めて引用したいと思います。

(額田王 ぬかたのおおきみ)
冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来(き)鳴きぬ
咲かざりし 花も咲けれど 山を茂(も)み 入(い)りても取らず
草深(ぶか)み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉(もみじ)をば 取りてそしのふ
青きをば 置きてそ嘆く そこし恨めし 秋山そ我は
(冬ごもり)春が訪れると、今まで鳴いていなかった鳥もやってきて鳴く。咲いていなかった花も咲いているけれど、山が茂っているのでわざわざ山へ入って取りもせず、草も深いので手に取って見もしない。
秋山の木の葉を見れば、黄色く色づいた葉を手に取って賞でる。まだ青い葉はそのままにして色づかないのを嘆く。そのことだけが残念なことよ。
なんといっても秋山に心が惹かれる、私は。

春に対しては淡々と、秋には思いを込めて書いている歌。わかりやすくておもしろい。
このような本もこの歳になっておもしろいと思えるのかもしれない。なんとなく見過ごしてきているものの中にまだまだおもしろいものはたくさんあるのだと思います。

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童謡は芸術?

昨日は近所の児童館の「ピアノに合わせてあそぼう」の日でした。雨が降ってたけど、10組以上の親子が来られていたように思います。

季節の歌の中に「チューリップ」がありましたが、前日に簡単なアレンジをしておきました。季節の歌のコーナーでは歌を歌って、その後、子供たちが歌の中に出てくる花や動物などの形に切ってある色紙を壁にぺたぺた貼るのですが、その間私はBGMとして適当にその歌を変奏したりして弾いています。

いつものようにBGMを弾いていると、それに合わせて一生懸命チューリップを歌っている女の子がいました。お母さんも一緒に。2歳くらいでしょうか。なんとかわいい。
私もそのくらいの年ごろに歌っていた、たくさんの童謡をずっと覚えています。

インターネット電子図書館「青空文庫」の中の野口雨情の『青い目の人形』の最初に次のように書かれています。

「童謡は童心性を基調として、真、善、美の上に立つてゐる芸術であります。
童謡の本質は知識の芸術ではありません、童謡が直《すぐ》に児童と握手の出来るのも知識の芸術でないからであります。
童謡が児童の生活に一致し、真、善、美の上に立つて情操陶冶の教育と一致するのも超知識的であるからであります。」

「童謡がすぐに児童と握手できる」って素敵な表現ですね。頭で考えて判断するようになる前に、感じて「好き」と思えることは、その子供が本当に好きなことかもしれませんね。
音楽を習う前に、音楽の喜びを知ることはとても良いことだと思います。


私が2歳の頃聴いて、いつも一緒に歌っていたという懐かしいLPレコードです。