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ロシアピアニズムについて

前回ブログで少しご紹介した本『ロシアピアニズム』(大野眞嗣氏著/yamaha music media)の、とりあえず自分が知りたいと思う部分を大体読みました。知りたかった主な部分はロシアピアニズムにおける体の使い方についてですが、後から確認しやすいように、チェックしておきたい個所は書き出しました(あれどこに書いてあったっけ?と探すの大変ですからね)。

ロシアピアニズムの奏法との比較で書かれているのが、従来型(ドイツや西ヨーロッパの奏法)です。その一部をざっくり簡単にまとめてある部分があったので引用します。

従来の奏法 ロシアピアニズム
どこで支えるか 指の関節 手の内側や前腕の筋肉や腱
どのような運動が多いか 指を上にあげる 指を下に下げる
脱力 肘で腕の重さを抜く 手首で腕の重さを抜く
姿勢 椅子を低くし背筋を伸ばす 椅子を高くし前傾姿勢

ロシアピアニズムでは倍音を聴き響かせること、歌うように弾くこと、また間違った使い方で手を傷めないことなどを大事にしていて、そのためには上記のような体の使い方を基本にするということです(細かく言えば4大流派がある)。その他にも肩甲骨や鎖骨を意識することなどについても書かれています。これは『ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと』を読んでから、気にするようになったことです。手以外にも直接見えない体の部分に意識を向けることで、余計な力を抜く練習になります。

この本はクラシック作品の演奏をロシアピアニズムによって追究することを前提に、作曲家やロシアピアニズムのピアニストのことなども書かれています。今の私の目的はクラシック作品の追究ではなく、色々な奏法や体の使い方を改めて研究して、いいと思える部分は試してみて、より自分の出したい音を自由にコントロールできるようになることです。

ピアノは、弦楽器など耳で音を確かめて弾かなければならない楽器と違って、誰がドレミと弾いてもドレミと音が出るんですが、同じ楽器でも弾く人によって全然違う音が出ますよね。著者の大野眞嗣さんは本の中で何度も音色について書かれていますが、私も音色にこだわりたいです。それこそがアコースティックピアノの醍醐味だと思っています。録音すると音質が変わってしまうのは残念ですが……。

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2021年 あけましておめでとうございます

今年もよろしくお願いします。

昨年終わり頃より、改めてピアノのよりよい弾き方について研究しています。これまで以上により手をコントロールして自分の思うままに表現できるようになりたいと思っています。すぐにたどり着いたのがロシアピアニズムです。今このタイトルの本を読んでいます(『ロシアピアニズム』(大野眞嗣著/yamaha music media))。大野さんの名前は以前からネットで何度か目にして知っていましたが、ロシアピアニズムについてあまり詳しくは知りませんでした。

音色を大切にすること、歌うこと、ロシアピアニズムで大切に考えられていることは私も大切に考えていることで、興味をそそられています。より良い音のためにどのように体を使えばいいかは、以前ブログに書いた『ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと』アンスガー・ヤンケのメソードなどとも共通する点があるように思います。

今年のスタートは、これらのことをもう一度おさらいし、さらに追及していこうかと思っています。役立ちそうな内容はブログでもまた書ければと思います。

ベートーヴェンの本 その2

先日、『ベートーヴェンの生涯』(青木やよひ著/平凡社)を読み終えました(改めてもうちょっとじっくり読みたいですが)。いやあ、良かった良かった。

興味深く感じた個所は山ほどあります(笑)。ご紹介しきれませんので、興味のある方は読んでください(笑)。それで、最も強く印象に残った事柄について書きたいと思います。超有名な『交響曲第九番』が生まれた背景についてです。ちょっと固い話と感じられる方はスルーしてくださいね。

著者、青木やよひさんの考察になりますが、まず、ベートーヴェンにとって「神」とは何だったのかという問いかけがあります。彼は「神」というものをいつも身近に感じていた。それは、「人間の良心のよりどころとして」そして、「苦難の癒し手として」。

ベートーヴェンにとっての最初の「神」は、洗礼を受けたボン(ドイツ)の聖レミギウス教会。この教会が属する宗派は「自然への愛好」「人間同士の友愛的連帯」「異教への寛容」を特色としていた。その教会で、ベートーヴェンは少年の頃よりオルガンも弾いている。

その後、ベートーヴェンはキリスト教以外の宗教や様々な思想にも出会う。

「古代ギリシャの詩人たちの作品やカントの自然史研究の理論書などの他に、インドの聖典や宗教書などに深く共感し、それらからの引用を数多く『日記』に書き残していた」

一方で、聖書からの引用は一度もないということ。

ベートーヴェンは第九を作曲する前に「ミサ・ソレムニス」という大曲を書いている。4年の歳月をかけ作り上げたけれど、それに満足できない。その理由をロマン・ロランが「多分彼の神が〈教会〉の神でなかった」と述べていることを紹介。

「人生のモットーとして机上に置いていたのも、エジプトのピラミッドに刻まれた碑文の一部だった。こうした彼の精神世界のありようは、正真のキリスト者にとっては〈異教的〉と見えることだろう」

自由・平等・友愛の精神のもと教会の権威を批判する立場をとるフリーメーソンという組織の会員に、尊敬し親交もあったゲーテ、第九の原詩の作者シラー、モーツァルト、ハイドンなどの他、親しい人たちが名を連ねていたけれど、ベートーヴェンの入信記録は見つかっていない。

「彼自身のアイデンティティーにメーソン的な思想基盤があったことは疑いない。それにもかかわらず入信しなかったとすれば、彼は思想信条は共有するが、いかなる集団の掟にも縛られたくないとする独特の自由精神の持主だったと見ることもできよう」

結局、ベートーヴェンが思う「神」とは、特定の既存の思想ではなかったという見方です。たくさんの素晴らしい考え方、思想を取り入れながらも、一つの思想の下に縛られたくない!ここ、とても共感できます、私。

それで、いよいよ「第九」です。彼にとっての「神」つまり「自分の思想」を音楽によって表現したものがあの曲だったということです。

『第九』は長い人生のさまざまな時期にベートーヴェンの中に宿った、時には対立さえする多種多様な思想や動機が、半ば無意識に合流し統合された作品と言えよう。しかしその方向性は一瞬にし て決ったのだ。『ミサ』から手が離れた時、自分の最後のメッセージは、あれではない、これだ!  と閃いたに違いない。これとは何か? 教会の典礼文ではなく、自分の言葉によって、自分の神に、 生きとし生けるものと共に、喜びにみちて祈ることが可能な音楽に他ならなかった。

(自分の言葉→原詩はシラーの詩「歓喜に寄せて」)

対立する思想さえも乗り越え、喜びを共有することは実際難しいし、理想的すぎるかもしれない。でも、ベートーヴェンのようにどこにも属さず自由な精神であることは(彼自身の思想はある)、色々な考えの人たちとの対話を閉ざさないということだと思う。私も最近ちょうどそのようなことを考えていたので、この本に出会ったのはグッドタイミングでした。

ベートーヴェンは20代から難聴が始まり、やがて聞こえなくなる(それで作曲ができていたことがすごすぎる!)。そして、何度も失恋をし、苦悩する。持病などもあり、様々な困難に直面するけれど、創作への意欲、使命感が何度も彼を奮い立たせる。そしてずっと彼を支えてきたのが、彼が信じる「神」(思想)であり、それが人々と共に喜びを分かち合う大作として結実した。なかなか感動的ではありませんか!

ベートーヴェンの葬儀にはウィーン中から2万人、3万人という規模の市民が集まったということです。彼が音楽を通し、社会にのためにしようとしたこと、それが多くの人の心を動かしたのかもしれません。

ベートーヴェンという人は、思っていたイメージをはるかに超える興味深い人物、偉大な音楽家でした。

 

読んでいる途中から、ベートーヴェンの曲を弾きたい気分になっていました(長らく弾いてなかったしあまり弾くこともないと思っていたけど)。5月末までアルバムリリースの準備をしていたので、終わってからピアノソナタを何曲か弾きました。本を読む以前とではやはり違う気持ちで作品に接しました。新しい発見もあり面白かった。

 

 

ベートーヴェンの本

1日のうち、本を読む時間というのはほとんどないのですが(優先順位をつけるとそうなる)、最近また本を読みたい気分で、隙間時間を使って読んでいます。ながら読書です。主に夜、ドライヤーで髪を乾かしている時間などですが、手も耳も使えないけど目があいているので(笑)、パソコンで電子書籍です。そのあと、iPhoneでも読めるから続きをちょこっとストレッチしながらとか。

他に、最近またオーディオブックやYouTubeの朗読なども聞いています。これは台所で、手と目は料理に使うけど耳があいているから(笑)。特に台所に立つ時間は1日3時間以上はあるかな(片づけにも時間かかるしね)、長いので使わないともったいない。音楽を聴くこともあるけれど、ストリーミングの再生リストを流していると(いちいち手を止めて選んでられないので)、そのうち似たような曲、同じ曲ばかりかかってくるので、聴くのをやめてしまいます。おすすめ機能は気がきいているようで、微妙ですね。そしてまた本を求める。でもそれが続くとまた、活字から解き放たれ音楽で頭をほぐしたいと思ったりするのですが(笑)。台所でそれを繰り返している感じです。

最近読み始めた電子書籍は『ベートーヴェンの生涯』(平凡社)です。ロマン・ロランのが有名だと思うし、安かったし、それを買ったんですが、もう少しみてみると青木やよひさんという方の書かれた同じタイトルの本があり、レビューを見るとかなり高評価。これまでのベートーヴェンの伝記よりも、より細かく調べられていて信頼性が高い内容であるということで、サンプルを読んでみるとこちらの方が良さそうで、結局こちらも買ってそれを読んでいます。

ベートーヴェンについては、音楽家という側面以上に人として興味がありました。詳しくは知らないのですが、音楽(西洋クラシック音楽)を貴族や宗教ためのものから民衆のものへと変えたのが彼であるというようなことについて少し別の本で読んだ記憶があります。それってけっこうすごいことなんじゃないかなと思っていました。

ベートーヴェンの作品は、ピアノソナタを何曲か十代の頃レッスンで弾きましたが、それほど強い思い入れがあるわけでもなく、その後はソナタや他の小品などたまに弾くこともあるというくらいでした。今回はたまたま本を見つけたので、改めてベートーヴェンという人について知ろうと思いました。

他の音楽家の場合もそうですが、ベートーヴェンも生い立ちからすでに興味深い。興味そそられる点が多くて、とても紹介しきれませんが、最初の方はざーっくりこんな感じ。祖父の代から音楽家の家で、幼いころから父に厳しい音楽教育を受け(ほとんど虐待?)、父親よりも才能があり、家は父親が酒に溺れて家計が苦しく、母親が亡くなり、十代で兄弟や父親の面倒を見なければならなくなった(音楽で稼ぐ)という流れの中、それでもベートーヴェンは自分につらく当たってきた父親を受け入れ、大事にした。まずは彼の優しさ(人柄)に感動しました(大人だなぁ)。

即興演奏が得意な少年でしたが、10歳で初めて本格的に作曲を習います。最初の教材はバッハの『平均律クラヴィーア曲集』(いきなり!)。

1783年3月2日付の「マガツィーン・デア・ムジーク」で書かれた記事が、ベートーヴェンについての最初の報道記事で、その中で、11歳(実は12歳)のベートーヴェンが平均律クラヴィーア曲集を巧みに演奏すると絶賛、そして

彼がこのまま進歩を続けるならば、必ずや第二の ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトになるであろう

と書かれていることが紹介されています。ほめちぎりですね!

ベートーヴェンが最も敬愛したのはモーツァルトのようです。モーツァルトとの一度だけの出会いについても書かれています。モーツァルトが内心、若いベートーヴェンの才能を見抜きながらそれを本人に言わなかったのは、認めるのはちょっと悔しかったのかなと思ったりしました。

ハイドンやサリエリにも師事していますね。なんか、すごい。

十代のうちから哲学書なども読み、また音楽教師や他の大人たちからの影響もあり、音楽だけではなく広く思想についても思いめぐらしていたことが、のちのちの彼の生き方につながっていくことに、とても興味を持って読み進めています。

ところで、著者の青木やよひさんってどんな人だろうと検索してみると、びっくり。興味のある人はこちらからどうぞ↓(さらに経歴は別のページに)

青木やよひの部屋

もう亡くなられているのですが、エコロジカル・フェミニスト(この言葉は初めて知りました)ということで、この考え方(エコロジカル・フェミニズム)は大変興味深いです。私も似たようなことを考えたりします。主流のフェミニズムについて詳しくないですが、エコロジカル・フェミニズムの方が問題の本質に迫っていると思えます。性別に関わらず、多くの人がなんとなくおかしいなと感じていることの本質に迫っている。これについては話がそれるし、ヘビーだし(汗)、これ以上ここでは書きませんが。

青木やよひさんが、ベートーヴェンを自分の思想とつながる芸術家と認識して書いた『ベートーヴェンの生涯』は、やはり面白いに違いない(笑)。ますます、期待が高まります。そういう意味ではロマン・ロランも、尊敬できる、共感できる人間として、ベートーヴェンについて書いているようです。こちらの本も持ってるからまた読むかもしれません。

録音の方も日々、取り組んでいます。編曲ものの録音は一旦終え、アルバム曲の録音に入っています。まだまだかかりそう~(汗)。

 

視点を変える力、共感する力

『デンマークの親は子どもを褒めない』(ジェシカ・ジョエル・アレキサンダー/イーベン・ディシング・サンダール著/鹿田昌美訳/集英社)の「Reframing 視点を変える」という章からです。

多くの人は、物の見方を「無意識に選んでいる」ことに気づいていない。自分が見る世界が真実だと思っている。自分にとっての真実、物の見方が、学習によってもたらされた視点(多くの場合は親や文化から受け継ぐ)だとは考えない。単に「当たり前」だと思う。この「当たり前」の設定を「フレーム」と呼び、フレームを通して見た世界が「あなたの物の見方(視点)」である。人は、自分が真実だと認識したことを真実だと感じるのだ。

一人一人が違うフレームを持っているということを認識できれば、他の人をより理解したり、受け入れたりできるのだと思います。

また、別の章に「Empathy 共感力」というのがあります。

エンパシーとは、他人の気持ちに感情移入できる力、共感力のこと。その人の感情を理解するだけではなく、気持ちに寄り添うことだ。

世の中のもめごとや摩擦の多くが「視点を変える力」と「共感する力」が足りないために起こっているのではないでしょうか。視点を変えることができれば、共感できる部分が増えるかもしれない。この二つのことはつながっていると思います。そういったことが基礎にあれば社会はもっと寛容で居心地のいい場所になるのではないでしょうか。

子どもの頃から、視点を変える力、人の気持ちを想像してみる力を養えるよう、大人との会話の中で気づかせてあげられることが大切なのだと思います。

 

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『デンマークの親は子どもを褒めない』を読んで

『デンマークの親は子どもを褒めない』(ジェシカ・ジョエル・アレキサンダー/イーベン・ディシング・サンダール著/鹿田昌美訳/集英社)という本を読みました。今年のイベントに備え、資料を検索していてたまたま見つけました。褒め育てがいいのか、そうでないのか、ということよりも、副題の「世界一幸せな国が実践する「折れない」子どもの育て方」という方にとても興味を持ちました。著者のジェシカさんはアメリカ人で作家で、イーベンさんはデンマーク人で心理学の専門家です。ジェシカさんはデンマーク人と結婚し、アメリカとデンマークの子育てに対する考え方や価値観の違いに衝撃を受けたということです。アメリカでは若いうちから心が折れる人がどんどん増えているということで、子育ての重要性をもっと認識せねばという強い思いを持っておられます。

私は常々、子育てというのは、小さなお子さんのいる家庭だけが抱えるというものではなく、社会が関心を持って、社会で支えていくという意識があっていいと思っています。なぜなら、子どもはみんな大人になり、社会を動かしていく人たちになるからです。子育てに悩みを抱える人が増えているならば、それは社会の問題がそういう所に表れているということかもしれません。私が子育てしていた時は、そこまで考えていませんでしたが、児童館などに通うようになって、子どもに関する本なども読む機会増え、そのことについてより関心を持つようになりました。

この本の序章にはまず、次のように書かれています。

子育ての基盤となるデンマーク的な思想と子育てスタイルが、「レジリエンス(折れない心)を持つ情緒が安定した幸せな子ども」という素晴らしい結果を生みだしている。そして彼らが「レジリエンスを持つ情緒が安定した幸せな大人」へと成長し、ふたたび同じ子育てスタイルで子どもを育てる。

子ども時代はやがて大人になる基礎を形成する時期だから大切ですよね。先日ブログ記事に「長い目で見れば、心が成長し、内面が充実し、精神的に安定していくことがその後何をやるにも支えとなるのだと思います」(「子どもと音楽について考える」より)と書きましたが、これは以前からの私の考えです。

この本には「折れない心」を育てるための考え方がいくつかのテーマに沿って書かれていますが、まず最初は「遊び」の大切さについてです。

デンマークの親や教師が重視するのは、社会性、自主性、団結力、民主性、自尊心。

それらを育てるために、子どもたちが自由に遊ぶことを重視する。子どもが先生や親から干渉されすぎると、自分の内部から沸きあがる意欲を育むことができないということです。

統制の所在(「自分を応援する気持ち」「内側から湧き上がる意欲」)が自分の中にある人は、人生や身に起こる出来事をコントロールする力が自分にあると信じている。モチベーションの源が自己に内在する。一方、外部に統制の所在がある人は、人生は環境や運命といった外的要因にコントロールされており自分では変えにくい、と信じている。モチベーションの源が外部にあるからだ。

統制の所在を自分の内側に持つことによって、様々な状況に対処できる折れない心を育てることになる。そのためには子どもが自由に遊ぶ中で自らが感じ、考え、行動する力をつけることに対し、あまり干渉しすぎずに見守る必要があるというのが、デンマーク人の子育ての考えのようです。

これは、私自身の子育ての時にも考えていたことです。子育てはわからないこと、迷うことがたくさんありましたが、遊びから、自主性や創造性や協調性など多くのことを学ぶのだと、日々遊ぶ子どもたちを見ながら思っていました。

教育については色々な考え方があると思いますし、またそれぞれの家庭によって事情も異なると思いますが、特に幼いうちの「自由な遊び」は習い事や勉強に比べて無駄かと言えば、むしろそちらの方が大切なのではと思います。ただ、今どきはスマホやらゲームやら色々あって、また安心して遊べる場所が減っているなど、どうやって子どもたちを遊ばせるのがいいのか、という問題もありますよね。そういったことも各家庭の問題で片づけるのではなく、本当は社会が子どもにとって望ましい環境とはどういうものか、ある程度共通の認識を持って、それを整える必要があるのだと思いますが、ちょっとハードルが高いのだろうなというのが正直な気持ちです。でも、少しでも良い方向に向かうことを願います。

この本について続きがまた書ければと思います。

ちなみに、2016年にこんな記事を書いていました。『「遊び」は大切

興味のある方はお読みください。

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子どもと音楽について考える

毎月児童館で、かわいい小さな子たちを見ていて、みんな元気に成長して幸せになってほしいなあと思います。一緒に音楽遊びしたことが記憶のどこかにいい思い出として残っていてくれたら最高ですが、多分小さすぎて思い出すことは難しいでしょうね。それでも、一つ一つの経験が何かしら頭のどこかにインプットされるはずと思うので(赤ちゃんはあなどれない!)、それがポジティブな感情として残るといいなと願います。

たまたま、親御さんに連れてこられて来るわけだから、この子たちがみんな音楽好きかはわかりません。中には子どもが音楽好きなんですと言われる親御さんがいらっしゃったり、子ども自らピアノに興味を示したり、音楽に積極的に反応するということもあります。もし、この子たちがこれから何かの形で音楽に関わっていくとしたら、それはどんな方法がいいのか、それはいつも考えていることです。できれば幸せな音楽との関わり方ができる方がいい。でもそれは、その子どもによってそれぞれ違うと思います。

『音楽気質』(アンソニーE・ケンプ/朝井知訳/星和書店)の「音楽的才能の発達」という章に書かれている気になる部分を少しまとめました(翻訳文であるためちょっとわかりにくいかもしれませんが)。

あまりに早すぎる、例えば、目標を定めた活動などという外来的な動機の強化は、より本来的な「芸術的かつ情緒的な感受性」を抑制してしまう可能性がある。

子どもに対して、何の要求もなされない、落ち着いた、恐れのない環境が、音楽が、個人に最も強く情緒的な影響を及ぼすためには必要であるのだろう。

子どもに楽器などを習わせる場合、技術の習得という目に見える目標についつい気持ちがいって、少しでも早くと思いがちかもしれませんが、あまりあせらず、内面の成長にも心を配ることが大切だと思います。遊びの中でも音楽に接したり、楽しんだりすることはできるから、まずは自発的に音楽に関わる様子を見守って、その子にどういった音楽環境がふさわしいのか考えてもいいのかもしれません。遊びの中なら楽しんでいても、いざ習わせたら興味を失うということもあると思いますが、それは音楽が嫌いというわけではなく、指示されてやるのが嫌なだけかもしれません。そういった子にも音楽性をはぐくむ可能性はあるだろうから、違った方法をとってみるというのもいいんじゃないでしょうか。結局もっと別のことに興味を持つかもしれないけど、何が好きかは自分が一番わかってるんだから、それでいいと思います。これは音楽以外でもそうでしょう。

音楽や芸術分野に限らず、感受性をはぐくむのはとても大事だと思います。特に今のような物や情報があふれた混乱した時代では、何が本当に大切で必要なものか、それを感じられる力をつけることが生きていくために重要だと感じます。長い目で見れば、心が成長し、内面が充実し、精神的に安定していくことがその後何をやるにも支えとなるのだと思います。

サン・テグジュペリの『星の王子さま』に、

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」

という言葉がありますが、わかりやすいメッセージだと思います。この物語が書かれた時代よりも、今はもっと肝心なことが見えにくくなっているでしょう!

音楽が好きな子がどのような形で音楽に関わるのがいいのか、それは、既存のやり方以外にも可能性はあるのではと思っています。これからもそれについて考えながら、機会があればまた話したり、書いたりします。

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西洋音楽とその他の音楽について

明治時代に日本の近代化に伴い、西洋音楽も導入され、それまでの日本の音楽が西洋音楽に取って代わられたというような話はたまに聞きます。それまでの日本の音楽と言えば、民謡やわらべうた、雅楽などの古典音楽でしょうか。西洋音楽とはつくりが全然違う音楽ですね。なので取って代わられたというよりも、それまでなかったジャンルの音楽が入ってきたという方が近いんじゃないかなという気がします。そして西洋音楽は、文部省唱歌のような形にして日本人が親しむよう仕向けられたからという理由だけではなく、やはり魅力があったから定着したのではないかと思います。当時の日本の作曲家たちも、理屈抜きでクラシック音楽を聴いてその魅力に惹きつけられたという話をこれまで何度か読んでいます。

西洋音楽は、合理化を優先し、十二平均律によって隣り合う音の音程を均等に整えてあり、民族を超えて共有するにはとても便利にできているんですね。また、閉じて秘伝にするというよりもオープンにして共有するというのも西洋文化の特徴の一つであると思います。日本に限らず、西洋音楽が他の非西洋の国々でも受け入れられているというのは、音楽の魅力に加え、そういった西洋音楽の性質によるところもあるのではないでしょうか(そういえば平均律の発明が音楽の商業化の始まりであるというようなことが『憂鬱と官能を教えた学校』(菊地成孔+大谷能生/河出書房新社)に書いてあったことを思い出しました)。

でも、もともとあった音楽よりも西洋音楽を好んだからといって、各地方にあった、民俗・民族音楽が、西洋音楽の前では価値がないのかというと、そういうことでは全然ないはずです。世界の音楽全体を見たら、西洋音楽も音楽のうちの一つの種類なんですよね。

そういう風に改めて考えるきっかけとなったのが、最近読んだ『キース・ジャレット』(Ian Carr著・蓑田洋子訳/音楽之友社)、『サステナブル・ミュージック』(若尾裕/アルテスパブリッシング)、『親のための新しい音楽の教科書』(若尾裕/サボテン書房)と、読みかけで返した(再び取り寄せ中)『ミュージッキング』(クリストファー・スモール/水声社)です。

これらの本の中で、共感できること、新たに考えさせられたこと、そしてちょっと違うんじゃないかなと思えること(あまりネガティブに考えても仕方ないと思えることなど)もありますが、共通して言及されているのは、西洋音楽(特にクラシック)の音楽全体に対する位置づけについてだと思います。あまりに権威化していて(そもそも西洋クラシック音楽の始まりは宗教や貴族などのためであったし)、音楽本来のあり方からかけ離れてしまっているのではないかということです。作品や作曲家そのものへの批判ではなく、とらえられ方についてですね。それを絶対視して他を批判したり、階層の一番上と考えたりすることに異を唱え、複雑で難しいものがより価値が高いという価値観に対し疑問を投げかけています。

これは、単に音楽ジャンルとか種類だけの話ではなく、誰もが人生や音楽を楽しむ権利があるという意味で、どれも等しく価値があるということにつながっていると思います。

色々と影響を受けたこともあり、最近改めてクラシックの中でも民族音楽色のあるものを弾いてみたり、これまでお店でもあまり気に留めていなかった無印で使われている民族音楽をネットで改めて聴いてみたり、色々と探っています。面白いです。

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『キース・ジャレット』より

たまたま図書館の蔵書を検索していて見つけた『キース・ジャレット』(Ian Carr著・蓑田洋子訳/音楽之友社)という本を読んでいます。中身を全く知らずに借りましたが、キース・ジャレットをはじめ、彼の家族、様々なミュージシャンへのインタビューをもとに書かれているので、大変興味深いです。何よりもキース・ジャレットの音楽に対する考え方、向き合い方には好奇心そそられずにはいられません。100ページ以上読みましたが(約3分の1)、気になる箇所はメモをとっています。後から探しても見つけるのが大変なので。この本は欲しいと思いますが、ネットで見た限りではもう普通には売ってない(;’∀’)。中古も高くなっている(;’∀’)。とりあえずまた探してみようとは思っています。

ぱらぱらと見たところ最後の方にとても気になることが書いてあるようで、そのあたりのことをブログに書くことになるかなと思っていましたが、100ページを超えてしばらくして、これは!という箇所が出てきたので(私にとってですが)、それについて先に書こうかなと思います。

ジャレットが古今の最も偉大なインプロヴァイザーのひとりであることは間違いないが、それにもかかわらず、彼の音楽が常に聴衆に何かを語りかけているのは、彼が自分と人々の違いよりも、人々と共有しているもののほうをよく認識しているためであるように思われる。

ナディア・ブーランジェはかつて次のように語ったことがある。「普通のことを避けようとしてむきになってはいけません。そうする人は、人生の外で生きているのです」

ジャレットの強みの一つは、彼は決して普通のことを恐れないということである。彼は、ソロ・コンサートで、リズムに有頂天になり、しばしば、長い間、強力なリズム・パターンを持続させる。

ブーランジェの言葉をなぞるように、ジャレットもこう言うのである。「ジャズは、ユニークでなければならないということになってしまっている。ユニークであることは自己中心的なことである。ぼくの考えでは、人が一番やろうとしてはならないことは、独創的であろうとすることだ。もし、他の八万人の人々とそっくりな響きになるとしても、人真似をしていないならば、それはやはり音楽だ」

彼が民俗(フォーク)音楽や、民族(エスニック)音楽をよく理解しているおかげで、そして彼の持って生まれたメロディーの才能のおかげで、彼の演奏するものの多くは奇妙に親しみを感じさせるが、それでもなお、次々と新しいアイディアが現れてくる。ジャレットのコンサートをあれほど素晴らしいものにしているのは、明らかに親しみを感じるものが、まったく予想もしないものと一緒に並べられているという安心感である。

キース・ジャレットの音楽が独自性がありながら聴きやすいのは、そういう信念を持っているからだということがわかりました。私は、ユニークであろうとすること、独創的であろうとすることを悪いと思いませんが、どちらかと言えばキース・ジャレットの考えに共感します。私など全く次元の違うところでやっていますが、常に「人々と共有しているもの」について意識がいきます。そして、時代の価値観が少しずつ移り変わっていく中で、共有の部分も少しずつ変化していっているような気がしていますが、この本の最後の方でもそういったことについて触れられていることを最初のぱらぱら読みで発見しました。

自分の音楽を探求するということは内に向くことですが、誰かに聞いてもらうことが前提だから外への意識を持ち続けているわけです。その狭間で、音楽って何だろうと思うことがよくあります。

引用部分に「民俗・民族音楽」の話がありましたが、『和声の変遷』(Ch・ケックラン著・清水脩訳/音楽之友社)に次のように書かれている部分があります。

一般に古い民謡には人工的な作意というものがなく、それは《心の声》である。感情の内的な要求である。なぜ民謡がながく世にのこり、その感化力が豊であるかはこのためである。

心を動かすのは心(音楽に込められた)ということでしょうね。個人個人の思い(好きという)によって音楽は受け継がれていき、それは結果として人々の間で共有される。個人のための音楽と共有する音楽について考え、その間を行き来しながら日々音楽に向き合っているような気がしています。

引き続き読みます。

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ピアノのための和声は?

ピアノのための和声の本というのは、演奏者向けのものは多少あっても、作曲のためのというのはあまりないように思います。和声の本を読んでいてよく感じる疑問(色々ありますが)のうちの一つがピアノ曲の場合どうなの?ということですが、それについていくつか書かれている文章をご紹介します。

一つは、以前もブログに書いていますが、『実用和声学』(中田喜直/音楽之友社)からのものです。中田喜直さんは「夏の思い出」や「ちいさい秋みつけた」なども作曲された方です。

ピアノは音楽の基本的な楽器である。もちろん和声学もピアノを使って勉強するが、和声学はピアノのためのものではないので具合が悪い。和声学はその名の通り、和音の中の一つ一つの音を独立した声部として扱い、その声部の動きを厳格に規定したものであるから、混声合唱か、異なる楽器の四重奏でやらなければ本当に理解できないわけである。

平行八度や平行五度の禁則は、そのようにすればある程度理由はわかるが、ピアノで弾いたのでは悪く聞こえない場合が多い。

また、『「なぜ?」が分かるとおもしろい和声学』(川崎絵都夫・石井栄治共著/FAIRY inc)には次のような記述があります。

器楽曲は通常、声部という考え方で作曲されていないので、和声学よりも自由な書法になることが多い。

ある和声学関係の本に、モーツァルトのピアノソナタの譜例をあげて、平行五度が使われているがうっかりミスか?と書かれていました。私は音楽的にそれがミスとは思えないし、そんな例はピアノ曲にたくさんあって、ということは別に問題はないことではと思いましたが、『「なぜ?」が分かるとおもしろい和声学』にも別のモーツァルトピアノソナタを例に、連続8度だが禁則ではないと説明されています。そもそも和声学でピアノ曲を分析するのはどうかということですね。

その和声理論についても

いわゆる機能和声理論は、バッハからロマン派までの音楽語法を矛盾なく包摂しうる高度に体系化された理論であるが、時代がより近代に近づくにつれて、それによって説明しきれない音楽の例が増大してくるのである。(『近代和声の機能理論への試み』(橋本正昭・高野茂著)より)

と書かれているように、ドビュッシーあたり以降から当てはまらないものが増えてきて、どう考えればいいかややこしくなってくるわけですね。

古い和声学と近代の和声についてどう考えればいいのか、シャルル・ケックランの『和声の変遷』(音楽之友社)に書かれていることが面白いです。この本は昭和43年に出されたのが最後で、何年か前古本で見つけました。もう茶色くなっていますが貴重な資料です。ケックランはドビュッシーやフォーレの曲のオーケストレーションをやったこともある人です。本の中から興味深い箇所をいくつか引用します。

「決して過去のものを軽蔑したり、素朴なスタイルを軽んじたりしてはならない」

「芸術家があらかじめ、人の踏んできた道をさけようと考えたところで、決して独創的になったといえない」

「芸術家が斬新で個性的であるという特権を持とうとするには、ありきたりの和音を一生懸命さけたからといってそうなるものでもない」

「私たちの知っている和声学はその時代のすべての音楽の法則集でもなければ、過去の音楽の法則集でもない」

「作曲にあたっては、和声技法について≪固定した法則≫などというものはないことは明白である」

「決まりは相対的なものであり、わずらわされないことが大切である」

などなど、和声についてどのように考えればいいかというヒントがたくさんです。抽象的ですけどね。

色々な音楽家の考え方に触れながら、自分なりに学んでいければいいのかなと思っています。

 

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