クラシック」カテゴリーアーカイブ

感じ方が変わった??

今日はちょっと「あれっ」と思ったことがありました。何年かぶりにアルベニスの『プレガリア』という曲を弾いたんですが(弾くと言っても練習してないから、ゆっくり確かめるように)、以前はどうしても「泣ける」曲だったのが、今日は泣かなかった(笑)。弾く前からそんな予感はしていましたが、やはりその通りだった。

以前、ブログにこの曲について書いたことがあるんですが(『いつか弾きたい曲』)、なんか謎に琴線に触れる曲で、涙で譜面が見えない(だからまともに弾けない)という珍しい曲でした。

弾いてなかった何年かの間に、私に何が起こったのだろう(笑)。鈍くなったのだろうか(汗)。いや、先日『大きな古時計』を弾いていて泣きそうになったよ(笑)。

今日は必要以上に感情に流されず、曲をじっくり味わうことができました。ゆっくりと歌うように響きを聴きながら弾くのはとても心地がいい。考えてみれば、前述の記事を書いたころに曲を作り始めています。それから少しずつ音楽に対する向き合い方も変わってきた。それで、今日は作品としての興味も感じながら多少冷静に接していたと思います。それが理由かはわかりません。無意識の中で起こっていることは、わからないものだと改めて認識したのでした。これで、また機会があったら弾くことができそうです。

ちなみに、ずっと前に書いた『どうして涙が出る?』という記事は、私のブログ記事の中で最も読まれている記事です。今日は「どうして涙が出ない?」です(笑)。

シューマン「子供の情景」

ふと、シューマンの「子供の情景」が弾きたくなり、とても久しぶりに弾きました。「子供の情景」は短い小品ばかりですが、バラエティに富んでいるしポリフォニックで素敵な曲がたくさん。一般にはトロイメライくらいしか知られていないのではと思うのですが、もったいない。

「子供の情景」は子供のために書かれた曲集ではなく、シューマンがクララと結婚する前、早くクララと結婚して子供のいる家庭を築きたくて待ちきれず作ったという話を、昔ピアニストの宮崎剛さんのレクチャーコンサートで聞いて笑ったのを覚えています。

日本語のタイトルは次のようです。

1.見知らぬ国と人々について
2.不思議なお話
3.鬼ごっこ
4.ねだる子供
5.満足
6.重大な出来事
7.トロイメライ
8.炉辺で
9.木馬の騎士
10.むきになって
11.こわがらせ
12.眠っている子供
13.詩人は語る

ぱっと見たらおとぎ話のタイトルのようですね。トロイメライだけは日本語に訳されてないですが、「夢」という意味だそうです。

シューマンは文学への造詣も深く、文才もあり、作家になるか音楽家になるか迷った時期があったというくらいで、言葉に対するこだわりが「子供の情景」以外の彼の曲のタイトルからも感じられます。

シューマンは同じロマン派のショパンと同年代で、どちらもバッハを熱心に勉強したようですが、この二人の音楽はかなり違うというのが面白い。ショパンは曲ごとににタイトルをつけない派であるのに対し、シューマンはつける派。タイトルのバリエーションが豊富なのと曲のムードのバリエーションが豊富なのと関係あるのかな?と改めて思いました。

シューマンの本は持ってますが(一度は読んでいますが)、この記事を書くにあたり、調べたいことがどこに書いてあるか探すのも大変だからウィキペディアを見てみると、シラーやゲーテにに強い思い入れを持っていたことを見つけて、ベートーヴェンと同じだなあとまた興味を新たにしました(ベートーヴェンの本 その2)。

「子供の情景」だいぶ色あせてしまっています

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ソノリティのある音とは?

「ソノリティ」という言葉をご存知でしょうか?

『目指せ!耳の達人~クラシック音楽7つの”聴点”~』(宇野功芳/山之内正著/音楽之友社)の中の、「Ⅴ 録音はどこまで音楽を伝えるか」という章の中にその言葉がでてきます。一部引用します。

泣けるpp

(前略)

宇野 ぼくもppの効果は実感していますが、本当のppというのはホール全体を満たしていくものだと思っています。それは演奏者がffを出すのと同じくらいの気迫を持って出す必要がある。ただ弱くしただけではあの効果は出ないんです。ppがきちんと表現できる演奏家というのは、優れた演奏家だとぼくは思います。

山之内 ただ音を弱くすると音色的に破綻しますから、そうならないよう響きを保ちながら、でも息を飲むようなppを出すということですね。

宇野 最近のピアニストではアリス=紗良・オットのppが凄かったなあ。《エリーゼのために》を全部弱音で弾いたのですが、これは美しかった。聴こえるか聴こえないかくらいの音量なのですが、ソノリティがあるのでぐっと来るんです。ところが、CDだとただ弱いだけに聴こえてしまう。内田光子がアンコールで弾くモーツァルトの《ソナチネ》第2楽章も全部弱音で、あれにもだいぶ泣かされました。

山之内 でも、その場で聴かないと、素晴らしさが伝わらない。

宇野 マイクに入らない演奏というのもあると思う、ぼくは。

山之内 弱音もそのひとつですね。

宇野 でも、だからこそ良いんですよ。

ソノリティは、この本によると「声と楽器の響きや聴こえのこと」で、優れたソノリティとは、明瞭で聴き取りやすい音のことだそうです。

朝比奈隆さんがリハーサルで「pでもソノリティがない音はダメだ」と言っていたという話も紹介されています。

実は、以前この本は一度読んでいて、ソノリティという言葉は忘れていましたが、小さくて美しい音の話が印象に残っていました。

クラシックでは小さい音から大きい音まで、とても幅が広い表現がありますが、自分のオリジナルではあまり大きな音で弾くことは多分ないので、特に小さな音を丁寧に表現していけたらと思っています。

 

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お寺でバロック

日曜はパブロ・エスカンデさんと三橋桜子さんご夫妻からご案内いただいたコンサートに行ってきました。場所は京都市左京区の法然院。哲学の道の途中から東へ坂を上がって行った奥にあります。哲学の道へは時たま行くことがありますが、法然院は久しぶりです。山門がとても素敵。来月になれば、紅葉で人もたくさんでしょうが、夕方近くということもあってかそんなに多くはなかった。でもコンサートには多くの人が来られていました。
今回のコンサートは、初期バロックの作品ばかりで、お二人の他にバロックの演奏家が二人いっしょに演奏されました。チェンバロの他、バロックギター、テオルボ、コルネットなど初めて見たり聴いたりする楽器がありました。パブロさんがオランダから船で送ったという小さなパイプオルガンも。
お寺の本堂の真ん中にチェンバロがある光景はなかなか不思議な感じでした。他の部屋より天井が少し高く、端に向って少し丸みをもたせてあり、思っていたとおり、柔らかないい音がしていました。
今回演奏された初期バロックの作品は、作曲家も曲も知らないものばかり。でも、全体的に優しい音色、歌も含めた楽器の音の溶け合う美しさ、趣向をこらしたプログラム、知らない楽器への興味などからとても楽しめる内容でした。
近頃は、トークも充実しているとよりコンサートの満足度も高まる感じがしますが、今回も初期バロックの作品や楽器などについての説明がたくさんあって、おもしろかった。
バロック時代は即興演奏もさかんで、八分音符を三連符のように弾いていたということは本で読んだりしていました。そういう演奏も聴いたことあります。これは後のジャズのようですが、今回のお話でバロック時代の即興も何かインスピレーションを得て演奏するというよりも、たくさんのフレーズをストックしておいて演奏する時に引き出しからそれを取り出すというようなことを聞いて、そうか、ジャズもそうやって学習すると聞いたな、と思ったのでした。今回の演奏でも、即興演奏の部分があったようですが、もともとの曲を知らないので、どの部分がそうか、ちゃんとわかりませんでした。
休憩時間に、少しパブロさんと話せたので、最近ジャズを勉強しはじめたと言うと、すぐに何が言いたいかわかってくれたようでした。今日のコンサートとの接点。初期バロック作品はより自由な感じがする(クラシック音楽の中で)ということについて共感できました(夫も)。
コンサートの始めに、住職の法話みたいなのが少しあって、仏教は宗派が違ってもそれを認め合う寛容さがあり、それは大切なことであり、日本のお寺でヨーロッパの音楽が演奏されるのも意義深いことであるというようなことをおっしゃってました(おおざっぱな記憶ですが)。
お寺でバロックは、期待通り、いやそれ以上に素敵でした。

「自由」について

金曜日の夜、ある人のプライベートパーティーに呼ばれて行ってきました。そこであるフランス人の女性と話をしました。彼女は長年日本に住んでいる作家で、日本の文化にもかなり詳しく、もちろん日本語も普通に話します。色々な話をしている中で、「自由」がテーマに……

私は、クラシック音楽から色々なことを学んできましたが、クラシック音楽は「こうあるべき」という観念が強いジャンルだと思うし、そういった意味で本来自由に楽しむはずの音楽とのかい離を感じることもありました。バッハにしてもモーツァルトにしても、特に古い時代の作曲家はそこまで後世の人に対して、こう演奏してもらわないと困るという思いはなかったのではと思います。原典版もあまり何も書いてないですものね。

『正しい楽譜の読み方』(大島富士子著)という本の中にも、バッハの時代は、楽譜を、自分を知っている、自分の音楽を理解できる人間のためにだけ書いたので、細かい指示はなかった、ということが書かれています。その頃の作曲家はまさか、自分がいなくなって何百年たっても自分の曲が演奏され続けるなんて夢にも思ってなかったのではないでしょうか?
今では、演奏解釈についての本がたくさんあって、それらを読んでいるとある程度の共通認識もあり、「こう演奏するべき」という基本的な「きまり」のようなものは、歴史の中で構築されていったような感じがします。

ピアノ教室などでもそのようなきまりは、ある程度共通しているように思えますし、もちろん、その中から学ぶこともたくさんあると思います。長年かけて研究されてきたことには価値もあり、それらを自分の糧にすることは大切なことだと思います。
ある程度の解釈の自由というものがあると思いますが、それもあくまで当然オリジナルを尊重したものであるべきというのが、一般的な考え方ではないでしょうか?

クラシック音楽の素晴らしさを享受しつつも、私が曲を作りだしたことは、「自由」を求めた必然だった気もします。自分の曲なら、このように弾かなければならないということはないわけで、どのように弾くのがよりいいか、弾きながら自分で考えていけばいいわけですし。でも、凡人だから長年の経験や学びがなければ、このようなことはできなかったと思っています(別にたいしたことはしてないのですが💦)。

今でもクラシックの曲を弾いて学びつつ、自分の曲を弾くことで精神の自由を感じているというようなことをフランス人女性に話すと、自分の曲でも繰り返し弾くのなら、即興演奏でない以上、自由ではないのではという感想がかえってきました。さすが、「自由」にこだわるフランス人!かもしれません。
確かに、曲を作っているときが一番自由を感じているかな。でも、演奏してる時もです。何を自由と感じるかは人それぞれなのかもしれませんね。

 

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モーツァルトを弾いて思ったこと

今日は久しぶりにモーツァルトをたくさん弾きました。毎日毎日ピアノを弾いたり、曲を作ったりしていると、少しずつ自分が変化していて、そのことを今日モーツァルトを弾いていて感じました。新たな気づきがあり、でもそれが具体的に何かというと難しく、ただ、この巨匠から学ぶべきことはまだまだたくさんあると思いました。当たり前でしょうけど。
音楽が前へ前へと進んで行く中でおこる心理面への影響は興味深い。わくわくしたり、はっとしたり。何がそうさせているのか、それを弾きながら感じることが私の学び方のひとつです。
日々の変化はわかりにくいけど、ある程度の時間が経過して自分が以前と変わったと実感できた時はうれしい。人との比較ではなく、自分が変わっていけることがおもしろい。こんな調子でやっていけたら幸せです!

バッハを弾く

ダニエル・バレンボイムは『バレンボイム音楽論―対話と共存のフーガ』の中で「私はバッハで育った」と書いています。またバレンボイムの親友であるエドワード・サイードも『サイード音楽評論 2』の中で

「ショパンもシューマンもリストも、さらに彼らに先立つベートーヴェンもモーツァルトも、みんな揃って『平均律クラヴィーア曲集』で育ったようなものなのである」

と書いています。

また、シャルル・ケクランの『和声の変遷』の中の「近代の対位法技法」の中でも、

「近代では、どの若い作曲家もバッハを研究しないものはないし、また―各人各様に―バッハの影響を受けないものはない」

と書かれています。

ショパンがいつも平均律クラヴィーア曲集を弾いていたという話は有名だと思いますし、シューマンを弾けばバッハを研究してたんだろうなと感じられます。

良さそうなことはまねをした方がいいかなと思うし、私も平均律クラヴィーアやその他のバッハ作品は毎日弾いてますが、一体なんと果てしない音楽の世界がその向こうにあるのだろうとただただ思うばかりです。
以前に分厚い本も買って最初は張り切っていくらか読んで、その後はまあまあ…。
とにかく何より弾くことによって音楽を感じ、旋律と和声の絶妙なバランスに触れ、自分の感性が磨けたらなと願っています。地道にこつこつと、でも楽しい!

 

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ラ・フォル・ジュルネびわ湖2016へ

今日は母とラ・フォル・ジュルネびわ湖へ行ってきました。1週間ほど前に急に行くことになって、昼間のオーケストラのコンサートはすでに売り切れていて、残席わずかのレ・パラダンのフレンチバロックコンサートのチケットを予約しました。
ホールに到着した時は、メインロビーでシマノフスキの「神話:3つの詩」という曲がヴァイオリンとピアノで演奏されていました。すでに多くの人が集まって聴き入っていました。
この場所での演奏は、横の喫茶コーナーから食器の音が聞こえたり、子どもたちが走ってたりするわけですが、その気楽さがいいなと思います。生音の迫力、魅力は多少の雑音には負けませんね。
これを聴き終わってしばらくして、予約していたコンサートのホールへ向かいました。

楽器はチェンバロとヴィオラ・ダ・ガンバとオルガン。そして歌。チェンバロ奏者はとても軽やかに奏でていましたが、あの楽器は一度弾いたからわかるけど、ピアノと音の出る仕組みが全然違って、鍵盤を押すとお琴みたいに弦がはじかれて音がでるから、鍵盤を押したときに引っかかった感じがしてとても弾きにくく、ピアノを弾くようには弾けない!ということを母に説明しました。
私の横には小さな男の子がいて、その横にその子のお母さんが座っていました。男の子はコンサートが始まる前からそわそわしていて、始まってからも落着きがなく、大丈夫かなと思っているとしばらくしてお母さんが男の子を抱っこしました。すると、とてもおとなしくなって、ちらっと見るととても安らかな顔ですっかりお母さんに体をあずけています。音楽もよかったですが、なんかそのほのぼのした様子にじーんときました。お母さんも普段はなかなか何もせずにじーっと抱っこしている機会はあまりないかもしれないし、親子にとっていい時間なんじゃないかなと勝手に思っていました。ラ・フォル・ジュルネの良いことのひとつは小さな子を連れてこられることでしょうね。お金を使わなくても、メインロビーのコンサートだけでも楽しめる。お子さんに生音を聴かせてあげるいい機会だと思います。
前回来たのは2年前ですが、久々に来てやはりいい音楽祭だなと思いました。

グリーグ節?

昨日スタジオで録音したのは、昨年作ってすでに家で録音している曲ばかりで、今も何曲か作りかけていますが、なんとなく気持ちを新たにしたいような心境で、はたと、グリーグの「抒情小品集」を弾こうと思いました。
どの作曲家の作品もですが、曲を作り出してからはそれ以前よりも興味深く感じられます。
グリーグの抒情小曲集は短めの曲ばかりで、私が曲を何曲か作った頃に私の抒情小曲集を作っているような気になったことがあります。以前に何曲かは弾いたことあるのですが、弾いたことない曲の方が多くて、最初から順番に弾いてみるとおもしろい。昔、舘野泉さんの演奏をCDで聴いていたことがあり、一応66曲全部知っていますが、聴くのと弾くのとではやはり弾くのがおもしろい。さらさら弾けなくても、音を出すことそのものが楽しい。特に今はたくさんの発見があり、わくわくします。
グリーグは北欧のショパンとか言われているようですが、独特のムードがありますね。グリーグ節なのか、北欧節なのか(笑)? 民族的な雰囲気と現代的な響きがある。けっこう凝っている。
そもそも、民族音楽は西洋音楽の短調、長調にあてはまらないものが多いから、そういう要素が入ると調性があいまいになって、現代的な響きにもなる。
おもしろがって、全部弾こうかと思いましたが、30曲くらいで3時間近くかかった(ゆっくりめに弾いたので)からあきらめました(笑)。また続きは今度。

一柳彗さんの語る武満徹

作曲家でピアニストの一柳彗(いちやなぎとし)さんの『音楽という営み』(NTT出版)という本を読んでいます。1998年出版で少し古いですが、西洋と日本の音楽の違いを中立的な視点で分析されているなど、非常に興味深いテーマについていくつも書かれています。
この本の中の、「同時代の作曲家」という中で武満徹について書かれています。一柳さんは武満さんとのつながりが深かったようで、一柳さんの分析する武満徹像は興味そそられます。特に気になった一部を引用します。

「武満の音楽に対する姿勢は生涯ほぼ一貫していたと言ってよいだろう。たしかに、詩的なたたずまいのなかで緊迫感が持続する初期の作風とくらべると、七〇年代から晩年までの作品は成熟度が高まるにつれ、先鋭さが影をひそめてくる。晩年の作品では、古典的な三和音を意識的に用いた耽美的な音色や、たゆとうような甘美な旋律がしばしば用いられており、ケージが六〇年代に述べていた甘さがいよいよ目立つようになってくる。現代の作曲家で古典的な三和音を度々使用した作曲家は武満くらいであろうが、私にはそれは、クラシック音楽から援用されたものというより、武満のポピュラー音楽への嗜好がそうさせたものと受け取れる。
武満は自らを、ドビュッシーと関係づけて意識していた面があるようだ。ドイツの音楽の重々しい石の建築物のような有機的な構築性より、ドビュッシーの音楽が内在させている自然との交感や文学性、音楽的には多彩な音色や瞬間瞬間の独立した響きが織りなすテクスチュアに共感を覚えたのであろう。武満の音楽の洗練された内容は、たしかにドビュッシーを彷彿させるものがある。」

このあたりを読んで思ったのが、ここでいうポピュラー音楽とは何か?ということです。現代、音楽ジャンルとして一般的に言われているポップスやロックと言った意味ではないように感じました。より、一般の人(専門家、マニアではない)にわかりやすい音楽ということではないかということです。私も武満徹の歌曲は好きです。やはりわかりやすいからだと思います。「甘い」とか「ポピュラーである」ことは現代音楽の作曲家としては、あまり評価されないことなんでしょうかね? とても気になるテーマです。

ちなみにジョン・ケージは一柳さんに「私はトオルの音楽の甘さには耐えられないが、彼は人物としてはすばらしいと思う」と言っていたということです。

また、おもしろいなと思ったのは、ドビュッシーに傾倒していた武満徹は十代で一柳さんと付き合い始めたころ、作曲家になるか、美術評論家か迷っていたそうですが、ドビュッシーも音楽と同じくらい絵が好きで、葛飾北斎など日本の画家に強い影響を受けて作った作品もあるということです(ドビュッシーのエピソードは以前別の雑誌で読みました)。武満徹はドビュッシーの音楽の中にある「絵」を感じたのかもしれませんね。

私は武満徹についてはそれほど知りませんでしたが、一柳さんの文章を読んで興味が深まりました。実は私は人の作品ややっていることは内面の表れであると思っていて、その人が何を考え、どんな人物であるかということの方により興味を持ちます。例えばダニエル・バレンボイムの音楽はほとんで聞きませんが、彼の哲学には強い関心があります。そういう人は他にも何人かいます。一柳さんの曲もまだ聴いたことがありませんが、こんな素晴らしいことを色々考えている人がいたんだと思いました。音楽も聴きます、近々(笑)。

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