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災害のあと 今の想い

6月の大阪府北部地震に続き、7月には豪雨で、まさかと思うほど多くの方々が亡くなられ、まだ行方もわからない方々がいらっしゃり、また多くの方々が被災され、家を失い、普通の生活ができなくなる状況になっていることを見聞きするにつれ、本当に気の毒に感じています。

また追い打ちをかけるような猛暑で、被災された方々、ボランティアを含む現場で作業されている方々が過酷な状況に置かれていることを思うと、決して無理されないように、体を大切にしていただきたいという気持になります。

そして、自分が変わりない日常を送れていることを、ありがたく感じずにはいられません。

被災された方々が、なるべく早くよりよい環境に身を置き、少しでも未来に向けて進んでいけるよう、手厚い保護がなされることを願っています。

 

 

 

思いつきで始めてみた朗読ですが……

今日は、京都テルサで行われている、おはなしの栞の朗読クラスに行ってきました。2週間ほど前に一度体験レッスンで参加させていただいて今回で2回目です。

そもそも、なぜ朗読をやってみようと思ったかと言えば、もっと自分の音楽を聴いていただく機会を広げたいと思ったからです。例えば自分で朗読してそこに自分の曲をBGMとして入れて、YouTubeにアップするとか。朗読作品が青空文庫に出てるような著作権切れたもので、有名なものなら、聞いたことない私の曲よりも、検索で見つけられる可能性も高いかなと思ったり。

また、ただ自分で朗読して曲を入れるなら一人でできるけど、朗読する人たちと出会えば、中には朗読の後ろで弾いて欲しいという人がいるかもしれないと、自分の都合のいい展開を想像してみたり。

まあ、そんな動機で行きはじめてみました。教室をされている時で都合が合えば参加できるので、わりと自由な感じです。

体験の時は、発声練習などは一緒にして、一人一人の朗読の時は聞いていました(この時は先生と私以外5人)。今日は、私も朗読することになるので、何を読もうか昨日くらいから考えていましたが、4~5分くらいで読める適当な長さの読みたいものが見つけられず(探してる時間があまりなかった)、結局昔書いた自分の作品を読むことにしました。まだうちの子が小学生だった頃に、「いまむら文庫」というのを夫と作ってまして、(私が話、夫が絵)今でもネット上に放置されていますが(笑)、その頃に書いたものです。当時はブログはまだなく、でも自分の思ったこと、感じたことをお話に語らす方が好きでした。子育ての中で思ったことが多かったと思います。

皆さんの上手な朗読を聞いた後、最後が私の番でした(今日の参加者は先生以外に4人)。いまむら文庫の作品を書いていた頃の後半は、だんだんと関西弁まじりのお話が多くなっていました。今日読んだのも、そんなセリフの多いお話です。このお話を含む5話をまとめてずっと前に冊子を作っていました。まさか、ずいぶん昔に書いたものを人前で読むことになるとは思っていなかったのですが、これも朗読のクラスに参加したからで、人生の展開はわからないものだなとつくづく思います。

さて、初めての人前での朗読はどんな気分だろうと思っていましたが、どこか人前で自分の曲を弾くのと似たところがある。作品も含めたパフォーマンス。どう表現しよう?どう伝えよう?と言ってもこのお話は今朝一度家で読んでみただけなので、人前で読んでみて、これはもっと何度か読んだ方がもっとうまく表現できそうだと思いました(当たり前か!)。特に、セリフの部分は、関西弁であるけれど、普段話すのと読むのとでは多少違うから、そこをさらに自然に言うには練習がいるなと思いました(関西人が関西弁を練習するというのは妙な感じですが)。それでも、関西弁の方が気持ちが入る!なんかお芝居をしているような気分で楽しい!(吉本みたい?)緊張は、やはり人前で演奏してるからか平気、どう演じようか考える余裕もある。思った以上にはまった感がある(笑)。

でも、各人持参作品の朗読が終わった後、先生が準備された手紙の朗読というのがあって、これは大変でした。この手紙はラブレターだったかな?そんなテーマの手紙コンクールで入選した人たちの書いたものです。そのラブレターは親だったり、友だちだったり、色々な人達に向けて書かれているのですが、もうすでにいない人への思いを書いているものばかり。これは、やばい(-_-;)。順番に一つずつ読んでいったのですが、女性は途中から涙、涙。私の番が回ってきて、読みはじめましたが途中からこみあげてきて読めない。「がんばって」と励まされ、なんとか涙声で読み終えました。(^_^;)

まあ、わくわくしたり、涙したり、色々あって1時間とは思えないほどでした。

朗読と音楽を合わせた作品を実際作るのか、パフォーマンスがかなうか今のところわかりませんが、「朗読」そのものの魅力にちょっと心動かされている感じです。

この中に、最後の部分が泣きそうで朗読が難しいお話があることが今朝判明(-_-;)。これは実話からヒントを得たから余計にそのことが思い出されて切ない。

「しゅ・は・り」とは

最近たまたまツイッターで「守破離」という言葉を知りました。デジタル大辞泉によると

剣道や茶道などで、修業における段階を示したもの。

「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階

「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ心技を発展させる段階

「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階

ということです。

以前、お花を習いに行っていた時、先生が「師匠というものは、弟子がずっと一生この人についていきたいと思う人」と言われました。それを聞いて、そうか、日本の伝統文化はそういった考えなのかと思いました。でも「守破離」を知って、そうでもないのかなと思いました。

教育というのは、何かを行ったり、判断する際のとりあえずの基準となるものを身につけるために必要なものだと思っています(守)。なので、基礎ができたら色々な人から教わるというのはいいことだろうと思います。できるだけ価値観の違う人から(破)。そして、いつかは自分で考えられるようになる(離)ことを目指して。

私は私の性格によって妙な音楽の道をたどってきたと今となっては思いますが(人生はそういうもの?)、多分今は「離」の状態かな(とりあえず好きなようにやっているという意味で!)。

色々なものにあてはまりそうです。

今うちの小さな花壇で咲いている山アジサイです。小さくてかわいいです。

「遊び」は大切

前回の記事で取り上げた『フリープレイ―人生と芸術におけるインプロヴィゼーション』(スティーブン・ナハマノヴィッチ著/フィルムアート社)はまだ読んでいる途中ですが、「遊びのこころ」という章があります。この章の最初に、カール・ユング(スイスの精神科医、心理学者)の言葉が紹介されています。

新しいものの創造は、知性によって達成されるものではない。内面の必要性から、直感的におこなわれる遊び(プレイ)によって達成される。この創造的思考は、その愛する対象との戯れである

ふんふん、確かに毎日音楽と戯れているよ、とそこは実感。
そして、さらにこの章から引用します。

遊ぶことは、なんであれ私たちを制限から解放し、私たちの行動の領域を広げます。私たちの遊びは反応の豊かさと適応の柔軟さを育みます。これは遊びの進化価値であり、遊びは私たちを柔軟にするのです。現実を再解釈し、新しさをもたらすことによって、私たちは硬直にならずに済みます。遊びは私たちの能力やアイデンティティを再編成し、いままでになりやり方でそれを使えるようにします

遊びは自由な探究精神であり、それ自体、純粋な喜びのための行為と存在です

「遊び」と聞いて思い浮かべることは人によって違うかもしれません。「遊びが大事」という考え方は、なんだか漠然としていてわかりにくいかもしれません。でも、私はとても納得できるし、自分が思っていた以上に「遊び」は大切なんだと認識を新たにしています。
「遊び」は決して子どもだけのものではなく、「自由な精神での創造の実践」を意味している思います。創造というのは芸術や何かを作るということだけではなく、自分の生き方そのものにあてはまるのだと思います。自分の生き方は自分で造っていく。
「遊び」の大切さが理解できれば、子育ても、自分の生き方に対しても少し見方が変わるかもしれませんね。
私は、よし、もっと自信を持って遊ぼう(笑)と勇気づけられています。

 

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インディーズ映画上映会

おととい、京都国際インディーズ映画祭を運営されている京都メディア・アート・ラボ企画の上映会へ行ってきました。場所は室町御池上るの『遊子庵』。町家です。
スタッフの方も入れて10人ほどのこじんまりした上映会でしたが、TVF(東京ビデオフェスティバル)の受賞作のうち短い映画を4本(ドキュメンタリー3本、アニメーション1本)を鑑賞し、映画の間や終わってから映画の話やさまざまな話をたくさんしました。
京都国際インディーズ映画祭は今年で10年目ということでTVF(東京ビデオフェスティバル)からTVF文化功労賞を受賞されたそうです。
私はたまたま今回の上映会を知って、ぜひ行ってみようと思いました。インディーズ映画でどんな音楽が使われているか興味があったからです。
ドキュメンタリーの3本は、どれも重たいテーマでインタビューをメインとした構成になっていて、そういった映画に「音楽いる?」と感じられないようにさりげなく音楽を入れるのって難しいのではと思いました。3本とも音楽は控えめでした。
アニメーションは、より音楽は自然な感じがしました。物語であるし、音楽自体も良かったのではと思います。
映画も皆さんのお話も興味深く、楽しい時間を過ごしました。

『The Starfish Story』

少し前にカリフォルニアに旅行に行った友達が2週間ほどの間に2回も聞いたというお話を送ってくれました。『The Starfish Story』ヒトデのお話です。
じぶんなりに意訳してみました。

老人が明け方の海辺を歩いていました。見ると前方に少女が歩いています。彼女はヒトデを拾っては海へ投げ入れています。老人は少女に追いつき、そしてどうしてそんなことをしているのかたずねました。少女はヒトデがこのままここで朝日にあたれば死んでしまうからと答えました。「だけど海岸は何マイルも続いているし、何百万というヒトデがいるよ」「そんなことをしてもあまり意味がないのじゃないかな?」と老人は言いました。少女は手に持っているヒトデを見て、そっと波間に投げました。「このヒトデにとっては大切なことよ」

そこの土地の人たちはこの話が好きだということです。友だちも好きだと言っていました。私もとてもいい話だなと思ってブログに書こうと思いました。こちらから見れば無数にあるうちの一つ。でも逆にそれぞれにとってはたった一つの大切な命。短いながらとても感動的なお話だと思いました。勝手にこのお話に励まされた気持ちもあります。たとえわずかなことでも意味はあるはずだと。皆さんはどのように感じられるでしょうか?

第六感って?

第六感とは何でしょうね?
ネットで調べたらブリタニカ国際大百科事典の解説は以下の通りです。
「人間の5感 (視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚) 以外の,あるいはそれをこえる第6番目の感覚の意。また,心理学者黒田亮は,これを意識の「識」に対して「覚」と呼び,知的・芸術的活動や武道などにおいて作用するとした。」
『ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと』(春秋社)では、第六感とは「筋感覚」だと書いてあります。例えば手を頭の上に上げた時にその手は見えないし何にも触ってなくても、手がどこにあってどのような状態であるかわかる感覚ということだったと思います。

第六感について思うのは、例えば昨日ピアノを弾いた元彫刻家のアトリエのような場所で感じる感覚、その場に行った時に自分が感じる何かについて不思議に思うことがよくあるからです。特に古い建物、歴史のある場所、巨木、自然のようなものに向き合っている時、私が感じているのは「時間」なのかなと思ったりします。時間が作り出した何かを感じているのかな?と。そこにはそれが何十年、何百年そこにあるという事実を理屈で理解しているという部分もありますが、そこからそれが一体どういうことなのかを考えるのはイマジネーションの世界で、そういったものが合わさった感覚なのかもしれません。
第六感って結局何か? 言葉ではうまく表せないような感覚かな?

糺の森 ここはやはり特別な感じがするのです。

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ちょっと近江八幡まで

今日は夫と近江八幡の銅製品のアトリエまで行ってきました。たくさんの照明器具やポスト、取っ手など様々な商品が展示されています。銅は金属ですが、とても有機的な雰囲気で温かみがあります。鉄よりもソフトな感じですね。デザインも素敵なものがたくさんあって、引き寄せられてしばらく眺めていたい魅力をたたえていました。

道中、琵琶湖畔で休憩しましたが、湖から吹いてくる風がさわやかで気持ちよかったです。かわいいツユクサなど野草も楽しめました。