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オットー・ネーベル展を見て

京都文化博物館で、オットー・ネーベル展を見てきました。この展覧会について、私の感じたこと、考えたことを簡単に書いてみようと思います。

最初に、この展覧会のことはネットで知りましたが、その際作品の画像を見てパウル・クレーのようだと思いました。実際、クレーやカンディンスキーと関係があることは、展覧会の説明でわかりました。

この色合いを見てパウル・クレーのようだなと思った。

otto_nebel

京都文化博物館の展示会場入り口

さて、何の先入観もなしで、会場へ入りました。最初の説明で、ネーベルはまず建築からスタートし、それから俳優、詩人という顔も持ち、バウハウス(ドイツにあったデザイン・アート系の学校)でカンディンスキーやクレーと出会ったことなどがわかりました。ネーベルが画家であり詩人であることについて、

言語と造形芸術が交わる領域での実験を可能にするふたつの天分を備えていたということになる。

と書いてあり、まずこのアーティストへの興味が強まりました。言葉という具体的なものと、抽象的な芸術が、表現では別々の姿であるけれど、彼の中ではどこか交わっている?

作品は、とにかく色彩が素敵。色へのこだわりはかなりあったらしく「カラーアトラス(色彩地図帳)」というものを作り、ディテールにこだわった、緻密な作品作りをしていたということがわかりました。でもぱっと見た感じ、全体的に軽やかで明るめで楽しげ、というのが私の持った印象。さらに、色も配置もバランスがいいから、見ていて安心感が得られる。クレーの作品とはだいぶ違うこともわかりました。

途中、「音楽的作品」というコーナーがあり、興味津々。そしてなんとそこは写真撮影がOKでした。昨年行った、ライアン・ガンダー展では写真撮影がOKで驚きましたが(動画はダメと言われました)、これまで行った美術館はほとんどどこも写真撮影はだめだったと思います。海外の美術館では撮影OKの所が多いのではと思いますが、正反対の考え方ですね。

「音楽的作品」は、タイトルも「二倍の速さで」「ロンド・コン・ブリオ(元気に)」「叙情的な答え」などなど。説明によると、

ネーベルは自分の努力を、ある楽譜をオーケストラとともに読み込み、練習する指揮者の仕事と例えている。

「音楽的作品」の中の「かなり楽しく」という作品

「音楽的作品」と書かれてなかったら、これらの作品を音楽的と感じたかどうかはわかりませんが、逆に、こういったテーマをつけているのを知った上で、ネーベルの作品を眺めると、どの作品も「音楽的」なのではと思えないこともない。楽譜じゃないですよ。音楽のイメージ。

「純潔と豊潤」これは「音楽的作品」には含まれていないけど撮影OKの作品のうちのひとつ。

つまり、色や構成にある種の秩序があり、それが音楽的なんじゃないかなと。音楽もただのバラバラの無秩序の音の羅列では、一般の感覚では音楽には聞こえないと思いますが、秩序があるから音楽として聞こえてくる。拍子や旋律やハーモニーなど、何かバランスを持って聞こえるものが音楽であると感じるのだと思います。

おおざっぱに言えば、ネーベルの作品には、心地よい秩序があり、それがどこか考えようによれば音楽的な感じがして、安心感を与えてくれるのでは?と。

親交のあったクレーも非常に音楽を愛していた人で、絵画と音楽をどのように行き来していたのか、興味あって、以前本も借りたことあるんですがちゃんと読めてないです。

同じく親交のあった、カンディンスキーについても、

抽象の度合いが上がるにつれ、音楽を引き合いに出すようになり、「コンポジション」「即興」「印象」と呼ぶ作品において、記譜するように感情をフォルムと色彩で表現しようと試みた。

という説明がありました。

3人とも創作の中で音楽を意識しているということは、どういうことなのか?カンディンスキーの

人間は自らの内に音楽を持っている

という言葉も紹介されていてますが、私も以前から気になっているテーマの一つです。

でも、もしかしたら、ネーベルの構成力は建築からもきているのかも?とここまで書いて思いました(そんな説明もあったかもしれないけど読めてない)。建築と音楽も共通性がある(どちらも空間を形作るもの。目に見えるか見えないかの違い)。彼の作品が何によってそうなっているのか?色々なものが混ざり合って生まれてきたのだろうと想像してみる。

音楽も絵画も言葉も、結局内面を表す「手段」であることについては日頃考えていますが、そのことを裏付けるような気持ちで見た展覧会でした。

パリ・マグナム写真展を見て

京都文化博物館で行われている「パリ・マグナム写真展」へ行ってきたので、ちょっと書きます。

マグナムというのは、京都文化博物館のサイトより引用すると

1947年、ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、デビッド・シーモアによって「写真家自身によってその権利と自由を守り、主張すること」を目的として写真家集団・マグナムは結成されました。以後、マグナムは20世紀写真史に大きな足跡を残す多くの写真家を輩出し、世界最高の写真家集団として今も常に地球規模で新しい写真表現を発信し続けています。

ということです。

日曜の朝にこの展覧会のことを知って、マグナムについてほぼ何も知りませんでしたが、面白そうだから行ってみることにしました。

写真は、1932年から2017年5月までのもので、「人」を主役としたものが多かったという印象です。ストライキ、デモ、集会、暴動、戦争などを含む様々な状況の中での、人の姿や表情がうまくとらえられていて、その瞬間の前後について想像を膨らませたくなるような感じがして、じっくり見ていました。様々な人の表情から、何を感じて、何を考えているのだろう?と考える。

展示室の入り口を少し入ったところに、アンリ・カルティエ=ブレッソンの言葉が紹介してありました。

「以前の私は詩のために詩を探求する人のように、写真のための写真を求めていた。マグナムの誕生で、物語を語る必要性が生みだされたのだ」

確かに、物語を感じました。物語は見る人を引きこむのだと思います。

写真はモノクロームがほとんどで、最後の方でカラーが出てくるのですが、ふと感じたことがあります。モノクロームの写真をたくさん見た後、カラーの写真を見ると、急に物語から現実に引き戻されたような感じがしました。目に映る情報が増えて色が気になる感じ。全部カラーならそんな風には思わなかったかも。今回の展覧会はモノクローム写真がとても魅力的だなと思いました。そして、写真だからこそできる表現というものがあることを改めて感じさせてもらいました。

もっともっと色々なことを思ったんですがね、なかなかまとめるのは難しいです、いつも。

先入観なしで、好奇心で接して何かを感じるというのは楽しいものです。音楽に限らず、常にわくわくさせてくれるもの、インスパイアしてくれるものを探しているなと自分で思います。道端の花でも!