月別アーカイブ: 2021年11月

安曇野への旅

以前から憧れていた安曇野へ行ってきました。
3泊4日の旅で感じたことを簡単に記しておこうと思います。記憶が新鮮なうちに。

10月29日、京都から新幹線で名古屋まで行き、そこから「しなの」に乗り換え松本へ。そして、レンタカーで安曇野へ向かいました。

最初に感動したのは、普段見慣れた京都の山とは全然スケールの違う山々が見えてきた時です。京都中心部も盆地で山に囲まれていますが、山までが近いしもっと低い。それに比べここは広い平野があって遠くに山々がある。手前の高い山々の向こうにさらに山頂に雪が積もった山々が見える。そのスケールの大きさに感動し、車の中で興奮が高まっていきました。

安曇野エリア、穂高に着いた時は午後3時過ぎていて、すでになんとなく夕方の雰囲気。とりあえずどこかへ行ってみようということで、碌山美術館へ。
碌山美術館は彫刻家、荻原守衛(碌山)の彫刻、絵画等を展示していると今回知りましたが、代表的な建物「碌山館」は以前から写真で見ていました。建物にまとわりついているのは写真で見ていた青々としたツタではなく、赤や黄色も混ざった秋のツタでした。

荻原守衛の経歴などについて書かれているコーナーで、彼がロダンより受けたアドバイスを見つけました。

汝が私ないしは、ギリシア、エジプトの傑作にしろ、それらを手本になどと思っては駄目だ。仰ぐべき師は至る所に存在しているではないか。自然を師として研究すればそれが最も善い師ではないか

少し前に、「自然」について違う側面から考えるようになったきっかけがあり、このロダンの言葉に興味を持ちました。きっかけとなったのは河合隼雄の『無意識の構造』(中央公論新社)の中に書かれていることですが、それについて引用を交え少し書きます。旅の話から少し離れますので興味ない方はとばしてください。

この本の中に「自我」と「自己」の違いについての記述があります。「自我」とは意識できていること、「自己」は無意識の中にあり意識化できないことです。無意識の中に私にとっての重要研究テーマ「言葉にならないこと」が在ると思っていて、そこに自己(心の中心)があるという考えは、とても興味深く惹かれるものです。

以下の引用では、ざっくりしたくくりであると思いますが西洋人は意識できる自我が心の中心と思っている傾向があるのに対し、東洋人は無意識の中にある自己の存在を、ちゃんと把握できないながらも感じていて意識と無意識の均衡をとろうとする傾向があること、無意識内の自己を知ることは難しいためそれをシンボルに投影することで把握しようと試みること、その自己のシンボルとしてあるがままの自然というのは適しているというようなことなどが書かれていると理解しています。

自己という考えは、日本人には西洋人よりも受け入れやすいように、著者には感じられる。 無意識と明確に区別された存在として、意識の中心としての自我を確立することは、西洋の文化のなした特異な仕事ではないかと思われる。そして、その確立した自我を心全体の中心と見誤まるほどに、彼らの合理主義が頂点に達したころに、ユングが自己などということを言い出したのではないか。そのため、彼は心の中心が自我ではなく自己にあることを何度も繰り返して主張している。しかし、実のところ、自己の存在は東洋人には前から知られていたことではなかったろうか。というよりは、東洋人は意識をそれほどに確立されたものと考えず、意識と無意識とを通じて生じてくる、ある漠然とした全体的な統合性のようなものを評価したのではないだろ うか。

西洋人は自我を中心として、それ自身ひとつのまとまった意識構造をもっ ている。これに対して、東洋人のほうは、それだけではまとまりを持ってい ないようでありながら、実はそれは無意識内にある中心(すなわち自己)へ志向した意識構造を持っていると考えられる。ここで、自己の存在を念頭におかないときは、東洋人の意識構造の中心のなさのみが問題となり、日本人 の考えることは不可解であるとされたり、主体のなさや、無責任性が非難されたりする。

自分の無意識内に存在する自己へと志向することは、実のところ至難のこと なので、日本人の多くは、その自己を外界に投影し、ー

自己は無意識界に存在していて、それ自身を知ることはありえないと述べ た。ただ、われわれは自己のある側面をシンボルという形で把握すること ができる。

(物語に出てくる自然を例に挙げ)

自己の象徴として、自然物が選ばれることもよくある。自然はいわば、ある がままにあるものとして、自己の象徴に適していると言える。

これらを読んだ時、自分が漠然と考えていたことが裏付けられるような感じがして、さらに自然との関りについて気づかされ、なるほどそうなのかと感動しました。
自然の風景と向き合っている時心がなごむのは、あるがままのその姿にあるがままの自分(自己)を重ねているからなのかもしれない、人間も自然の一部であることを無意識のうちに感じ取っているのかもしれない、そんな考えも浮かんできました。自然との触れ合いが人の心に及ぼす影響とその大切さについて改めて考えました。

ロダンの「自然を師とせよ」という言葉は、造形についてのみ語ったのかそれ以外のことも含めていたのかわかりませんが、気づきとしての自然というのは、今私にとって大きな関心事となっています。

さらに、展示室の壁面に彫られていた、孤雁という彫刻家の言葉にも目をとめました。

自然はただそこにあり、それをどう感じるかは人それぞれですね。私は歳を重ねるごとに手が大きくなって、より感動するようになっている気がします。

そろそろ旅の話に戻ります。

碌山美術館の庭も自然なおもむきが感じられいい雰囲気でした。

2日目。
まず、前日車の中から見つけたリンゴ畑のひとつを見に行きました。実は、木になっているリンゴを見るのは今回初めてで、最初に見つけた時、はっとしました。そして実物を見るために近寄る時はとても心が躍りました。

それから、北アルプス展望美術館へ。美術館は閉まっていましたが、目的はここからの眺望。北アルプスを臨む大パノラマ。素晴らしい眺めでした。

次に、国営アルプスあづみの公園へ。敷地が広く一部しか行っていませんが、美しい水路や自然の川など、見ごたえある光景がいくつかありました。

どんぐりを見つけるといつでもときめいてしまう。これは私の謎のひとつです。

残念だったのは、夜のイルミネーションのために多くの場所に電飾が張り巡らされていたことです。夜楽しむために、昼間の景色を台無しにしているというのはどうなんだろうと思ってしまいます。ライトアップというのは京都でもありますが、街中ならともかく、お寺など緑の多い所ではそこに住む生き物に影響があるんじゃないかと前から気になっています。

この後、前から行きたかった安曇野ちひろ美術館へ。

いわさきちひろの絵、これまで何度か展覧会で見ていますが、いつ見てもほれぼれします。子どもの特徴を描くのが本当にうまい。シンプルだけど説得力のある描写。

3日目。
もう少し山へ近づいてみようと白馬の方へ。まずはたまたま見つけた落倉自然園へ行こうと木立に入りかけましたが、すぐに木道修理中の看板があり断念。ひと気もなし。念のため半分冗談でYouTubeで見つけた鈴の音の動画を再生しながら行こうとしていたんですが。駐車場へ戻る途中「熊に注意」の張り紙があるのを見つけ、通行止めになっていて助かったかもと思いました。

実は2日目の朝、夫が露天風呂に入っている時、近くの茂みに熊がいるのを目撃していて驚いていたところです。ホテルの人が言うには、冬眠前で懸命に餌を探しているとのこと、珍しくもないようです。

それから、これもたまたま通りかかった霧降宮切久保諏訪神社に寄りました。時の重みの感じられる、雰囲気のある神社です。調べると平安時代末期から鎌倉時代初期頃に創建されたと推定され、現在の本殿も江戸時代初期に建てられたもので、神社本殿建築の遺構として貴重であることから、白馬村の文化財に指定されているそうです。

どこかでお昼をと探していたら、夫が白馬のスタバが良さげだと検索して見つけたので行ってみることに。
スタバはsnow peakの建物内にありました。建物が白馬の山々に面していて、スキーのジャンプ台も見える。その絶景を眺めながらコーヒーとサンドウィッチをいただきました。長野に来て魅了され続けている山々を間近に感じながら、こんな体験は初めてだとしみじみかみしめる。あの山のどこかに登っていく人たちのことを少し想像しながら。きっと高さによってレベルが全然違うんだろうな。母は何年か前から何度か山にハイキング(or トレッキング?)に行っている。白馬にも。初心者でも行けるコースだと思う。それくらいなら私も行けるかな?

広場のマルシェで売っていた笹だんごをいただきました。ヨモギではなく、オヤマボクチという山菜の一種が使われているということです。そこでしか採れない材料でそこでしか食べられないものを食べるというのは貴重な体験です。

昼を済ませて、その日の朝に行こうと決めた白馬五竜高山植物園へ。なんと行ってみると夏季営業最終日でした。ロープウェイで標高1515mの頂上駅まで登りました。スリル満点です。
降りてみると、植物園の植物はほぼ枯れていて、ちょっとがっかり。一部ではもう草刈り機で刈り始めている! あと1日待ってよ。
けれども見晴らしがすごい。花壇は山の斜面に沿って駅よりさらに上に広がっているので、枯れた植物の花壇の間を歩いて登っていく。登るほどさらに絶景が広がる。雪の山も下から見ていた時よりもぐっと近くに見える。実際はまだまだ高い。実はこの近くが五竜岳の登山口で五竜岳は2814m !!

ロープウェイからの眺め

旅行を計画していた時は、こんな高い所まで行く予定はなかったのだけど、安曇野へ入り、まず山に魅了され、知らず知らずのうちに少しずつ近くへ誘われたのかもしれない。導かれるようにこの山の上に登った時、感動も極まり、この旅行のクライマックスを迎えたという気がしました。そんなドラマチックな運びになるとは予想もしていませんでしたが。

普段から、京都で見ている山は1000メートルもないものばかり。身近で威圧感もない。その気になればいつでも登れそう。けれど、今回見た山々、特に雪の積もった険しい山々は、心も体も決して自分が近づくことができない遠い存在と感じる。自然の厳しさが見ていて伝わってくるよう。恐れ入りました!という気持ち。

4日目、最終日。
ホテルをチェックアウトし、前日横を通った青木湖へ。道中、紅葉のグラデーションが延々と続く。ため息。

青木湖は、流入河川が無いにもかかわらず水位が維持されていることから、湖底にかなりの量の湧水があると考えられている(ウィキペディアより)。

安曇野最後の訪問地は、安曇野アートラインマップで見つけた、征矢野 久(そやの ひさ)水彩館。この方は生まれ育った安曇野の風景を長年描かれているということで、どんな風に表現されているのか興味がありました。旅の締めくくりにちょうどいいのではと思いました。
美術館には、不透明水彩や水彩の、安曇野やその他海外の風景画がなどが展示されていました。ポストカードをいただきました! 安曇野の風景画、雰囲気がよく伝わってきます。

このあと安曇野の風景を見納めながら、松本へ。

昼過ぎに車を返した後、松本に数時間ほど滞在することに。時間があまりないので行ける所は限られていて、松本城に行きました。松本城は戦国時代に造られた現存最古の貴重な木造天守ということです。
通常とは違い、入城の制限があり、中でゆっくりはできませんでしたが、なかなかいい眺めでした。

この後、帰路へ。
今回の安曇野旅行がきっかけで、長野にはまだまだ行きたいところがあることを再確認。長野以外にも行きたい所はたくさんあるけれど。
写真や動画をいくら見ても、その場に行ってみないとわからない。全身で感じることでようやくわかる。そして現地で色々なことを知り、また考える。

とても、良い旅でした。