月別アーカイブ: 2016年12月

ストラヴィンスキーの言葉

2016年も間もなく終わり。大晦日はいつも、一応主婦業もしているのでいくら手を抜いても普段よりはやることがあり、今日もお正月のための買い物(最低限ですが)などで時間をとられました。
元旦くらいは多少はいつもと違わないとなあと毎年めんどくさいなと思いながら、いかに簡単にちょっとお正月らしい雰囲気を出せるかを考えながらスーパーをうろうろしています。

そして大晦日でも毎年ピアノを弾きます。弾きたいから弾くだけ。今年は今作ってる曲が最後の曲になりました。まだ出来上がってないけど。なんか大晦日はいつもしみじみした気持ちで弾きます。今年はこれで終わりだなと。

最後に『フリープレイ―人生と芸術におけるインプロヴィゼーション』(スティーブン・ナハマノヴィッチ著/フィルムアート社)の中の、「練習すること」より、ストラヴィンスキーの言葉を引用します。

「作品を紙に書く行為というものは、パン生地をこねるように、
私にとって、創造の喜びと切り離すことはできません。
私に関する限り、スピリチュアルな努力と
心理的身体的な努力を切り離すことはできません。
これらは、同じレベルで私に直面し、ヒエラルキーがないのです」

それでは、皆さま良いお年を!

 

(*画像をクリックするとアマゾンにとびます)

音と心理の関係

今読んでいる『絶対音感神話』(宮崎謙一著/DOJIN SENSHO)の中でとても気になることがあったので、引用します。

「音響としての音の物理的性質と、その音を聞いた時に私たちが知覚する音の心理的性質は対応関係にあるが、同じものではない。(中略)音の聞こえの感覚は、物理的な音が、耳から脳に至るまでの聴覚系で分析・処理されることによってつくり出される主観的経験である。」(中略)「ピッチやラウドネス、音色などは、音を聞く人が感じる感覚的性質(心理的性質)であるため、測定器を使って測るわけににはいかない。こうした音の聞こえの性質を知るには、実際に音を人に聞いてもらう聴覚実験を中心とした心理学的研究を行うしかない。」

要は、音は物理現象(振動)だけど、どう感じるかは聞く人の頭の中で起こること(主観)によるから、それぞれに違う。音をどう感じるかは心理学の領域になるということですね。これは少し、はっとしました。
ここでは、単体の音についての話だと思いますが、音楽ならなおさら、心理との関係は深いでしょう。

 

 (*画像をクリックするとアマゾンにとびます)

バザールカフェ京都で音楽

今日はパルヨン(外国人女性の会)の忘年会に行ってきました。この会は日本に住む外国人女性たちとその人たちをサポートしたいと思う日本人の会です。
「パルヨン」はフィンランド語で「たくさん」という意味だそうです。「たくさん」の交流の場で友達を「たくさん」つくり、情報を「たくさん」もらうことができるように名づけられたそうです。
パルヨンのメイン活動は外国人女性のための何でもしゃべれる会「プフー」です。「プフー」はフィンランド語で「ざっくばらんにしゃべれる」という意味だそうです。
この会に最初に参加する時から、機会があれば皆さんで歌をうたったりしませんか?という提案をしていました。外国の人と日本人が音楽を通して交流できることは素敵だなという思いがありました。
そして今回、バザールカフェ京都での忘年会でそれがかないました。ここにはピアノがあるので、ここで音楽をやりましょうと言っていただきました。
パーティーは持ち寄り形式で、それぞれ参加者が料理したものやデザートを持ってくるというものです。参加者は20名以上。たくさんの食べ物でそれぞれのテーブルはいっぱいになりました。みんなで食べたり、飲んだり、おしゃべりしたりしてしばらくたって、そして歌いましょうかということになりました。
他の人の演奏などもあり、3曲だけでしたが、それでも皆さんしっかり声を出して歌ってくださいました。私はピアノの演奏を静かに聴いていただくこともうれしいですが、歌ってもらって一緒に楽しむ時にも喜びを感じます。
特に今日は、国籍や民族を超えて一緒に音楽を楽しめたことが何よりです。多分、今後もまたこのような機会があると思ってます。きっと。

「遊び」は大切

前回の記事で取り上げた『フリープレイ―人生と芸術におけるインプロヴィゼーション』(スティーブン・ナハマノヴィッチ著/フィルムアート社)はまだ読んでいる途中ですが、「遊びのこころ」という章があります。この章の最初に、カール・ユング(スイスの精神科医、心理学者)の言葉が紹介されています。

新しいものの創造は、知性によって達成されるものではない。内面の必要性から、直感的におこなわれる遊び(プレイ)によって達成される。この創造的思考は、その愛する対象との戯れである

ふんふん、確かに毎日音楽と戯れているよ、とそこは実感。
そして、さらにこの章から引用します。

遊ぶことは、なんであれ私たちを制限から解放し、私たちの行動の領域を広げます。私たちの遊びは反応の豊かさと適応の柔軟さを育みます。これは遊びの進化価値であり、遊びは私たちを柔軟にするのです。現実を再解釈し、新しさをもたらすことによって、私たちは硬直にならずに済みます。遊びは私たちの能力やアイデンティティを再編成し、いままでになりやり方でそれを使えるようにします

遊びは自由な探究精神であり、それ自体、純粋な喜びのための行為と存在です

「遊び」と聞いて思い浮かべることは人によって違うかもしれません。「遊びが大事」という考え方は、なんだか漠然としていてわかりにくいかもしれません。でも、私はとても納得できるし、自分が思っていた以上に「遊び」は大切なんだと認識を新たにしています。
「遊び」は決して子どもだけのものではなく、「自由な精神での創造の実践」を意味している思います。創造というのは芸術や何かを作るということだけではなく、自分の生き方そのものにあてはまるのだと思います。自分の生き方は自分で造っていく。
「遊び」の大切さが理解できれば、子育ても、自分の生き方に対しても少し見方が変わるかもしれませんね。
私は、よし、もっと自信を持って遊ぼう(笑)と勇気づけられています。

 

(*画像をクリックするとアマゾンにとびます)

ブレイクスルーは続くよどこまでも

『フリープレイ―人生と芸術におけるインプロヴィゼーション』(スティーブン・ナハマノヴィッチ著/フィルムアート社)という本をツイッターで知って、おもしろそうなので図書館で借りました。
まだ読み始めて最初の方ですが、何度も読み返す箇所(そこに書いてあることが気になって)の連続です。引用したい箇所満載ですが(笑)、自分が普段感じていることと重なることのひとつについて書こうと思います。

「創造的な生き方において見出すものは、際限のない仮のブレイクスルーの連続に過ぎないのです。つまりこの旅には終点はないのです。なぜならこれは、自分の魂に向かう旅なのですから。」

私は時々、ああ、ようやくこのことに気づいた、開眼した、スタート地点に立ったと思いますが、しばらくしてまた別のことに、ようやく気づいた、開眼した、スタート地点に立ったと思います。そういう風に思うことの連続という感じです。引用の部分を読んで、そうか仮のブレイクスルー(壁を突破したと思ったら、また別の壁があった💦?)を繰り返しているのかと思いました。でもそのたびに少しずつは前進していると思ってるんですが。
著者は、禅の言葉にとても魅かれるということです。それは禅がブレイクスルーの体験を深く見抜いているからということです。
読み進めるのが楽しみです。

さて、12日、13日、14日とそれぞれ別の場所であった親子のクリスマスイベントは終わりました。3日間ともいつもの児童館と保育所のスタッフの方たちと一緒にクリスマスの音楽を中心に、様々なプログラムを行いました。私のソロの演奏もそれぞれの場所で行い、毎回何人かの小さなお子さんとお母さんが近くまで来て聴いたりしてくれて、やりがいがありました。1、2歳の子でも、ピアノにとても興味を示す子がいます。はいはいして足元まで来る子がいたり(かわいい!)、鍵盤を触ろうとする子もいますが、何があっても弾き続けます(笑)。毎月児童館で、同じようなことを感じていますが、この3日間はなかなか密度が高かった。クリスマスシーズンは音楽へのニーズが高いですね。
毎日家でピアノに向かっている時は自分の魂に向かう旅(ちょっと大げさ?)を続け、そして外では現場で喜んでいただくことを大切にしたいと思っています。

 

(*画像をクリックするとアマゾンにとびます)

どうして涙が出る?

音楽を聴いて涙が出ることがあるのはなぜか? ずっと前からわからないと思っていることです。さっき、ふとそのことについてある考えが浮かびました。
小鳥のさえずりや、水のせせらぎなどを聞いて、きれいな音だなあと思っても涙までは出ません(私は)。もし出るとすれば、その音から何かを連想して、別の理由によってということになる気がします。
自然の音は、人間に聞いてもらおうという意思を持って音をだしているわけではなく、私たちは受動的に一方的にそれを受け止めて、美しいと感じる。
音楽は、人間の意志によって構成されたある秩序をもった音の集まり。そこに、伝えよう、感動してもらおうという意思が強くあればあるほど、人の心に訴えかけてくるのではないか?
音楽を作る・発信する側と受け取る側の双方向のコミュニケーションがあるからこそ、感情が生まれるのでは?
この考えは今までの中で、一番説得力(自分に対する)がある感じがします。
初めて第九を聴いた時、合唱のところでだいぶやばいと思うほど心揺さぶられた時、ベートーヴェンの強烈さを実感しました。すさまじい意志の持ち主だったんではないでしょうか?
そう言いつつ、例えば弦楽器の音は、コンサートが始まる前に舞台上で音を調整しているのを聞いて、うるうるしてしまうことがあり、それはなぜか全然わからない。まさに琴線に触れる音?
だいぶ前にブログで書いた、ストラヴィンスキーの『音楽の詩学』(未來社)からの引用のことを思い出しました。記事はこちら「自然と芸術」。

そうした受動的な快感の彼方に、私たちは、秩序づけ、活気づけ、創造する精神の操作に私たちを積極的に関与させる音楽を発見しに赴くのです。
というのも、あらゆる創造の根源には、地上の糧に対する渇望ではない渇望が見出せるからです。そのようなわけで、自然のたまものに、策略―それこそが、芸術(アート)(技術)の一般的な意義です―の恩恵が加わります。

「地上の糧に対する渇望ではない渇望」というのが、人間の意志(作りたい、伝えたい)なんだろうと思います。
以上、今晩の思いつきについて書きました✌。

(*画像をクリックするとアマゾンにとびます)