昨日スタジオで録音したのは、昨年作ってすでに家で録音している曲ばかりで、今も何曲か作りかけていますが、なんとなく気持ちを新たにしたいような心境で、はたと、グリーグの「抒情小品集」を弾こうと思いました。
どの作曲家の作品もですが、曲を作り出してからはそれ以前よりも興味深く感じられます。
グリーグの抒情小曲集は短めの曲ばかりで、私が曲を何曲か作った頃に私の抒情小曲集を作っているような気になったことがあります。以前に何曲かは弾いたことあるのですが、弾いたことない曲の方が多くて、最初から順番に弾いてみるとおもしろい。昔、舘野泉さんの演奏をCDで聴いていたことがあり、一応66曲全部知っていますが、聴くのと弾くのとではやはり弾くのがおもしろい。さらさら弾けなくても、音を出すことそのものが楽しい。特に今はたくさんの発見があり、わくわくします。
グリーグは北欧のショパンとか言われているようですが、独特のムードがありますね。グリーグ節なのか、北欧節なのか(笑)? 民族的な雰囲気と現代的な響きがある。けっこう凝っている。
そもそも、民族音楽は西洋音楽の短調、長調にあてはまらないものが多いから、そういう要素が入ると調性があいまいになって、現代的な響きにもなる。
おもしろがって、全部弾こうかと思いましたが、30曲くらいで3時間近くかかった(ゆっくりめに弾いたので)からあきらめました(笑)。また続きは今度。
月別アーカイブ: 2016年3月
京都芸大の図書館へ
今日は京都市立芸術大学の附属図書館まで行ってきました。探している本が何冊かあったのですが、どれも出版されたのがずいぶん昔で、本屋さんにはもちろんなく、市立・府立の図書館を検索しても見つからず、学術書のデータベースをネットで調べていたら京都では芸大などにあることがわかりました。
そのうち『和声の変遷』(Ch.ケクラン著)と『近代和声学』(松平頼則著)は図書館の書庫から出してもらいました。あとは本棚をチェックして目当ての本やそれ以外の面白そうな本を何冊かぱらぱらとめくったり、気になるところは読んだり。大学は春休みでしょうから、人もまばらで2時間ほどゆっくりと読書できました。学生ではないから閲覧のみなので、後からまた調べたり、買ったりするために本のタイトルや出版社をメモしました。
上の2冊はやはり良さそうなので、なんとか古本を手に入れたいと思っています。その他にもぜひ欲しい本が。
私の読む本は、ほとんど実用的な本ばかりですが、知識を得るだけでなく多くの気づきがあります。もちろんそれは著者がある信念を持って書いている本だからです。そういう本に興味をもちます。知識の方は忘れたらまた調べればいいのですが、気づきは自分の考え方を変えたり、その後の取り組みを左右するほど影響力があることがあります。
つい最近は『和声の歴史』(オリヴィエ・アラン著)と『和声の変貌』(エドモン・コステール著)を図書館で借りて読んでいて、なんかタイトルに「和声」がつく本ばかりですが(笑)、自分なりに追求していることがあってのことです。自分の中にぼんやりした疑問があって、そのことについてある程度納得できる答えを導きたい。
『和声の歴史』はとてもよかったので、また別の機会に書ければと思いますが……
「子どもにとって音楽って?」
今日は近くの保育所・児童館の「子育て講演会」を担当させていただいて、午前中1時間、お話や演奏・伴奏などをしてきました。毎月保育所2階の児童館の「ピアノに合わせてあそぼう」でピアノを担当していますが、子育て講演会ではテーマもプログラムも全部私が考えてやらせていただきます。
昨年もやらせていただいて、その時は子どもの聴覚やリズム感、子守歌などを中心とした内容でした。
今回は「子どもにとって音楽って?」というタイトルにしました。
サブタイトルは
・「子どもにとって音楽とは?」
フリッツ・イェーデの「子どもは喜びの気持ちを歌にする」という言葉などを引用して、子どもは生きている喜びを音楽を通して表しているというようなお話です。
・「なぜ音楽が大切か?」
音楽は人間のコミュニケーションの一つのかたちであり、音楽を使ってコミュニケーションの力をつけていくという側面からお話しました。
・「どのような音楽環境を作ってあげようか?」
何か特別にというより、安心して楽しみながら音楽体験できることが良いということ。童謡やわらべうたなどやさしい音楽がよりまねしやすく、歌やおどりを通してみずから表現するという行為につながっていく。
おおざっぱに言えばお話はこんな感じの内容でした。
演奏は私のオリジナル曲を4曲、編曲したものを2曲(きらきら星、チューリップ)やりました。チューリップ変奏曲が子どもたちもよく体を動かして反応してくれていたようです。
この曲はわりとリズミカルですが、やはり子どもはリズムが好きかな(去年したお話)。
保育所の担当の方の提案で、パネルシアターをプログラムに入れました。「はらぺこあおむし」でピアノ伴奏はリズミカルだったり、しんみりしたり、よくお話に合わせて作られています。
それから、「即興わらべうたつくり」というのをやりました。2つの音でわらべうたができてしまうということを説明して、実際に適当にファとソの音をランダムに並べかえて歌ってみるとわらべうたに聞こえるでしょう?と同意を求める(笑)。あとでスタッフの1人が「そうなんや」と感心してました。
お母さんたちに、ぜひおうちで試して、お子さんに歌ってみてあげてくださいねと言いました。試してくれるとうれしいな。
最後は、昨年リズム遊びのために作っていただいたビーズなどの入ったかわいいマラカスをみんなに持ってもらって、森のくまさんやおもちゃのチャチャチャなどを歌いました。
今日のお話のまさに、安心して楽しみながらの音楽体験だと思います。実際歌が歌えるお子さんは少なかった(まだ小さくて)と思いますが、お母さんは歌っているし、マラカスは音がするし、楽しいという感覚は持ってくれてると思っています(毎月のイベントでも)。
いい講演会だったかどうかわかりませんが、しゃべったりピアノ弾いたりでなかなか濃い、楽しい1時間でした。
『オペラをつくる』より
『オペラをつくる』(武満徹・大江健三郎著/岩波新書)という本を多少おおざっぱに読みました。この本は1990年に出版されています。武満さんが66歳で亡くなる6年前です。
実際に具体的なオペラ作品をつくる過程というよりも、ブレーンストーミングを行っているような内容で、様々な小説、映画、オペラを例にあげ、表現ということについて多くのことが考察されています。
武満さんがオペラに興味を持ち始めたのも、既成のオペラの影響よりも、文学、映画、演劇などの表現方法から色々な刺激を受けてのことのようです。
ここに紹介されているような、小説、映画は恐らく私はあまり読んだり観たりしたくないようなものが多そうだなというのが私の感想ですが(経験上、いくらそこに多くの意味が含まれていても読んだり観たりしたあとに気持ちが重くなるものが苦手なので)、その肝心な作者が作品で表現したいもの、その手段などについて両者は語っていて、物語についてはごく簡単な説明のため、あまり重い気持ちにならずに(でも想像してしまう)そういう見方もあるのか、と興味深く読める部分がたくさんあります。
武満さんは音楽家として、大江さんは作家としての表現について多くを語られていますが、やはり作曲家の武満さんの言葉により興味があります。音楽やそれ以外のことから何を感じていらっしゃったのか。少し長いですが、そのうちの一部分を引用したいと思います。
「こんなことは人に話すことではないし、ことに音楽を専門としている人が聞いたら笑うかもしれないけれども、僕はどういうわけか、鯉の滝上りじゃないけれど、歴史を逆に歩いている、音楽史を逆に歩いているみたいなところがある。やっと最近になって古いものに興味を持ち出してきた。自分ではそのことを非常に警戒しています。老化じゃないか、精神が弱くなってきているんじゃないか、肉体が衰えてきたから精神も弱くなってきているのじゃないかなどと思いますが、そうとばかりも言えないたとえばモーツァルトを聴いたり、ベートーヴェンを聴いていると昔よりたいへん打たれるときがある。それはどういうことに打たれるかというと、僕も曲がりなりに音楽を三十年以上やってきて、ある程度技術的、経験的に、自分の技術でこういう音楽をつくることができるといちおうはわかる。しかし、モーツァルトをなにげなく聴いているとき、自分がいままで取得した技術で、これはこうなっているからこういうふうにひびいているのだということはわかる。
ところが真面目に、僕が主体的に真面目になるのではなく、モーツァルトの音楽がたまたま真面目にさせるのですが、ちょっと聴いてみると、僕はとてもこういうふうにはできないという異常なものが見える。それは具体的にどんなことなのかというと、たとえばモーツァルトの晩年のシンフォニー(四十番)をみると、主題である旋律は実に簡単なものだ。たった二つの音しかないのですが、それですべての音楽の力学というか、これは西洋音楽のことですが、はっきりわかる。たった二つの音のつながりだけなのに、そこに他の音楽とはまったく異なった独自のひびきの世界がある。そういうことがなぜ生ずるのかということは、いまの僕には非常に大きな問題なんです。
自分の技術でいろいろな旋律をつなげてあるアラベスクをつくって、おもしろい音響空間をつくるということは、さほどむずかしくはないです。ところが、たった二つの音で、これはベートーヴェンもそうです。タタタターン(運命)。そこに総体としてあるものの重さは、そんなに単純なものじゃないということがわかるのです。それはある程度自分が音楽をやってきて自ずからわかってきた。そうしたことを理解できるようになったことが、はたしていいか悪いかはわからないです。モーツァルトにしてもベートーヴェンにしても、”最後の作品” といえるようなものを書いている。そういうものをいくらか理解できるようになった。感覚的にも理解できるし、知的にも理解できる。総体として人間の表現というか、それを書かずにはいられなかった人間というものをいくらか身近なものに見えるようになったのです。それは作曲の技術とか、そういうことで言えばなんでもなく解析される事柄でしかないのですが、しかし、たった二つの音をつないでいる意思というか、それは物理では説明できないものです。そういうものが人間を動かしている。そうなってくると西洋音楽だろうが、アフリカの音楽だろうが、東洋の音楽だろうが、なんの関係もないのではないかと思えてきます。
そうした根底的に、普遍的な原理というものは、大きなオペラをつくるときにことに大事なのではないかと思います。非常に単純でいて複雑。うまく言えませんが、自分が音楽をやってきて、直感的にそう思うようになってきた。しかし、自分がこういう音楽をやってきて、最初に西洋の音楽をはじめて、途中で伝統的な日本の音楽に気づいたり、他の音楽に気づかされたりして、しかもやっぱり西洋音楽のなかにある ― もちろん西洋の中にもつまらない、装飾的な、芸術音楽としてつまらないものがあり、おもしろかったり、慰められたりするものはあるのですが、そうじゃなくて ― 本当に最初のもので、同時に最後のものであるようなもの。永遠なるものをいつももっているようなものが、西洋芸術のなかに多くあるのではないかと思います。」
この始めのあたりを読んで、私はどちらかというとバロックからロマン派くらいまでの形式に無意識にとらわれていた部分があると最近意識し始めたので、逆かな?と思ったりしました(振り返ればロマン派のあとの作品よりもはるかに長い時間それ以前の作品に接してきている)。
それで引用して記事にしてみようと思いました。そこから後の部分もいいことが書いてあるので続けました。
武満さんはドビュッシーが好きなようでしたが、ドビュッシーは古典的な手法をどんどん壊していったような人で、武満さんはそのあたりからスタートして何年もたって古典に向き始めた。
私はむしろ、もっと新しいものを聴いたり研究した方がいいなと最近思っています。好き嫌いはともかく、それほど積極的でなかった新しめの音楽も聴くようにしています。やはり選曲はしますが(無理なものは無理(笑))。そうすると案外、いいなと思うものにも出会います。シャルル・ケクランやその弟子のタイユフェールなども最近聴いている作曲家の一部です(クープランもケクランの弟子と最近知りました)。
実際武満さんは、1994年のリヨンの新しいオペラ劇場こけら落としの作品を委嘱されてたんですね。
志半ばで、さぞ残念だったと思います。