教育」カテゴリーアーカイブ

視点を変える力、共感する力

『デンマークの親は子どもを褒めない』(ジェシカ・ジョエル・アレキサンダー/イーベン・ディシング・サンダール著/鹿田昌美訳/集英社)の「Reframing 視点を変える」という章からです。

多くの人は、物の見方を「無意識に選んでいる」ことに気づいていない。自分が見る世界が真実だと思っている。自分にとっての真実、物の見方が、学習によってもたらされた視点(多くの場合は親や文化から受け継ぐ)だとは考えない。単に「当たり前」だと思う。この「当たり前」の設定を「フレーム」と呼び、フレームを通して見た世界が「あなたの物の見方(視点)」である。人は、自分が真実だと認識したことを真実だと感じるのだ。

一人一人が違うフレームを持っているということを認識できれば、他の人をより理解したり、受け入れたりできるのだと思います。

また、別の章に「Empathy 共感力」というのがあります。

エンパシーとは、他人の気持ちに感情移入できる力、共感力のこと。その人の感情を理解するだけではなく、気持ちに寄り添うことだ。

世の中のもめごとや摩擦の多くが「視点を変える力」と「共感する力」が足りないために起こっているのではないでしょうか。視点を変えることができれば、共感できる部分が増えるかもしれない。この二つのことはつながっていると思います。そういったことが基礎にあれば社会はもっと寛容で居心地のいい場所になるのではないでしょうか。

子どもの頃から、視点を変える力、人の気持ちを想像してみる力を養えるよう、大人との会話の中で気づかせてあげられることが大切なのだと思います。

 

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『デンマークの親は子どもを褒めない』を読んで

『デンマークの親は子どもを褒めない』(ジェシカ・ジョエル・アレキサンダー/イーベン・ディシング・サンダール著/鹿田昌美訳/集英社)という本を読みました。今年のイベントに備え、資料を検索していてたまたま見つけました。褒め育てがいいのか、そうでないのか、ということよりも、副題の「世界一幸せな国が実践する「折れない」子どもの育て方」という方にとても興味を持ちました。著者のジェシカさんはアメリカ人で作家で、イーベンさんはデンマーク人で心理学の専門家です。ジェシカさんはデンマーク人と結婚し、アメリカとデンマークの子育てに対する考え方や価値観の違いに衝撃を受けたということです。アメリカでは若いうちから心が折れる人がどんどん増えているということで、子育ての重要性をもっと認識せねばという強い思いを持っておられます。

私は常々、子育てというのは、小さなお子さんのいる家庭だけが抱えるというものではなく、社会が関心を持って、社会で支えていくという意識があっていいと思っています。なぜなら、子どもはみんな大人になり、社会を動かしていく人たちになるからです。子育てに悩みを抱える人が増えているならば、それは社会の問題がそういう所に表れているということかもしれません。私が子育てしていた時は、そこまで考えていませんでしたが、児童館などに通うようになって、子どもに関する本なども読む機会増え、そのことについてより関心を持つようになりました。

この本の序章にはまず、次のように書かれています。

子育ての基盤となるデンマーク的な思想と子育てスタイルが、「レジリエンス(折れない心)を持つ情緒が安定した幸せな子ども」という素晴らしい結果を生みだしている。そして彼らが「レジリエンスを持つ情緒が安定した幸せな大人」へと成長し、ふたたび同じ子育てスタイルで子どもを育てる。

子ども時代はやがて大人になる基礎を形成する時期だから大切ですよね。先日ブログ記事に「長い目で見れば、心が成長し、内面が充実し、精神的に安定していくことがその後何をやるにも支えとなるのだと思います」(「子どもと音楽について考える」より)と書きましたが、これは以前からの私の考えです。

この本には「折れない心」を育てるための考え方がいくつかのテーマに沿って書かれていますが、まず最初は「遊び」の大切さについてです。

デンマークの親や教師が重視するのは、社会性、自主性、団結力、民主性、自尊心。

それらを育てるために、子どもたちが自由に遊ぶことを重視する。子どもが先生や親から干渉されすぎると、自分の内部から沸きあがる意欲を育むことができないということです。

統制の所在(「自分を応援する気持ち」「内側から湧き上がる意欲」)が自分の中にある人は、人生や身に起こる出来事をコントロールする力が自分にあると信じている。モチベーションの源が自己に内在する。一方、外部に統制の所在がある人は、人生は環境や運命といった外的要因にコントロールされており自分では変えにくい、と信じている。モチベーションの源が外部にあるからだ。

統制の所在を自分の内側に持つことによって、様々な状況に対処できる折れない心を育てることになる。そのためには子どもが自由に遊ぶ中で自らが感じ、考え、行動する力をつけることに対し、あまり干渉しすぎずに見守る必要があるというのが、デンマーク人の子育ての考えのようです。

これは、私自身の子育ての時にも考えていたことです。子育てはわからないこと、迷うことがたくさんありましたが、遊びから、自主性や創造性や協調性など多くのことを学ぶのだと、日々遊ぶ子どもたちを見ながら思っていました。

教育については色々な考え方があると思いますし、またそれぞれの家庭によって事情も異なると思いますが、特に幼いうちの「自由な遊び」は習い事や勉強に比べて無駄かと言えば、むしろそちらの方が大切なのではと思います。ただ、今どきはスマホやらゲームやら色々あって、また安心して遊べる場所が減っているなど、どうやって子どもたちを遊ばせるのがいいのか、という問題もありますよね。そういったことも各家庭の問題で片づけるのではなく、本当は社会が子どもにとって望ましい環境とはどういうものか、ある程度共通の認識を持って、それを整える必要があるのだと思いますが、ちょっとハードルが高いのだろうなというのが正直な気持ちです。でも、少しでも良い方向に向かうことを願います。

この本について続きがまた書ければと思います。

ちなみに、2016年にこんな記事を書いていました。『「遊び」は大切

興味のある方はお読みください。

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「しゅ・は・り」とは

最近たまたまツイッターで「守破離」という言葉を知りました。デジタル大辞泉によると

剣道や茶道などで、修業における段階を示したもの。

「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階

「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ心技を発展させる段階

「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階

ということです。

以前、お花を習いに行っていた時、先生が「師匠というものは、弟子がずっと一生この人についていきたいと思う人」と言われました。それを聞いて、そうか、日本の伝統文化はそういった考えなのかと思いました。でも「守破離」を知って、そうでもないのかなと思いました。

教育というのは、何かを行ったり、判断する際のとりあえずの基準となるものを身につけるために必要なものだと思っています(守)。なので、基礎ができたら色々な人から教わるというのはいいことだろうと思います。できるだけ価値観の違う人から(破)。そして、いつかは自分で考えられるようになる(離)ことを目指して。

私は私の性格によって妙な音楽の道をたどってきたと今となっては思いますが(人生はそういうもの?)、多分今は「離」の状態かな(とりあえず好きなようにやっているという意味で!)。

色々なものにあてはまりそうです。

今うちの小さな花壇で咲いている山アジサイです。小さくてかわいいです。

ピアノへの向き合い方はいろいろ

先日、たまたま見かけたかなり前のYahoo知恵袋の質問に、次のようなものがありました。

質問者Aさんは、5~6歳くらいのお子さんに1年半ほどピアノを教えていらっしゃるのですが、ご自身も少し弾ける程度ということで、教材についてアドバイスが欲しいという内容です。質問内容には、これまで使われてきた教材、親として何のためにピアノを教えているのか(自分も少し弾けることで楽しめているので、子どもも簡単なことをピアノでできるようになったらいいなと思うということ)、親から見た子どもの音楽的センス、習わせる余裕はない、本物のピアノはない、コミュニケーションとしてやっているなど、ということが書かれていて、ある程度限られた条件の中、多分お子さんの適性もよくわかった上で、ご自分でできることをやっていらっしゃるんだなと感じました。お子さんもちゃんと親御さんの元でピアノを続けているのだから、すばらしいと思いました。

でも、これに対する回答の中には、教材についてではなく、親御さんを非難するちょっと驚くようなコメントがいくつかありました。

何のために教えているのか、中途半端で子どもがかわいそう、子どもの芽を摘む、母親のエゴ、絶対音楽をつけさせるべきなど、批判的な、または一方的に価値観を押し付ける、感情的なコメントが少なからずあり、とても違和感を覚えました(匿名でなければここまで書けないと思います)。

それらのコメントから、ピアノをやるならちゃんと徹底的にやらなければ意味がない、将来音楽の仕事につけないという考え方が感じられました(Aさんの文章をちゃんと読めば、これらのコメントは出てこないと思うんですが)。

でも世の中には、色々な理由でピアノが弾きたい人たちがいます。私が接している親御さんでも、コンクールや音大を目指したいわけではないとはっきり言う方もいらっしゃいます。それは、Aさんのように、自分の子どもの適性はわかっている、でも少し弾けたら楽しみが増えたり、役にたつこともあるかもしれないという気持から習わせたいと思っていらっしゃるのでしょう。実際にはそういう親御さんの方が多いのではないでしょうか?

音楽の道に進み、さらにプロの音楽家になるには、そこそこの資質と相当な覚悟と長い年月の努力が必要で、それでも音楽家として生計をたてることは並大抵ではないですよね。昔から、モーツァルトやドビュッシーでさえもお金に困っていた!

そういうことがわかっていれば、なおさら、そこに多くの時間やお金を費やすよりも、他のことも色々させて(別に習いごとでなくても、色々な経験や遊び!を)可能性の幅を広げたいと考えるのは自然なことだと思います。本人がやりたい!というのなら、なるべくその気持を大事にして、伸ばしてあげるような環境においてあげるのがいいのだと思います。子どもの適性を見ずに、こうするべきという形にはめようとするのは望ましくないと思います。一番よくないのは、多くを求めすぎて、結局苦手意識を持ってやめてしまうことではないでしょうか。

『音楽気質』(アンソニー・E・ケンプ著/朝井知訳/星和書店)という本の13章「音楽的才能の発達」に、

「若い音楽家は、親が、自分の子どもの音楽的発達のための責任と信じて押し付けてくる環境に、どの程度まで包まれているべきなのだろうか」

という問いかけがあります。

この本では、音楽家となるタイプについての様々な検証がなされていますが、やはり適性というのはあります。でも、音楽を学ぶという行為は、一流の音楽家を目指す人から、楽しみのためにやりたい人までとても幅広く行われることで(もちろんクラシック以外のたくさんのジャンルも含め)、この中で音楽家に向いている人というのは、地道に練習や創作という孤独な作業に膨大な時間をつぎ込んでそれをずっと継続できる人で、ある程度絞られてくる。そういった人たちと、楽しみのためにやりたいだけでそこまで時間もお金もかけられない人が、同じように取り組むべきということにはならないと思います。

私が、ピアノに興味がある人たちにできることは、多少でもより弾けるようになって、音楽の楽しみを感じられるようなるお手伝いをすることだと思っています。