クラシック」カテゴリーアーカイブ

ピアノとチェンバロのサロンコンサート

先日、三橋桜子さんとパブロ・エスカンデさんご夫妻のサロンコンサートへ行ってきました。今回のコンサートはCD「Dolci」の発売記念コンサートで、昨年から少人数ずつ10回にわけて開催されました。昨年案内をいただいていたのですが、連絡ミスで行きそびれ、今回追加コンサートをされるというので、行かせていただきました。

「Dolci」(イタリア語でデザートという意味だそうです)はピアノ連弾のためのアンコール曲集で、23曲収録されています。聴いたことある有名な曲も多いのですが、連弾であること(パブロさんの編曲含む)、パブロさんのオリジナル曲も入っていること、あまり知られていない作曲家の曲もあることなど、やはり他では聞けない曲集になっていると思います。

コンサートは40分ほどでしたが、ピアノ連弾でCD収録曲、パブロさんの曲、ピアソラの曲など、チェンバロ連弾でバロック曲(ヴィバルディと、関西では恐らく初演と言われていた多分一般にはほとんど知られてない作曲家→忘れました)と10曲くらいだったでしょうか、とても濃い内容でした。お二人の息の合った演奏も素晴らしく、聴き入りました。

コンサートのあと、マテ茶と手作りクッキーをごちそうになり、その後、興味のある人たちが残ってチェンバロについて色々と教えていただいたりしました。
興味深かった点がいくつかあります。ピアノは昔作られた当初からはどんどん改良されていったわけですが、チェンバロは当時のままということ。弦をはじく部分の部品を自ら削って調整すること。上部鍵盤の位置をずらすとユニゾンで音が出ること(結果、大きな音が出せる。実際弾いてみて確認)、レバーの切り替えで弦を押さえて響きを変えられる(ピアノのペダルのような)、などなど。
そして一番驚いたのが、ピアノのように平均律だけではなく、音律を変えることができるということ。チェンバロは狂いやすくたびたび(コンサートの合間でも)調律をするということは、音律を変えることも容易ということなんでしょうか? 調性によってより美しく響く音律に合わせることができるのは、弦楽器や歌だと思っていましたが、鍵盤楽器でもそれが可能なわけですね(この辺りは少し専門的な話になりますね。過去に少し関連するような記事も書いていますが(「音律について少し」)、あまり詳しいわけでもなくうまく説明できないので、興味のある方は調べてくださいね)。

皆さんが帰られたあと、最後に私たち夫婦が残って桜子さん、パブロさんご家族と色々と話をしました。ゆっくりとお話をさせていただくのは何年かぶりで、楽しかったです。

帰って早速、家事をしつつ聴かせていただきました。短めの曲ばかりですが、盛りだくさんで聴きごたえあります。また何度もじっくり聴いてと楽しもうと思います。

曲目などこちらで詳細がご覧いただけます。https://amzn.to/3vMpQQM

「死と生」のコンサート

4月8日は、京都文化博物館別館ホールで行われた、三橋桜子さん、パブロ・エスカンデさんご夫妻主催のコンサートシリーズ、アンサンブル・コントラスタンテへ行ってきました。今回のテーマは「死と生」でした。
「死」というとなかなか重いテーマに感じますが、全体としてその対比としてある「生」が浮き立つような印象がありました。「生と死」ではなく「死と生」という語順にされたのも、「生」に光を当てようという意図があったのではと勝手に想像しています。

プログラムは以下のとおり

・ランベール 愛する人の影

・クープラン 2つのミュゼット (歌なし)

・モンテクレール ダイドーの死

・ヘンデル 調子の良い鍛冶屋(三橋桜子編曲) (歌なし)

・フローベルガー ブランシュロシュ氏の死に寄せる追悼曲 (歌なし)

・バッハ オルガンのためのトリオソナタ 第5番より ラルゴ (歌なし)

・パーセル 妖精の女王より「聞いて!風がこだましながら」 (歌なし)

・シューベルト リュートに寄せて

        ポロネーズニ短調 (歌なし)

        死と少女

・サンサーンス 死の舞踏 (歌なし)

・エスカンデ 5つの死の歌(イバルボウロウの詩による)
        高熱
        死
        死のヴォカリーズ
        船
        道

・フォーレ 組曲「ドリー」より子守唄 (歌なし)

・エスカンデ さくら(茨木のり子の詩による)

(バッハのラルゴは時間の関係で演奏されませんでした)

谷村由美子(ソプラノ)
三橋桜子(チェンバロ・オルガン・ピアノ)
パブロ・エスカンデ(オルガン・オッタビーノ・ピアノ)

お二人のコンサートのプログラムはいつもオリジナリティの高い、創意工夫の感じられるものばかりですが、その理由の一つは楽器の編成に合わせた編曲が多いというのがあるのではと思います。伴奏も連弾であったり、チェンバロとオルガンだったり、曲によって入れ替わって弾かれます。パブロさんが作曲家で演奏もこなされるので、かなり自由にできるのではないでしょうか?
例えば、サンサーンスの「死の舞踏」という曲は、元々オーケストラの曲ですが、ピアノとオルガン用に編曲され演奏されました。他ではなかなか聴けないと思います。かっこいい編曲、演奏でした。
また別の理由として、選曲が面白いというのもあると思います。今回もバロックから現代(パブロさん)まで幅広く、知らない曲が多かったです。
その中でまた聴いてみたいと思える曲が何曲かありました。例えばシューベルトの「リュートに寄せて」など。

そして、特に印象深かったのは「5つの死の歌」と「さくら」です。

「5つの死の歌」はウルグアイの詩人、イバルボウロウの詩でそれにインスパイアされてパブロさんが若いころに作ったということです。この曲を聴いていて、ピアソラを思い出しました。パブロさんはアルゼンチン出身のようなので、どこか似た感性があるのかなと思うことがあります。現代的な響きと哀愁を帯びた旋律に心動かされ、何度も心に波がおこり涙が出そうに。声が楽器のようになるヴォカリーズもいいなと改めて思いました。

そして「さくら」。これは詩人、茨木のり子の詩で、ソプラノの谷村さんがパブロさんに作曲を依頼、今回初めて公の場で演奏されるということでした。

この詩はなかなか強烈でした。

さくら

ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
先祖の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞だつせいでしょう
あでやかとも妖しいとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と

今回のテーマ、「死と生」について考えさせられる。死生観が表されていると感じる詩。
美しい音楽(ピアノ伴奏、歌声)とあいまって、迫ってきました。

谷村由美子さんの声は、ふくよかで柔らかい、けれど迫力もあり聴きごたえあるものでした。

終わって帰る前、お二人に挨拶しましたが、「すごくよかったです!」などとしか言い表せないことがもどかしかった。人が多くてゆっくりは話せなかったというのもあるのですが。
感じたこと、心に起こったことはそう簡単には言い表せない。せめて、帰って少しでもその時の感じを思い出せるようブログに書こうと思っていました。

書いてみるとやはり、難しい。

赤ちゃんと音の世界&ミニピアノコンサート

3月16日、保育所で乳幼児向けの音楽イベントをさせていただきました。定員7組のところ、12組の参加となり、また保育所の0歳児さんたちも来てくれました。

「赤ちゃんと音の世界&ミニピアノコンサート」というタイトルは、昨年の始め、聚楽保育所の保育士さんが考えてくださって一緒に企画していましたが、まん延防止措置が延長となり中止になりました。その後、その方は別の所へ移られたため聚楽保育所での開催はなくなりました。

そして、昨年末にこのイベントの企画について知っておられた養生保育所の方から連絡をいただき、ぜひこの内容のイベントをやってほしいということで養生保育所で開催することになりました。

内容は赤ちゃんと音や音楽についての話とピアノ演奏です。

お話の方では、赤ちゃんの聴覚や音からどういう情報を得ているか、マザリーズ、赤ちゃん向けの歌はどういったものか、音楽から何を感じるか、聴覚だけでなく視覚も含めたコミュニケーションが大切であること、歌いかけの効果など、ブログにも書いているような内容を短くまとめた資料をお渡しして、説明をしました。

演奏の方は、ハイドン2曲、モーツアルト2曲、グリーグ1曲を弾きました。
ピアノはアップライトでしたが、演奏前に生楽器の音とデジタル音の違いについて話しました。普段、多くの人が耳にしている音はテレビ、パソコン、スマホなどからの音だと思いますが、できれば倍音の豊かな生楽器や自然の音などを聞いて違いを感じられるのもいいのではというようなことです。

最後は、職員さんから予想外のアンコールがあり、1曲弾きました。

イベントについてのアンケートを後で見せていただくと、皆さん、好意的な感想を書いてくださっていましたが、中でもお子さんがずっとご機嫌だったとか、体を揺らしていたといった感想はうれしかったです。

そして、保育所の0歳児さんたちがおとなしく聴いていて驚いたと付き添いの保育士さんたちに聞かされました。普段はそうでもない子たちだそうです。背中を向けて弾いていたのでそういった様子がわからず、その話を聞き喜びました。

目の前で人が演奏していて、楽器がなっているということを初めて見た子も多かったかもしれません。

お話や演奏を通して、何か感じていただけたらいいなといつも思っています。

久々のピティナステップ

今日は久々にピティナのステップに参加してきました。実に7年ぶりです。それ以前も何年か、参加するのは京都修学院(アトリエ松田)だけになっていましたが、この会場も2~3年ほどはコロナのために開催されていなかったようです。
しばらく出ていなかったのは、オリジナル曲の作成と録音をやり始めたからだったと思いますが、松田先生の所へ来させていただているうちに(ロシアン奏法を学びます)、また出てみようかという気持ちになりました。

弾いたのはメンデルスゾーンの無言歌集から、「瞑想」(Op.30-1)「ヴェニスのゴンドラの歌」(Op.30-6)、「岸辺にて」(Op.53-1)の3曲。無言歌集は他にも好きな曲がありますが、出ると決めたのも2か月ほど前だったのでとりあえずの選曲となりました。

わりと無難な選曲をしたつもりですが、この3曲のうち「瞑想」がかなりポリフォニックで特にエンディングに近づくあたりは弾き分けしにくいところがあり、けっこうてこずっていました。「岸辺にて」は同じようなパターンが繰り返されるので、単調にならないような工夫が必要でした。
とりあえず、まあまあ落ち着いて弾けたのでよかったかな。

私の出たのは最終の部だったので、終わった後、以前何度か一緒に出演して知っている人やその他聴きに来られていた人たちなどと歓談しました。
アトリエ松田はとてもアットホームでなごやかな雰囲気があります。松田先生のおおらかなお人柄とも相まってか、打ち解けた雰囲気になりやすいのだと思います。
レッスンで弾かせていただいている場所ですが、やはりコンサートになるといつもと違った雰囲気になります。暗くなって照明が灯ると、昼間とはまた違った魅力が感じられる空間です。この雰囲気が好きと思える人たちとはどこか、共感できる感性があるのかもしれません。

来年はどうなるか。とりあえず、やろうとしてることが山ほどあるのでまた考え考えやっていくのでしょう。

(夫に写真を頼んだのですが、後ろの方から撮ったため人がたくさん写ってしまって、その部分を切りとったらこんな感じになりました。何をしている写真かわからない(笑))

メンデルスゾーンの本

メンデルスゾーンの無言歌集に好きな曲が何曲かあり、今は3曲練習もしています。メンデルスゾーンについて書かれた本を前から探していますがあまり種類がありません。音楽之友社が出している「作曲家・人と作品シリーズ」にも今のところありません(出るのを期待しています)。図書館で検索してもあまりなく、とりあえず『メンデルスゾーンの音符たち』(音楽之友社)という本を借りてみました。

この「音符たち」シリーズがあるのは前から知っていましたが、2年に渡って『音楽の友』誌で連載されていて書籍化されたものです。メンデルスゾーンでこのシリーズは終了したということです。

これまで色々な作曲家の本を読んでいますが、伝記的なものが多く、彼らがどのように音楽に向き合っていたのか、どんな人生を送ったのか、人として興味があります。
『メンデルスゾーンの音符たち』は作品ごとの解説のような本です。ですから、メンデルスゾーンがどのような人だったのか、あまりわからないようです。とりあえず無言歌集のところを読みましたが残念ながら7ページだけです。取り上げられている作品はごく一部。ページ数などの制約もあったように書かれています。

まず「はじめに」では著者の池辺晋一郎さんはメンデルスゾーンを絶賛しています。

メンデルスゾーンはまちがいなく、音楽史上屈指の天才だ。しかも、極めて正統的な天才である。和声法、対位法、フーガや管弦楽法……エクリチュール(書法)に関する技術の高さはバッハに比肩できると言って過言でない。

その割には、他のメジャーな作曲家に比べるとそれほどその作品を知られていないと思います。派手さがないから?? 正統すぎるから??

7ページと少ない中にも、興味深いことが書かれています。

この曲集は6曲ずつの8巻で合計48曲。最初の巻から最後の巻(死後刊)までは20年以上の期間があります。全部で48曲ということはバッハの平均律クラヴィーア曲集のようにすべての調性で作られているのかと言えば、そうではない。それどころか、♯、♭は4つまでの調でおさえられている。
少し驚いたのは、この48曲中メンデルスゾーン自らがタイトルをつけたのは5曲のみだったということ。それは、3曲の『ヴェニスの舟歌』(Op19-6, 30-6, 62-5)、『デュエット』(Op38-6)、『民謡』(Op53-5)ということです。おそらく無言歌集の中で一番有名な『春の歌』も別の人がつけたのですね。

この本で取り上げられた無言歌は3曲の『ヴェニスの舟歌』と、『春の歌』(Op62-6)、『紡ぎ歌』(Op67-4)です。たまたま今弾いている舟歌が入っているというのは運がいい!
解説を読んで曲の中に仕掛けられた伏線のようなものに気づかされました。

無言歌集の曲を特に弾きたくなったのはわりと最近ですが、以前読んだ本で無言歌について言及されていたことがずっと印象に残っています。
その本は、『ある「完全な音楽家」の肖像』(―マダム・ピュイグ=ロジェが日本に遺したもの)です。2011年、その頃書いていたブログでアンリエット・ピュイグ=ロジェの言葉を紹介しています。

「全体に、ことさら難しいものを求め、やさしいものを馬鹿にする傾向があるのではないでしょうか。技術的に難しい曲が、かならずしも音楽的にすぐれたものとはかぎらないのですが……。たとえば、ピアノ曲のレパートリーの中でもとくに難しい作品を弾きこなす学生が、メンデルスゾーンの《無言歌》やフォーレの作品など、技術は中程度の難しさで、自身の人間性を最も発揮しなければならない曲になると、どう弾いていいか困ってしまう。全体にアクロバティックなパフォーマンスが重視される傾向にあるのは、悲しむべきことで、胸が痛みます」

なるほど、無言歌はそういう難しさがあるのだと当時改めて思いました。豊かな表現力を求められるような曲は若いころよりも年を重ねた方がより深みがでそうです。
無言歌集の曲はポリフォニックな曲が多く、声部を弾き分ける難しさというのもあります。メンデルスゾーンはバッハのマタイ受難曲を世の中に知らしめた人です。やはりバッハに強く影響を受けている作曲家の一人ではないでしょうか。

途中から無言歌の話ばかりになりました。
また別のメンデルスゾーンの面白そうな本を見つけたら読んでみたいです。

ミハイル・プレトニョフ

松田先生にミハイル・プレトニョフというピアニストを教えていただいて、YouTubeで見ています。彼はロシアのピアニストですが(プロフィールはこちら)、この方の弾き方が、私が今習っているロシアン奏法の弾き方に近いんじゃないかと思っています。
とても近づけませんが、無駄な動きのない手や体の使い方(それによって引き出される音色)を少しでも見習いたいものです。

確認してみると、以前ご紹介した『ロシアピアニズム』(大野眞嗣/yamaha music media)の中でもミハイル・プレトニョフが紹介されていました。

ロシアン奏法、ロシアピアニズム、流派などもあり少しずつ違うようですが、共通している部分があると思います。

習っていなければ、このような動画を見ても、具体的にどこをどうすればこうなるのか自分で発見するのは難しいですが、今教わっている内容のお手本のような部分が所々に見られ、勉強になります。

ロシアン奏法(ロシアピアニズム)の他の記事はこちら

ショパンの演奏美学

レッスンで話題になった(前回の記事で書いた)『弟子から見たショパンーそのピアノ教育法と演奏美学』(ジャン=ジャックエーゲルディンゲル著/音楽之友社)を少し読んでいます。とにかく、分厚い本ですし(注釈も細かく多い)、多分今回も自分の興味がある所を選んで読むだろうと思います。

とりあえず、「序」の中にとても興味深い部分があります。時間がたって記憶があいまいですが前回読んだ時もそう思ってたはず。ショパンのこだわりが感じられる箇所で共感を覚えています。一部ご紹介します。

「ピアノを弾きたいのなら、歌わなければなりません」

P20

「(ショパンの)声楽へのこれほどのまでの愛着と、人を圧倒するような大音量を拒み、自然で素朴な演奏を好むことには、何らかの関係があると見て然るべきだろう」

P21

「(ショパンは)あまりに狭い職人芸的な見方に反対して、技術の習得はもっと芸術的なものだと主張している。空疎な練習を機械的にくり返してだんだんマンネリになるかわりに、聴覚を極度に集中させるのが彼のやり方なのだ!
このような集中によって、すばらしい音色を得るには不可欠な二つの要素が確実に得られる。耳が良くなり、筋肉を自由に動かし弛緩させることができるようになるのである。ショパンによれば技術とは、名人芸を身につけることよりもまず音の響き具合であり、タッチの用い方なのだということをもっと認識する必要があるのではないだろうか。「だからタッチにふさわしい腕の位置さえ覚えてしまえば、このうえなく美しい音色は自ずと得られ、長い音符も短い音符も思いのままに何でも弾けるようになる」

P22

「当時のピアノ教師たちは、無理な練習を重ねて強制的に指を「均等」にしようとしていたのだが、ショパンはその逆を行って、指の個性、つまりもともと「不均等」なものこそ多様な響きを生み出すものとして、むしろ助長していったのである。(中略)こうして彼は弟子に、退屈なばかりか生理学的にも無理を伴う練習をさせず、弟子の奏でる色彩あふれる響きの多様性を一挙に開花させていったのである。

P23

松田先生にも教えていただきましたが、ショパンの目指す音楽とそのための奏法はロシアピアニズムと重なる部分があると改めて感じます。この本を何年か前読んだときは、ロシアピアニズムについてあまり知らなかったので、今回は改めて新鮮な驚きがあります。

共通すると感じる点はピアノで歌うこと、そのためには機械的な練習ではなく耳を研ぎ澄まし音色を聴くこと、美しい音色のためにはそれにふさわしい体の位置を知り、使い方を身につけること、そういったことです。

また、上の引用の中に「生理学的にも無理を伴う練習」というのがありますが、手や指が強い負担を感じるような練習というのは、それによって多少思うようになったとしても、いずれ手の故障につながる心配がありますよね(『ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと』にも書いてあるように)。例えば指の独立のために特に上がりにくい薬指を高く上げる練習というのもまだあるようですが、手の構造上かなり無理がありますよね。その前提がハイフィンガー奏法だから、奏法が変わればその必要もなくなりますね?
ショパンは体のことを理解した上で、当時のやり方とは違った合理的な考え方で弟子を指導していたということですから、弟子の証言満載のこの本はやはり参考になりそうです(以前ある程度は読んだのですがみんなショパンをほめちぎっているという印象。彼は教育熱心でヨーロッパ各地からショパンの教えを乞いに弟子が集まったとか。その数は正確にはわからないが記録による研究では150人(おそらく長・短期入れて)に及んでるのではないかと。その間に作曲してたとかすごすぎる)。

私がロシアン奏法を習おうと思ったのも、音色や表現をもっと豊かにしたいからです。ロシアン奏法はクラシックの奏法ですが、その奏法を通して自分の音楽表現(ジャンルでくくらない)を良くしていければいいな、自分が前より少しは良くなったかもと思えることができれば、それが続いていけばいいなと思っています。また、これらのことがピアノを弾いておられる方々の参考になれば幸いです。

最新版ではなく私の持っている本です。引用もここからです。

ロシアン奏法とショパンの教えの共通点

今日のロシアン奏法レッスンで、松田先生が『弟子から見たショパン』(ジャン=ジャックエーゲルディンゲル著/音楽之友社)の話をされました。この本はだいぶ前に買って、まだ全部読めず置いてあるのですが、ショパンが指示している弾き方にロシアン奏法と共通する部分があるということです。手の傾け方や、タッチの方法など。該当箇所を教えていただいて、なるほど。ただ、先生のお持ちの本は増補最新版で中身がちょっと変わってそうです。
ショパンが、手の形を理解して無理な弾き方をしないという合理的なことを言っていたことが書いてあったとぼんやり記憶していますが、その他の細かい部分は覚えていないし、また読もうかなと思っています。

ショパンが体のつくりを理解してピアノを弾いていたのと対照的に、同時期の作曲家、シューマンは手に負担のかかる間違った練習をしてしまって手を痛めピアノが弾けなくなってしまった。昔はヨーロッパでも手を鍛えるために変な器具を使ったりしていたみたいですね。

今はまだ、ロシアン奏法の基礎をやっていて、まだ感覚的につかめるには時間がかかりそうですが(当然です!)、普通の曲を弾くとこれまでのように弾いてしまうから、ちょっと控えた方が良さそうです。これまでもそうですが、これからもちょっとずつ地道にやっていくのみです(汗)。

音色に目覚めたできごと

もう何年も前になりますが、ポーランドのピアニスト、アンジェイ・ヤシンスキ教授の公開レッスンを見に行ったことがあります。その時の経験が私がピアノの音色に目覚めるきっかけになったと思っています(確か)。公開レッスンですから、先生は自分のリサイタルのようには演奏されないわけですが、合間合間にさらっと見本に弾かれます。その時に聴いたヤシンスキ教授のモーツァルトにはっとさせられたのです。気楽に弾いている感じなのになんという音色。ピアノからあのような音が出るのかと(ちなみにヤシンスキ教授はショパンとモーツァルトがお得意なようです。ボーランド出身ですからね、ショパンコンクールの審査員もされている)。

それからしばらくは、モーツァルトを少しでも美しく弾くことに挑戦していました。下部雑音が混ざらない方がいいのかとか、色々研究もしました。下部雑音を意識しすぎると、打鍵が浅めになり不安定になる。それで、ピアニスト内藤晃さんが書かれた「ピアノでオーケストラを」という冊子を読んでいると、「下部雑音の有無を用いて音色をコントロールする」ことについてなど書かれていて、そうか、曲にもよるだろうけど使い分けが必要なのかと思ったり。なかなかイメージしている演奏には近づけない(汗)。

まあ、そんな経緯があって、音色というものにより注意がいくようになったのです。
ここ何年かは自作曲を作って弾くことが多かったのですが、テンポがゆったり気味でシンプルなものが多い。そうすると自然と出している音一つ一つがわりと良く聞こえて、音質チェックができる。それで、ピアノの残響がきれいなあとか感じているのですが、これはまさに倍音を楽しんでいるんだなと思っていました。

なので、最近読んだ『ロシアピアニズム』(大野眞嗣氏著/yamaha music media)に倍音を響かせる弾き方について書かれていたのを見て、自分はわりとそのつもりなんだけどなあと思っていました。

そして、前回の記事で書いた話につながるのですが、調律師さんが弾き方によって基音と倍音のバランスが変わり音色が変わるということをピアノの構造から説明されるのを聞いて、改めてさらに倍音を響かせる弾き方があると認識しました(何も考えずに弾いても弦は共鳴するから倍音は出ているんだけど)。

そして、松田紗依先生のレッスンで目の前でタッチの違いによる音色の違いを聞いて、感動したわけです(笑)。

今回この記事を書くにあたって、内藤晃さんの「ピアノでオーケストラを」、『ピアノの演奏と知識』(雁部一浩著/音楽之友社)→(この本は確か音色に目覚めるよりずいぶん前に読んだのですが、当時、ピアノの構造上、ピアニストが意図的に操作できるのは音の「長さ」と「大きさ」だけ(雑音効果をのぞき)と書かれているのに対して、そんなもんだろうか?と思っていました。今回、それは違うだろうと思えるようになりました)、そしてヤシンスキ教授の公開レッスン時のメモをチェックしました。

そのメモの中に、「打鍵後、リボンを引っ張るようにその強さを変える」というのがありました。これがもしかしたら、鍵盤の上で指をすべらせる倍音を響かせるタッチのことだろうかと、今頃思いいたりました。当時はメモはしていたけどそこまで考えていなかったと思う。けれど、メモしておいて良かった(笑)。

ヤシンスキ教授の演奏、生で聴く機会はもうないでしょうけど、YouTubeにあったのを見つけました。

それとはまた別に、たまたまYouTubeで倍音について説明されているジャズピアニストの動画を見つけて、なんとなく聞いていたんですが、一通り説明が終わったあと、質問者が、ピアノを弾かれるとき倍音を意識されていますか?と尋ねると、そのピアニストは少し考えてから、いえ、ほとんど意識しません、その他のことに意識がいっているのでと答えられていました。ジャズピアニストの場合、やはりアドリブとか考えることがいっぱいあって大変なのかもしれません。また音数の多い、速い曲などの場合もそういう響きを感じるチャンス自体少ないかもしれない。

ピアノという楽器は音と音の間に段差があり(半音、例えばドとドのシャープの間は音がない)、弦楽器や歌に比べ、「歌う」点において不利な楽器で、不利な点を補う方法の一つとして倍音を生かすというのがあると思います。

先日のレッスンで、松田先生がチッコリーニのテクニックについて弾きながら説明されました。チッコリーニ……すぐに思い出せなかったけど、音源も持っているし、以前本も読んだことがあるのを思い出しました。その本についてブログに書いていたことがあります(美しい音をめざして)。その中からの引用です。

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アルド・チッコリーニが5歳で初めてピアノを習った時の先生が言った言葉です。

「アルド、綺麗な音を出して頂戴! 私に美しい音を下さい! とても表現力に富んだ麗しい音の調べが欲しいの」

『アルド・チッコリーニ わが人生』(パスカル・ル・コール著/全音楽譜出版社)

ちょっとショックなくらい、感心しました。レッスンを始めた時から、自分の出している音を意識させるとは、とてもすばらしいことだと思いました。

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『ロシアピアニズム』に、日本ではデュナーミク(強弱)によって変化をつけ、音色そのものにこだわる指導をしている先生は少ないというようなことを書いてありました。私も自分の経験を振り返り、確かにそういう傾向があるかなと思っています。

この3年ほど前の記事でも、「これからも、美しい音をめざして修行を続けます!」と書いてました(笑)。はい、まだまだ続きます(笑)。

学びは続くよ

最近では、YouTubeなどで多くのピアノの先生、ピアニストなどがピアノの練習方法、奏法、音楽表現についてなどを実際に弾きながら説明する動画をアップされていますね。そのことによって色々な考え方、方法があることもわかります。昔なら、自分の習っている先生のやり方が一番正しいと皆思っていたかもしれないけれど、簡単に色々な情報にアクセスできる今は、何が正解なのかわかりにくくなっているとも言えると思います。

こういった動画を色々見ていると、初心者の人なら何をお手本にすればいいのか迷ってしまうだろうし、経験者でも自分のやってきた方法はこれでいいのか、考えさせられるかもしれません。

ただ、それは当然かもしれません。もともと音楽に「正解」などないのだからね。ずっと考えたり迷ったりしながら、やっていくものだと思います。まずは自分がどうなりたいのか、どんな音楽をどのように表現したいのかをイメージし、そのためには誰を見本にしたり、誰の考えを参考にしたりしていけばいいのか、共感できる人の力を借りながら自分で考え、学んでいくもんじゃないかなと思います。

今また『ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと』(トーマス・マーク他著/春秋社)をパラパラ読んでいますが(久々に読んでまた面白いなと思っています)、最初に読んだときにとても印象に残っている部分があります。もしかしたら、以前もブログで書いたかもしれません(今ネットに上げてる記事以前にも長年たくさん書いていてもはや何を書いたか書いてないか覚えていない)。

アルトゥール・ルービンシュタインが80歳を超えたころに言ったそうです。―「この歳になって、私はようやくピアノを学び始めた」と。
彼は60年以上のあいだ世界的に有名なピアニストであり続けたのですから、このような発言は冗談としか思えないものかもしれません。しかし、彼は本当に誠実な人でしたので、彼のこの発言は、新鮮さ、生命への愛、そして新しい経験を常に受け入れるといった、彼の性格と人生への姿勢を証明しているものであると、私は信じています。

P174

まるで次元の違う人の話ですが、その人にとっての目指すものはそれぞれで、学ぼうと思う限りずっと学ぶことになるんだろうなと思えます。

私も日々迷いながら、考え、試み、また考えと繰り返しています。でもそうやって向き合えるものがあることは幸せだなと思っています。80歳になってもルービンシュタインみたいなセリフを言えれば最高じゃないですか。それだけ前向きにやれているということだからね。


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