月別アーカイブ: 2019年6月

10年後、音楽は?

たまたま「10年後の人間は既製の音楽を聴いていない、米国の著名ベンチャーキャピタリスト語る」という記事を読みました。

彼によれば、そのころには我々は、それぞれの個人のために自動的にデザインされ、各人の脳や音の好みやニーズに合わせて作られたカスタムソングのようなものを聴いている。

ということです。

確かに、テクノロジーの進歩は恐ろしく早く、10年後はどうなっているかなんて全然わからないし、こういった選択肢もありうるのかもしれませんが、ここで言われる「音楽」には生演奏は含まれていないのだろうなと思うし、家で聴くにしても誰かのファンである人は突然好きな人の音楽を聴くのをやめたりということはないでしょう。

でも、これを読む前から、確かに傾向としては、聴く人たちが音楽に求めるものは少し変わってきていると感じていました。記事の中でも書かれている、Spotifyなどのストリーミングサービスを利用している人がとても増えてきているというのがその表れだと思います。同じ音楽を繰り返し聴くよりも、気分によって色々な音楽を聴く。そのためのプレイリストもたくさんあるし、すでにその人好みの音楽を分析しプレイリストが作られるところまできている。そこで未知の音楽に出会える可能性もたくさんある。以前はCDを買わなければ聴けなかったけど、定額で色々聴けるなら聴いてみようかなという人が増えるのは自然かもしれない。

音楽そのものは絶対になくならないと思っています。それは、音楽をやりたい人が必ずいるから。ただ、音楽を提供する側と、それを受ける側の気持ちのずれのようなものは、広がっていくかもしれないなあと思ったりしています。

 

アルバム『スピリッツ』について

西洋音楽とその他の音楽について」というブログ記事に書いている『キース・ジャレット』を始めとする何冊かの本による影響で、音楽についてどういう風に考えればいいのか、ちょっと混乱しました。つまり、自分の音楽のベースになっていた西洋音楽というものについて、改めて考えたのです。

そんなちょっとしたターニングポイントを経験する中で、印象に残っているものの一つが、キース・ジャレットの『スピリッツ』というアルバムです。キースはライブ録音をそのままレコードにすることも多くて、ものすごくたくさんアルバムがありますが『スピリッツ』はかなり特殊です。

彼自身が、ある期間、クラシックの音楽家たちと演奏を続けていて、即興のない世界、そして求めているものが違う人たちの中で違和感を覚え、やっぱり自分のいる場所ではないと思い、精神的にまいってしまうことがありました(結局その後また彼はクラシックの演奏も続けますが)。そんな中でジャンルで分けられた「音楽界」ではなく「音楽そのもの」を強烈に再認識し、何かにとりつかれたように自然に生まれてきた音楽を集めて作られたのが『スピリッツ』です。これは、素朴な、どこか知らない国の音楽?という感じです(演奏には様々な楽器が用いられています。キースについて驚くべきところはたくさんありますが、色々な楽器を演奏できるのもその一つです。ここではなるべく素朴な音のする楽器が選ばれています)。やはり民族音楽の影響もあるようで、抑えていた彼の思いがほとばしるような印象です。たった一人で豊かな音楽の世界を繰り広げています。

これを聴くだけでも、彼が普通のピアニストとはかなり違うことがわかると思います。彼はこれらの演奏を少しずつカセットテープに録りため(二つのカセット・レコーダーを使い多重録音をしている)、なくしたり壊したりしないように大事に取り扱った彼にとって特別大切な音楽のようです。これらを録音した時期は、二度と訪れることのないような特殊な心境であり絶対に残しておかなければならないと思っていたということです。『スピリッツ』以前と以降の音楽は違うというくらい、重要なアルバムのようです。

キースの再出発の原点となる『スピリッツ』を聴いていると、こちらもインスパイアされそうです。心が解放されるような気分に。こんな音楽を内に秘めながら、ジャズをやったり、クラシックをやったり様々なスタイルで表現しているのですね。深いというか広いというか、ただただ驚くばかりです。

「音楽って何なんだ?」とキースが思い悩むことが書かれている本を読み、私も音楽って何だろう?と改めて考えるにことになりました。難しい「問い」です(;’∀’)。

子どもと音楽について考える

毎月児童館で、かわいい小さな子たちを見ていて、みんな元気に成長して幸せになってほしいなあと思います。一緒に音楽遊びしたことが記憶のどこかにいい思い出として残っていてくれたら最高ですが、多分小さすぎて思い出すことは難しいでしょうね。それでも、一つ一つの経験が何かしら頭のどこかにインプットされるはずと思うので(赤ちゃんはあなどれない!)、それがポジティブな感情として残るといいなと願います。

たまたま、親御さんに連れてこられて来るわけだから、この子たちがみんな音楽好きかはわかりません。中には子どもが音楽好きなんですと言われる親御さんがいらっしゃったり、子ども自らピアノに興味を示したり、音楽に積極的に反応するということもあります。もし、この子たちがこれから何かの形で音楽に関わっていくとしたら、それはどんな方法がいいのか、それはいつも考えていることです。できれば幸せな音楽との関わり方ができる方がいい。でもそれは、その子どもによってそれぞれ違うと思います。

『音楽気質』(アンソニーE・ケンプ/朝井知訳/星和書店)の「音楽的才能の発達」という章に書かれている気になる部分を少しまとめました(翻訳文であるためちょっとわかりにくいかもしれませんが)。

あまりに早すぎる、例えば、目標を定めた活動などという外来的な動機の強化は、より本来的な「芸術的かつ情緒的な感受性」を抑制してしまう可能性がある。

子どもに対して、何の要求もなされない、落ち着いた、恐れのない環境が、音楽が、個人に最も強く情緒的な影響を及ぼすためには必要であるのだろう。

子どもに楽器などを習わせる場合、技術の習得という目に見える目標についつい気持ちがいって、少しでも早くと思いがちかもしれませんが、あまりあせらず、内面の成長にも心を配ることが大切だと思います。遊びの中でも音楽に接したり、楽しんだりすることはできるから、まずは自発的に音楽に関わる様子を見守って、その子にどういった音楽環境がふさわしいのか考えてもいいのかもしれません。遊びの中なら楽しんでいても、いざ習わせたら興味を失うということもあると思いますが、それは音楽が嫌いというわけではなく、指示されてやるのが嫌なだけかもしれません。そういった子にも音楽性をはぐくむ可能性はあるだろうから、違った方法をとってみるというのもいいんじゃないでしょうか。結局もっと別のことに興味を持つかもしれないけど、何が好きかは自分が一番わかってるんだから、それでいいと思います。これは音楽以外でもそうでしょう。

音楽や芸術分野に限らず、感受性をはぐくむのはとても大事だと思います。特に今のような物や情報があふれた混乱した時代では、何が本当に大切で必要なものか、それを感じられる力をつけることが生きていくために重要だと感じます。長い目で見れば、心が成長し、内面が充実し、精神的に安定していくことがその後何をやるにも支えとなるのだと思います。

サン・テグジュペリの『星の王子さま』に、

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」

という言葉がありますが、わかりやすいメッセージだと思います。この物語が書かれた時代よりも、今はもっと肝心なことが見えにくくなっているでしょう!

音楽が好きな子がどのような形で音楽に関わるのがいいのか、それは、既存のやり方以外にも可能性はあるのではと思っています。これからもそれについて考えながら、機会があればまた話したり、書いたりします。

西洋音楽とその他の音楽について

明治時代に日本の近代化に伴い、西洋音楽も導入され、それまでの日本の音楽が西洋音楽に取って代わられたというような話はたまに聞きます。それまでの日本の音楽と言えば、民謡やわらべうた、雅楽などの古典音楽でしょうか。西洋音楽とはつくりが全然違う音楽ですね。なので取って代わられたというよりも、それまでなかったジャンルの音楽が入ってきたという方が近いんじゃないかなという気がします。そして西洋音楽は、文部省唱歌のような形にして日本人が親しむよう仕向けられたからという理由だけではなく、やはり魅力があったから定着したのではないかと思います。当時の日本の作曲家たちも、理屈抜きでクラシック音楽を聴いてその魅力に惹きつけられたという話をこれまで何度か読んでいます。

西洋音楽は、合理化を優先し、十二平均律によって隣り合う音の音程を均等に整えてあり、民族を超えて共有するにはとても便利にできているんですね。また、閉じて秘伝にするというよりもオープンにして共有するというのも西洋文化の特徴の一つであると思います。日本に限らず、西洋音楽が他の非西洋の国々でも受け入れられているというのは、音楽の魅力に加え、そういった西洋音楽の性質によるところもあるのではないでしょうか(そういえば平均律の発明が音楽の商業化の始まりであるというようなことが『憂鬱と官能を教えた学校』(菊地成孔+大谷能生/河出書房新社)に書いてあったことを思い出しました)。

でも、もともとあった音楽よりも西洋音楽を好んだからといって、各地方にあった、民俗・民族音楽が、西洋音楽の前では価値がないのかというと、そういうことでは全然ないはずです。世界の音楽全体を見たら、西洋音楽も音楽のうちの一つの種類なんですよね。

そういう風に改めて考えるきっかけとなったのが、最近読んだ『キース・ジャレット』(Ian Carr著・蓑田洋子訳/音楽之友社)、『サステナブル・ミュージック』(若尾裕/アルテスパブリッシング)、『親のための新しい音楽の教科書』(若尾裕/サボテン書房)と、読みかけで返した(再び取り寄せ中)『ミュージッキング』(クリストファー・スモール/水声社)です。

これらの本の中で、共感できること、新たに考えさせられたこと、そしてちょっと違うんじゃないかなと思えること(あまりネガティブに考えても仕方ないと思えることなど)もありますが、共通して言及されているのは、西洋音楽(特にクラシック)の音楽全体に対する位置づけについてだと思います。あまりに権威化していて(そもそも西洋クラシック音楽の始まりは宗教や貴族などのためであったし)、音楽本来のあり方からかけ離れてしまっているのではないかということです。作品や作曲家そのものへの批判ではなく、とらえられ方についてですね。それを絶対視して他を批判したり、階層の一番上と考えたりすることに異を唱え、複雑で難しいものがより価値が高いという価値観に対し疑問を投げかけています。

これは、単に音楽ジャンルとか種類だけの話ではなく、誰もが人生や音楽を楽しむ権利があるという意味で、どれも等しく価値があるということにつながっていると思います。

色々と影響を受けたこともあり、最近改めてクラシックの中でも民族音楽色のあるものを弾いてみたり、これまでお店でもあまり気に留めていなかった無印で使われている民族音楽をネットで改めて聴いてみたり、色々と探っています。面白いです。

フィリップさんのピアノはすごかった!

今日は、夫の知り合いの方に誘っていただいたジャズライブに行ってきました。場所はその知り合いのご夫婦が時々開かれているライブハウスで、最初ライブの話を聞いた時、ピアニストがフィリップ・ストレンジさんと知って驚きました。少し前にフィリップ・ストレンジさんと岡田暁生さん共著の『すごいジャズには理由(わけ)がある』を読んでいて、フィリップさんがとてもすばらしいピアニストであると知っていたからです。

そして、実際その演奏を聴いて、思っていた以上でした。テクニック、リズム感など技術的な面も圧倒的に素晴らしいのですが、より引き込まれたのは音楽性と表現力です。ジャズの即興は実際、聴いててよくわからないということも少なくないのですが、フィリップさんの即興は魅力あふれていてその音楽にとても引きこまれる。それがなぜかはよくわかりません。今日のプログラムがスタンダードとか知っていて親しみのある曲が多かったというのもあるかもしれませんが、即興の中に非常に深みのある音楽が盛り込まれている。そして、丁寧で繊細な表現。フィリップさんが弾いている姿を見ながら、どうしたらあのように素敵な演奏ができるか、羨望のまなざしを送り続けていました(笑)。

途中の休憩時、二人のミュージシャンは二人のお客さんと立ち話をしていましたが、夫が行ってきたらというので、うしろで待っていると、どうぞどうぞと輪に入れてくださって、私がフィリップさんに話しかけたらそれからはしばらく二人で話ができました。音楽の話、ピアノの話、キース・ジャレットの話など。フィリップさんがキース・ジャレットの論文を書かれていることを著書で知っていたので。

もう一人のギタリストは、ジョシュア・ブレイクストーンという人で知らなかったのですが(実はけっこうすごそうな人です)、とても楽しい人でした。途中、フィリップさんがめちゃ乗ってきて即興を繰り広げだした時、ジョシュアさんはギターを置いて部屋を出ていきました(笑)。もう、一人でやっといて!って感じで。

ライブハウスは小さな部屋ですが、そのためかアットホームな雰囲気でお客さん同士、そしてミュージシャンとが自然と打ち解けやすい感じで、また普段ジャズを聴かな人でも楽しめるような、優しさと温かみがあっていいライブだなあと思いました。