今日は一乗寺の「いるか喫茶バー」でBGM演奏してきました。今日もオリジナルを20曲以上用意していきました。
お店の人からは途中で休憩をと以前に言っていただいていますが、その間普通のBGMに切り替えるのもどうだろうと思って、結局1時間半通して弾いています。時間があるから、今日はやめとこうかなと思ってた懐かしの曲のアレンジしたものも弾きましたが、ちょっと練習不足でした。次は多分全部オリジナルで曲も増やします。
もともとBGMを前提に作曲してるわけではないのですが、穏やかな曲が多いのでちょうどいいかなと思っています。でも、もっとBGMに向いた曲を作ってもいいかな、どうしようなかと考えます。
たまに行く服屋さんでかかってるBGMがよそと少し雰囲気が違うから、たずねてみると、やはりそのお店に合わせて作曲してもらってるということでした。それは抑揚が少なく、くり返しが多い感じでした。でも何となく印象的で、こういった曲がBGM向けなのかなと思ったりしました。ちょっとトライしてみます。
来月の演奏は27日です。
月別アーカイブ: 2016年7月
「自由」について
金曜日の夜、ある人のプライベートパーティーに呼ばれて行ってきました。そこであるフランス人の女性と話をしました。彼女は長年日本に住んでいる作家で、日本の文化にもかなり詳しく、もちろん日本語も普通に話します。色々な話をしている中で、「自由」がテーマに……
私は、クラシック音楽から色々なことを学んできましたが、クラシック音楽は「こうあるべき」という観念が強いジャンルだと思うし、そういった意味で本来自由に楽しむはずの音楽とのかい離を感じることもありました。バッハにしてもモーツァルトにしても、特に古い時代の作曲家はそこまで後世の人に対して、こう演奏してもらわないと困るという思いはなかったのではと思います。原典版もあまり何も書いてないですものね。
『正しい楽譜の読み方』(大島富士子著)という本の中にも、バッハの時代は、楽譜を、自分を知っている、自分の音楽を理解できる人間のためにだけ書いたので、細かい指示はなかった、ということが書かれています。その頃の作曲家はまさか、自分がいなくなって何百年たっても自分の曲が演奏され続けるなんて夢にも思ってなかったのではないでしょうか?
今では、演奏解釈についての本がたくさんあって、それらを読んでいるとある程度の共通認識もあり、「こう演奏するべき」という基本的な「きまり」のようなものは、歴史の中で構築されていったような感じがします。
ピアノ教室などでもそのようなきまりは、ある程度共通しているように思えますし、もちろん、その中から学ぶこともたくさんあると思います。長年かけて研究されてきたことには価値もあり、それらを自分の糧にすることは大切なことだと思います。
ある程度の解釈の自由というものがあると思いますが、それもあくまで当然オリジナルを尊重したものであるべきというのが、一般的な考え方ではないでしょうか?
クラシック音楽の素晴らしさを享受しつつも、私が曲を作りだしたことは、「自由」を求めた必然だった気もします。自分の曲なら、このように弾かなければならないということはないわけで、どのように弾くのがよりいいか、弾きながら自分で考えていけばいいわけですし。でも、凡人だから長年の経験や学びがなければ、このようなことはできなかったと思っています(別にたいしたことはしてないのですが💦)。
今でもクラシックの曲を弾いて学びつつ、自分の曲を弾くことで精神の自由を感じているというようなことをフランス人女性に話すと、自分の曲でも繰り返し弾くのなら、即興演奏でない以上、自由ではないのではという感想がかえってきました。さすが、「自由」にこだわるフランス人!かもしれません。
確かに、曲を作っているときが一番自由を感じているかな。でも、演奏してる時もです。何を自由と感じるかは人それぞれなのかもしれませんね。
モーツァルトを弾いて思ったこと
今日は久しぶりにモーツァルトをたくさん弾きました。毎日毎日ピアノを弾いたり、曲を作ったりしていると、少しずつ自分が変化していて、そのことを今日モーツァルトを弾いていて感じました。新たな気づきがあり、でもそれが具体的に何かというと難しく、ただ、この巨匠から学ぶべきことはまだまだたくさんあると思いました。当たり前でしょうけど。
音楽が前へ前へと進んで行く中でおこる心理面への影響は興味深い。わくわくしたり、はっとしたり。何がそうさせているのか、それを弾きながら感じることが私の学び方のひとつです。
日々の変化はわかりにくいけど、ある程度の時間が経過して自分が以前と変わったと実感できた時はうれしい。人との比較ではなく、自分が変わっていけることがおもしろい。こんな調子でやっていけたら幸せです!