月別アーカイブ: 2015年9月

ピアノで歌う

しばらくショパンは弾いてなかったのですが、最近ショパン気分です。ノクターンやプレリュードなどの中から何曲か弾いていますが、以前よりいっそう曲の中の歌を感じて、弾いたことのある曲をもっと「歌いたい」気持ちで弾いています。
モーツァルトもショパンも「歌う」ことが大切であると言っていた作曲家です。ショパンはモーツァルトのように自分が書いた文章をあまり残していないようで、『弟子から見たショパン』(ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル著・米谷治郎/中島弘二訳/音楽之友社)はとても貴重な資料だと思いますが、この本の中に、ピアノを使って歌うことをたびたびレッスンで言われたという弟子たちの証言があります。
少し引用します。

「ショパンが(わたしの勉強について)尋ねましたので、わたしは歌を聴くのが何より役に立ちました、と答えました:「それは結構なことです。そもそも音楽は歌であるべきなのです」と、彼は教えてくれました。ショパンの指にかかると、ピアノはほんとうに様々な歌を歌うのでした。」(匿名希望のスコットランド女性/ハデン)

「ショパンはレッスンをしているときも、「指を使って歌うのですよ!」と、いつも言っていました。」(グレッチ/クレヴィンク)

「ショパンが弾くと、フレーズはみな歌のように響きました。澄み切った音色に耳を傾けていると、音符が音節で小節が言葉となって、個々のフレーズが思想を表現しているように思われてくるのです。彼の演奏は、大言壮語のまったくない、簡潔で気品のある朗読のようなものでした。(ミクリ/コチャルスキ)

「(ショパンの曲を演奏するには)今弾いた音を、最後の瞬間にまで響かせて次の音につなげることです。とにかく絶対に誇張してはいけません。」(クールティ/アゲタン)

ショパンはモーツァルトを「神」と言っていたと、この本か別の本かどこかで見かけました(この本だけでも分厚くて一度見失ったらどこに書いてあったっけ?と探すのも一苦労)。
私はこの二人の作曲家に、誇張を嫌うという点や歌うことを大切にしている点など共通性を感じています。
ピアノを使って「歌うこと」は本当に楽しいことです。あとはそれが人に伝わるよう、よりよい歌をめざし続けます。

 

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耳は大切

今日、近くの保育所の見える所を通りかかったらスピーカーから大きな音楽が流れていました。昨年までそこにいらっしゃったベテランの先生とは子どもと音楽や耳のことで大切なことについてよく話をしました。先生は部屋の中ではむやみにCDなどからBGMを流さないようにしているとおっしゃっていました。積み木のあたる音や小さな音が聞こえるように。
別の幼稚園でも、運動会では大音量がスピーカーから流れるので近くに住んでいる人はかなりうるさいとおっしゃっていて、中にいる子供たちはもっと大きな音を聞いているんだろうなと、残念な気持ちになりました。
3月にやらせていただいた、「子育て講演会」でも話をしたのですが、子どもは4歳くらいまでは聴覚が優位(大人は視覚8、聴覚2くらいらしい)で耳が大人よりも敏感なのですね。大人でも大切にしなければ耳はどんどん劣化していく。中川雅文氏の『耳トレ!-こちら難聴・耳鳴り外来です』に騒音と難聴の関係について書かれています。小さいうちか大きな音にさらされていると、ただでさえ視覚優位になっていくのに、音に対してどんどん鈍くなっていくのではと危惧しています。
音には、視覚から得られない情報もたくさんあるし、耳をすませば感性も磨かれます。耳の大切さについてなかなか気づかれないのではという思いで、「子育て講演会」でとりあげてみました。
そんな話を共有できる先生が、移動されたことは残念でした。今後も機会があればまたとりあげたいテーマです。

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ホテルで演奏

今日は中之島のリーガロイヤルホテルで行われた、アンリミテッド音楽コンクールの入賞者演奏会でオカリナの波多野智香子さんの伴奏をしてきました。
私はコンクールには出てないのだけど、伴奏者の都合がつかず1ヶ月ほど前に急きょ頼まれました。私が伴奏したのはシェドヴィルのフルートソナタ第2番の第3・第4楽章です。この作曲家は今回初めて知りました。バロック時代の人です。波多野さんはトリプルオカリナを吹かれるので3オクターブ使え、フルートと同じ曲ができるのです。これ以外には無伴奏で「さくらさくら」を演奏されました。この曲はオカリナという楽器の特性と波多野さんの演奏に、より合っている感じがします。どこか尺八を思わせるようなムードもある。オカリナはもともと日本の楽器ではないけれど、日本の曲が合う感じがします。皆さんオカリナの音色にとても感動されていました。
他は高校生のヴァイオリンが二人。力のこもった演奏を聴かせてくれました。
食事とセットということもあり、あまり緊張感もなく和やかなムードの演奏会でした。

ちょっと近江八幡まで

今日は夫と近江八幡の銅製品のアトリエまで行ってきました。たくさんの照明器具やポスト、取っ手など様々な商品が展示されています。銅は金属ですが、とても有機的な雰囲気で温かみがあります。鉄よりもソフトな感じですね。デザインも素敵なものがたくさんあって、引き寄せられてしばらく眺めていたい魅力をたたえていました。

道中、琵琶湖畔で休憩しましたが、湖から吹いてくる風がさわやかで気持ちよかったです。かわいいツユクサなど野草も楽しめました。

再び『モーツァルトの手紙』を読む

だいぶ前に途中まで読んでそのままになっていた『モーツァルトの手紙』(吉田秀和編訳/講談社学術文庫)をまた最初から読み返しています。
心の「師」(弟子にすると言われてないので(笑))の言葉だと思うと、この本は本当にエキサイティングです。読んでいるとまるでモーツァルトが生き生きとそこに存在しているような気がします。本人はまさか、後世自分の手紙が本になって多くの人に読まれるとは思ってなかったでしょうね。思ったこと、感じたことがたくさん詰まっています。そして、随所に音楽に対する思いや考えも書かれていて、本当に興味深い。
前回読んだ時、気になっていた箇所がようやく出てきました。モーツァルト21歳の11月、マンハイムで書いた手紙の一部を引用します。
「今日六時に大演奏会がありました。フレンツルがヴァイオリンで協奏曲をひくのをききましたが、ぼくはとても気に入りました。パパもご存知のように、ぼくはむずかしい技巧がそんなに好きじゃありません。ところが彼はむずかしいものをひいているが、人にはそのむずかしさがわからない。自分でもすぐまねできるような気がする。これこそ本当なのです。」
モーツァルトの価値観が感じられる文章で、印象に残っていたのです。モーツァルトに関する他の本からも、モーツァルトは華美なものや誇張やこれ見よがしなものが好きでないということを感じています。それはもちろん、モーツァルトの音楽からも感じられることで、そういう所がとても好きなんです。
作家ロマン・ロランも讃美したというモーツァルトの手紙。モーツァルトを知る、貴重な資料です。引き続き読み進めます。

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