月別アーカイブ: 2018年5月

音色に魅せられて

楽器の音色が持つムードというものがあると思います。

例えば、私はアコースティックギターの音が好きですが、

当たり前ですが、この感じはピアノでは出せません。

何年も前ですが、四条烏丸の古今烏丸にあったお店で、たまにハープ(名前は忘れましたが小さなハープです)の演奏がありました。たまたま通りかかると演奏をされていたので、中に入って聴いていました。演奏会ではなくBGMのような感じで、その時お客さんも少なかったし、私以外に気にかけている人はいませんでした。ハープの音色は優しく、とても耳に心地よかった。

とてもいい音ですね、と言うと、演奏をしていると、たまに人が寄ってきて、感動していることを伝え、打ち明け話を始めたりすることがあると聞き、少し驚きました。ハープの音色にそんな不思議な力があるのかしら?というような話をしました。私はその時、ピアノでもそんな風に感じてもらえたら素敵だなと思いました。

ピアノを打楽器と言う人もいますが、私は憧れもこめて弦楽器と思って弾いています。

 

オットー・ネーベル展を見て

京都文化博物館で、オットー・ネーベル展を見てきました。この展覧会について、私の感じたこと、考えたことを簡単に書いてみようと思います。

最初に、この展覧会のことはネットで知りましたが、その際作品の画像を見てパウル・クレーのようだと思いました。実際、クレーやカンディンスキーと関係があることは、展覧会の説明でわかりました。

この色合いを見てパウル・クレーのようだなと思った。

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京都文化博物館の展示会場入り口

さて、何の先入観もなしで、会場へ入りました。最初の説明で、ネーベルはまず建築からスタートし、それから俳優、詩人という顔も持ち、バウハウス(ドイツにあったデザイン・アート系の学校)でカンディンスキーやクレーと出会ったことなどがわかりました。ネーベルが画家であり詩人であることについて、

言語と造形芸術が交わる領域での実験を可能にするふたつの天分を備えていたということになる。

と書いてあり、まずこのアーティストへの興味が強まりました。言葉という具体的なものと、抽象的な芸術が、表現では別々の姿であるけれど、彼の中ではどこか交わっている?

作品は、とにかく色彩が素敵。色へのこだわりはかなりあったらしく「カラーアトラス(色彩地図帳)」というものを作り、ディテールにこだわった、緻密な作品作りをしていたということがわかりました。でもぱっと見た感じ、全体的に軽やかで明るめで楽しげ、というのが私の持った印象。さらに、色も配置もバランスがいいから、見ていて安心感が得られる。クレーの作品とはだいぶ違うこともわかりました。

途中、「音楽的作品」というコーナーがあり、興味津々。そしてなんとそこは写真撮影がOKでした。昨年行った、ライアン・ガンダー展では写真撮影がOKで驚きましたが(動画はダメと言われました)、これまで行った美術館はほとんどどこも写真撮影はだめだったと思います。海外の美術館では撮影OKの所が多いのではと思いますが、正反対の考え方ですね。

「音楽的作品」は、タイトルも「二倍の速さで」「ロンド・コン・ブリオ(元気に)」「叙情的な答え」などなど。説明によると、

ネーベルは自分の努力を、ある楽譜をオーケストラとともに読み込み、練習する指揮者の仕事と例えている。

「音楽的作品」の中の「かなり楽しく」という作品

「音楽的作品」と書かれてなかったら、これらの作品を音楽的と感じたかどうかはわかりませんが、逆に、こういったテーマをつけているのを知った上で、ネーベルの作品を眺めると、どの作品も「音楽的」なのではと思えないこともない。楽譜じゃないですよ。音楽のイメージ。

「純潔と豊潤」これは「音楽的作品」には含まれていないけど撮影OKの作品のうちのひとつ。

つまり、色や構成にある種の秩序があり、それが音楽的なんじゃないかなと。音楽もただのバラバラの無秩序の音の羅列では、一般の感覚では音楽には聞こえないと思いますが、秩序があるから音楽として聞こえてくる。拍子や旋律やハーモニーなど、何かバランスを持って聞こえるものが音楽であると感じるのだと思います。

おおざっぱに言えば、ネーベルの作品には、心地よい秩序があり、それがどこか考えようによれば音楽的な感じがして、安心感を与えてくれるのでは?と。

親交のあったクレーも非常に音楽を愛していた人で、絵画と音楽をどのように行き来していたのか、興味あって、以前本も借りたことあるんですがちゃんと読めてないです。

同じく親交のあった、カンディンスキーについても、

抽象の度合いが上がるにつれ、音楽を引き合いに出すようになり、「コンポジション」「即興」「印象」と呼ぶ作品において、記譜するように感情をフォルムと色彩で表現しようと試みた。

という説明がありました。

3人とも創作の中で音楽を意識しているということは、どういうことなのか?カンディンスキーの

人間は自らの内に音楽を持っている

という言葉も紹介されていてますが、私も以前から気になっているテーマの一つです。

でも、もしかしたら、ネーベルの構成力は建築からもきているのかも?とここまで書いて思いました(そんな説明もあったかもしれないけど読めてない)。建築と音楽も共通性がある(どちらも空間を形作るもの。目に見えるか見えないかの違い)。彼の作品が何によってそうなっているのか?色々なものが混ざり合って生まれてきたのだろうと想像してみる。

音楽も絵画も言葉も、結局内面を表す「手段」であることについては日頃考えていますが、そのことを裏付けるような気持ちで見た展覧会でした。

「しゅ・は・り」とは

最近たまたまツイッターで「守破離」という言葉を知りました。デジタル大辞泉によると

剣道や茶道などで、修業における段階を示したもの。

「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階

「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ心技を発展させる段階

「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階

ということです。

以前、お花を習いに行っていた時、先生が「師匠というものは、弟子がずっと一生この人についていきたいと思う人」と言われました。それを聞いて、そうか、日本の伝統文化はそういった考えなのかと思いました。でも「守破離」を知って、そうでもないのかなと思いました。

教育というのは、何かを行ったり、判断する際のとりあえずの基準となるものを身につけるために必要なものだと思っています(守)。なので、基礎ができたら色々な人から教わるというのはいいことだろうと思います。できるだけ価値観の違う人から(破)。そして、いつかは自分で考えられるようになる(離)ことを目指して。

私は私の性格によって妙な音楽の道をたどってきたと今となっては思いますが(人生はそういうもの?)、多分今は「離」の状態かな(とりあえず好きなようにやっているという意味で!)。

色々なものにあてはまりそうです。

今うちの小さな花壇で咲いている山アジサイです。小さくてかわいいです。

緑のインスタレーション

先日、嵐山へ行ってきました。

もみじの若葉は、紅葉とはまた違った美しさがあり、以前から好きですが、最近「青もみじ」という言葉を聞くようになりました。「青もみじ」という言葉を使った京都観光の案内も見かけるようになり、きっとまた多くの人が観光に訪れるだろうと思っています。

さて、嵐山は今の季節としてはやはり観光客が多い気がしました。「青もみじ」宣伝効果か、それとも単純に京都へ来る人が増えているためかはわかりません。

同じ日に色々行くと印象が混ざるので、今回は常寂光寺をメインにして、あとは周辺を散策しました。

常寂光寺山門から中を見ると、早速、期待していた光景が。かやぶきの仁王門の前に優雅に広がる青もみじの枝。なんと絵になる光景。

それからずっと、感嘆のため息をつきながら庭を散策しました。昔、俵万智さんが「眼福」という言葉を使ってらっしゃるのを読んだことがあるのですが、まさにこういう時、この言葉を思い出します。

目が喜んでいる、いや、目を通して心が喜んでいる。でも、画面とか本ではわからない、その場に身を置いて初めて感じることができる喜びです。あまり意識できてなくても、音やにおいや気温や色々な要素を体全体で感じているんだと思います。コンクリートやアスファルトに囲まれているよりも、生き物としてはやはりうれしいはず?(笑)

常寂光寺

仁王門をくぐった先に見える光景

夫が庭を見て「インスタレーション」という言葉を使いましたが、まさに庭は、石、木、などの自然素材、そして生きた植物を使ったインスタレーション、アート作品なのだと思います。

インスタレーションとは、ウィキペディアでは次のように説明されています。

「1970年代以降一般化した、絵画・彫刻・映像・写真などと並ぶ現代美術における表現手法・ジャンルの一つ。ある特定の室内や屋外などにオブジェや装置を置いて、作家の意向に沿って空間を構成し変化・異化させ、場所や空間全体を作品として体験させる芸術」

これまで、それほどたくさんは見ていませんが、インスタレーションは光、風、音、映像などを使って空間の中で何かを表現するアートと認識しています。庭の場合、普通のインスタレーション作品に比べると、自然がそうなるままにまかせている部分が大きいと思います。季節や時間によって、ほんのひと時も同じ形を留めていない、変化し続けるアート作品。庭師がどうすれば自然を美しく見せられるかという仕掛けをすることで、私たちは自然ってこんなに美しいんだと気づかされる気がします。日本のように豊かな自然のあるところで、どうして昔からわざわざ人工の庭というものを作ってきたのか? やはり自然を愛でるためという気がします。

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木洩れ日が美しい

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境内一番上まで行くと京都タワーも見えます!要するに山ですね(笑)

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シランの花

祇王寺も苔の美しいお寺。二尊院や落柿舎など素敵な場所が近くにたくさんあり、何度来てもその都度違う、見切れないほどのコンテンツに出会います。若い頃には気づかなかったことや考えなかったことが増えていく分、違った感じ方ができて楽しいんだと思います。

 

おまけに、何年か前の6月始めの祇王寺の写真です。

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幻想的な苔の庭

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ここもかやぶきの屋根ともみじの組み合わせ。絵になります。

 

通じない表現 オノマトペ

『日本の名詩、英語でおどる』(アーサー・ビナード著/みすず書房)の中で紹介されている詩の一つに、中原中也の「サーカス」があります。

この詩の中に、「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」というオノマトペがでてきます。この詩を知らなければ、これだけでは何の描写かわからないですよね? でも、これはサーカスの空中ブランコのことを表しているとわかった上で読めば、なんとなくムードが伝わってくる感じがします。長いロープが少したわみながらゆっくり大きく揺れている様子が、目に浮かぶような(どこで見たことあるのか?ずっと昔テレビか何かで?記憶は定かではないけど)。

アーサーさんはこれを訳すのに大変悩まれたようです。もともと、英語にオノマトペが少ないというのは知っていましたが、アーサーさんの説明を読んでなるほどと思いました。

「日本語は、擬音語と擬態語が実に豊富で、工夫すれば造語もできる言語的環境だ。それに引き替え、英語にはオノマトペが乏しく、増やそうにもなかなか増やせない。一番のネックは、スペルだ。

英語を母語とする人間でも、活字で知らない単語に出くわすと、その発音がおぼつかない。発音記号を解読したとしても、やはりだれかに聞かないと、確信は持てない。辞書に載っているような新出語でさえそんな具合なので、できたてホヤホヤのオノマトペ造語はもっとおぼつかない。意味が通じるかどうかという問題も立ちはだかっているが、それ以前に、書き手が考えた発音の通りに果たして読まれるかどうか、保証はまったくない。

“Yooaaan Yooyohhn Yooyayooyon”ーなんのことかさっぱりわからない。でも、少なくとも空中ブランコの雰囲気ではない。」

アーサーさんは「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」は音楽であるから、それを音楽として感じてもらうために”Yooaaan Yooyohhn Yooyayooyon”としてみようと思ったが、元の日本語の音のように発音してもらえるか怪しいし、雰囲気も伝わらないので、やめたということです。

日本語の場合は、その通り読めるし、日本人同士はその音から雰囲気を共有できる。日本語と英語はずいぶんかけ離れた言語だけど、オノマトペによる表現力の違いも大きそうです。

結局、アーサーさんは「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」を、

“SEEEEEEE SAAAAAAAW, SEE AND SAW”

と訳された。seesaw(シーソー)は英語でぎっこんばったん。シーソーと言えば日本の公園にあるブランコじゃないのを思い浮かべますが、これで行ったり来たりする感じを出すのと、seesawは英語で「見る」と過去形の「見た」という意味もあるし、「サーカス」の出だしの

「幾時代かがありまして」

とも響き合うと。

そもそも、微妙な表現の多い日本語を英語に訳すこと自体が難しいのに、「詩」なんて少ない言葉の後ろに多くの意味が込められている分、翻訳が大変なのは簡単に想像できること。オノマトペにいたっては、お手上げに近いということですが、それでも日本の詩に感動し、それを英語を理解できる人たちに伝えようと思ってアーサーさんは挑戦したんですね。

この本で紹介されている詩は、過去のものだけれども、今にも通じるものがある、普遍的で本質的なことが書かれているから、読んで欲しいというアーサーさんの願いが感じられます。そして詩を理解することから、その後ろにある文化を理解することにつながるかもしれない。翻訳者の役割は大きい。

私も特に夫の仕事の関係などで、色々な国の人と話す機会がたまにあります。実際、英語が共通語となっていると感じます。英語という壁を感じながらもお互いの考えや思いを伝えようと話していると、国籍や文化は違えど、共感し合える部分がたくさんあるとしみじみ感じ入ることがあります。言語は思った通りの意思疎通を妨げる壁になっているけれど、これを使わなければコミュニケーションできないツールでもあります。

自分のブログも英語で書ければ、もっと広く世界の人にも読んでもらえるのにと思いますが、そこまでの時間はありません(翻訳は時間がかかるし、あってるかどうかも怪しい!)。とりあえず、音楽で伝えていければと思っています。

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