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アジア回廊現代美術展に行って

今日は二条城で行われている、「アジア回廊現代美術展」へ行ってきました。

いつものように多くの観光客でにぎわっていましたが、中は広いのでそんなに混んでいるという感じもしませんでした。

展示会場の最初の作品は、庭に立つ「フルーツの木」で本当は大きな木の上に色々な大きなフルーツがなっているインパクトのある作品ですが、今日は強風のため膨らませてなくて、しぼんでいました。残念。

そして、屋内の会場へ入ると、まずカラフルな作品が目にはいります。と同時にその上に横たわる超太い梁が目に入り、その迫力に圧倒されます。一緒に行った夫はやはりそちらに反応。

中へ入っていき、作品を見て回ります。どうしても、建築物の存在感が強いので、ただアート作品を見ると言うよりも、その全く異質な組み合わせを楽しむといった感じです。でも、不思議にアート作品は、古い骨太で寛容な空間に包まれるような感じで佇んでいました。

庭の方にも、いくつかアート作品があり、これもまた渋い庭の中に面白みを加えるかのように展示されていました。

二条城はこの美術展があるから久しぶりに行ったのですが、展示物がない状態よりも、あった方が、その迫力や存在感に気づかされるのだと思いました。また、アート作品とのコラボが、普段と違う雰囲気を作り出し、空間の面白みを感じさせてくれる。線の細い和風建築もあるけれど、二条城は太くて強い感じ。そこに個性の強い現代アートがきても、それが和らぐ感じがして面白かった。

二条城は広いから、結局全部見る前に閉場時間が来てしまったのだけど、元々敷地内は俗世界とは切り離されたような場所で、さらにアート作品によって不思議な世界になっていた。今日はそこで、色々なことを感じたのだけど、こういう日常と違う場所に来ることで、普段感じないことを感じられる。感性が刺激される。

少し前に読んだ、アーサー・ビナードさんの『もしも、詩があったなら』(光文社新書)の中で、

「詩というものは、役に立つか立たないのか?」

という自問があり、

「自分と自分の愛する人びとが生きのびるために、役に立つのか」といった次元であれば、もしかしたら詩は有用かもしれない。

と自答しています。

それは、

「人びとの思考停止を突こうとするのが詩」

だから。

詩が文字によって、人の心に何か気づきを与える可能性があるなら、アートや建築空間や音楽などは感じることによって、もしかしたら普段眠っているかもしれない部分を呼び覚ますことがあるかもしれない。

「アートや音楽というものは、役に立つか立たないのか?」

自分の中に眠っている感性に刺激を与え、感じる力を養うという意味では役に立つかもしれないと、改めて思いました。例えば何かを見抜くには考える力も大切だけど、感じる力も大切ではなかろうか? だからそういった分野の経験や教育は大切とも!

まあ、役に立たなくても好きなものは好き!ですけどね。

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雅楽?レチタティーボ?

この間の録音の後、ようやく気づいたのですが、私のゆっくりな曲の変則的な拍の取り方は、クラシック的なものとは違うかもということです。

いるか喫茶バーのマスターが少し前から、私のゆっくりした曲の中に「ため」や「間」があってそれが語っているとおっしゃってくださっているのですが、その時もまだ、それはクラシック音楽から得た「ゆらぎ」であると思っていたのです。

クラシック音楽では、ベースとなるテンポがあって、その中でルバート、リタルダンド、アッチェレランドなどなど、速くなったり遅くなったりする表現がありますが、そういった感じとは違うような。

曲作ったり、ちょっと変えたりしている段階から、例えば4分の4で書いている曲の途中の1小節を4分の5にしたり、でも実際弾く時ははもう少し伸ばしたり、感覚的に変えているようなことがだいぶ前からあるにはあったのです。

自分が書いた楽譜に忠実に弾くというより、むしろそれはメモ(よりは詳しいけど)で、演奏の際にはある程度自由に弾くというスタイルです、改めて考えてみると。と言ってもある程度は自然と決まってきますが。

クラシックでもバロックの頃は、楽譜はメモのようなもので即興(ルールのある)がたくさん取り入れられていたということですが、とにかく一度書き留めた楽譜よりも、演奏に重点を置くという感じ?

録音スタジオでエンジニアの人と、ある曲を聴きながら、ん?楽譜の音符の長さと違う、これはいかん、と一度は思ったのですが、その後、いや、でも演奏中はこれでいいと思っていたし、その表現が良いと思うなら、楽譜をそのように変えてもいい。自分の曲だし。と思いなおす。エンジニアの人が、私の楽譜を見ながら、ritとか書いてないの?と聞くので、自分しか弾かないから何も書かないなどと言って、話をしながら、改めて自分の表現について考えたのでした。

自分でも意外だなと思ったのですが、雅楽ってどうなんだろうという考えが浮かびました。日本人やしなあ(笑)。それで改めて調べてみたら、笙を演奏されている方のサイトに興味深いことが書いてありました。少し短く簡単にまとめて引用してみたら、

・雅楽ももともとは歌である。人間の息の長さが周期になっている。

・さらに、雅楽の楽器は俊敏に音を発することに向いていない。よって、拍はにじんだようになり、リズムは柔軟になる。

(野津輝男さんのサイト『雅楽のリズム』より)

そうか、「歌」なのだ。クラシックでもレチタティーボというのがありますよね。わりと自由に歌う部分。(以前一度だけヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」の伴奏をしたことがあるのですが、レチタティーボの部分、私が慣れてないのもあって合わせるの大変だった(^_^;))

ここに思い至って、ようやく腑に落ちたというか、自分の中の理性(こうであるべき!)と感性のせめぎあい(?)に決着がついたというか、すっきりしたんですね。

私は歌うようにピアノを弾きたい。だから、場合によっては拍から自由になりたくなる(なっている)。ようやく謎が解けたという感じです。

曲によっては最初から最後まで3拍子なら3拍子で同じような調子で弾く曲もありますが、特にゆったりした曲は、これからもっと歌っていこうかな。とにかく表現をfix(固定)したくない。自分が変わっていけば、弾き方も変わっていくのは自然なことでしょう。