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ようやくマイクが来ました

9月に「マイクが来ない!」という記事を書いていましたが、その時には楽器店から11月納品予定という連絡を受けていました。ところが、11月になって今度は納期がまだわからないという連絡がありました。さすがに、注文から7か月以上たってるし、ちょっと他の店はどうだろうかと今更ながら調べてみると、売っている店があります。念のため問い合わせてみると、なんとすぐに送れるという回答。それで、いつ届くかわからない楽器店の分はキャンセルし、別の店で購入することになり、マイクはすぐに送られてきました。

これで、ようやくと思ったのですが、また問題が発生。

実は、この録音マイクは単一指向性(マイクが向いている方向の音を主に拾う)で、3月に録音アドバイスを受けた時に、これに交換用マイクカプセル(無指向性)をつけ部屋全体の音を拾った方がいい感じに録れたので、それも最初にマイク(2本)を注文した時に一緒に2個注文しました。

交換用マイクカプセル は在庫があったので、すぐに送ってきていました。でも、マイクがなかなか来ないので開けずにおいていました。そして、最悪マイクが来ない(輸入できない?)場合は交換用マイクカプセルを返品できるという確認をとりました(5月ごろ)。

それから、月日がたち11月になり、先日他店よりマイクが届いた後に、ようやく交換用マイクカプセルの箱を開けました。段ボールの中に小さな缶が二つ入っていて、一つずつ開けてみると、なんと一つの缶は空でした!

それで、買った店(最初にマイクを注文していた店)に、一つの箱が空であったから一つ送ってほしいと連絡すると、もう時間がたちすぎて対応できないということなのです。

確かに時間はたっていますが、それはマイクが来ないからという特殊な事情があったし(そのマイクが手に入らなければ結局使えない)、5月には特別な事情のため返品も可能だと聞いていました。けれどそれも5月時点の話で無理ということでした。

納得いかないけれど対応してくれないなら仕方ない。そこで、改めてまたマイクを買った店のサイトを見るとその商品は取り寄せになっている。やはり、商品そのものがないのかなと問い合わせてみると、すぐに取り寄せが可能だとわかり、即注文。そして、すぐに送られてきました。ようやく、これで必要なものが揃いました。

あとは、録音ですが、また試し録りや曲の見直しやらでアルバム完成まではまだ時間がかかるでしょう。まずはYouTube用に録ろうかなと考えています。

アーティストはそればかりしていなければならない?

だいぶ前になりますが、ある有名な現代アートのアーティストが、誰かに「画家は他のことはせず絵を描いていればいい」というようなことを言われて、画家であるというのは自分の中のひとつの側面にすぎないと怒ってしまって、その人をブロックしたというツイートをたまたま見かけました。

似たような感じで、ミュージシャンは政治の話をするな(しているのを聞いてがっかりした)、音楽に政治を持ち込むな、などと言われて反論している人を見かけることも時々あります。

なぜ「他のことをするな」と言うのか、考えてみると、それはその人のある人に対するイメージを壊したくないという願望や、それらしくあるべきという思い込みによるのだと推測します。

アーティストでもミュージシャンでも誰でも、まずは人間なので、色々なことを思ったり、または別のことをしたいと思ったりするのも自然なことで、彼らにしてみれば、なぜそればっかりやっていろと言われなければならないのか、そんなこと言われる筋合いもないし、全く納得のいかないことでしょう。

ところで、ユング心理学に「ペルソナ」という概念があり、人には他人にそれらしさを求めたり、また、それらしく振舞おうとする普遍的な心理があるようです。

ペルソナについて『無意識の構造』(河合隼雄/中央公論新社)の中で次のように書かれています。

ペルソナというのは、 古典劇において役者が用いた仮面のことである。人間がこの世に生きてゆくためには、外界と調和してゆくための、その人の役割にふさわしい在り方を身につけていなくてはならない。外的環境は個人に対して、いろいろな期待や要請をなし、その人はそれに応じて行動しなくてはならない。教師は教師らしく、あるいは、父親は父親らしく行動することが期待されている。いわば、人間は外界に向けて見せるべき自分の仮面を必要とするわけであり、それが、ユングの言うペルソナなのである。

ペルソナによって起こりえる問題というのは、自分が外に向かってそれらしくあろうとするあまり、本当の自分というものを置き去りにしてしまうことのようです。またその逆も問題であるようですが。

前述のアーティストような人は、ペルソナにとらわれすぎず、内面の声にも耳を傾けバランスをとられているということではないでしょうか。

人にそれらしさを求めたり、または、それらしく振舞おうとする心理は無意識に働いているのだろうと認識した上で、そればかりしていても、していなくても、どちらにしてもそれは個人の生き方であるから、尊重し合えるといいなと思います。

マイクが来ない!

3月にエンジニアさんに録音のアドバイスを受け、新しい録音マイク選びもし、その後楽器店で注文しましたが、納期が延びに延び、9月ということでしたが、また連絡があって11月になるということです。これまで何かを注文してこんなに待ったことはありません!

今の選択肢は、11月まで待つか、別のマイクにするかのどちらか。録音は別にいつまでにというのはありませんが、もうずいぶん間が空いてしまっているしそろそろ待つのはやめようかなとも思います。

けれど、せっかく録り比べをして選んだし、使ったことないのは不安だし(選ぶとするなら相談しますが)、やはり選んだマイクがいいなというのと、3月からロシアン奏法を学んでいるので、まだ弾き方も移行中なところもあります。全く変わるわけではないのですが、やはり私の弾き方のベースになっているのはドイツ奏法だし(日本で主流な)、違う部分が大きい。もう少し奏法が安定してからの方がいいかもとも思います。けれど、それはいつになるやら。

マイクはオーストラリア製(RODE)です。オーストラリアはコロナ禍になってから厳しい規制を行っており、何か経済活動の方に支障がでているのだろうかと思ったり、また半導体が不足しているせいではないかという噂を小耳にはさんだり。

とりあえず迷っていて、とても優柔不断な心境になっています(汗)。

京都府立植物園がピンチ?

先日、京都府立植物園の再開発の話を知りました。中でも気になったのが、広場に野外ステージを作るということです。

植物園は、植物を観察したり、散歩したり、広場で遊んだり、ベンチに座って本をよんだり、池を眺めてぼーっとしたり、それぞれが思い思いに自然と触れ合うことのできる場所です。

広場に野外ステージ、ですぐ思い出したのが梅小路公園です。以前行ったときに、ちょうど野外ステージで演奏をしていました。スピーカーから流れる音が響き渡っていましたが、こちらは別に音楽を聴きにいったわけではないし、そういう気分でもないし、聴きたい音楽でもない(アコースティックの楽器ならまだ耳にも優しいと思いますが)。今ここに大音量の音楽はいならいと思いましたが、音はさえぎることができません。そこを去るしか音から逃れることはできません。音は音が届く空間を支配してしまうんですね。

広場を離れ、梅小路京都西駅の方へ行くと今度は別の場所でスピーカーから大音量の音楽が……。

スピーカーを使って「にぎやかに」することが楽しい気分を盛り上げる、という考えが普通になっているのかもしれませんが、どこでもそんな風にしてしまうってどうなんだろうと私は思っています。

音楽フェスのように、音楽を聴くために人が集まってくる場所ならいざ知らず、普通の公園での大音量音楽というのは、必ずしも歓迎されないのではないかと思います。梅小路公園で音楽フェスありますが、普段は普通の公園ですよね。

京都府立植物園の中には、自然の山のようなエリアがあり、街中にいるのを忘れるくらい、落ち着いた雰囲気があります。そこに、スピーカーからの大音量をとどろかせるのは、やや暴力的でもあるとも思えます。

街中のスーパーや商業施設では、当たり前のように音楽が流れています(隣接した店が流す音楽が混ざっていたり、途中でブチっと切れてアナウンスが入ったり、延々販促用の同じ曲が繰り返されたり)。あまり気にしている人はいないかもしれませんが、そうだとすればあまりにむやみに音楽が乱用されていて、慣れてしまっているのだと思います。

『シュタイナー教育の音と音楽』ー静けさのおおいの中でー(吉良創/Gakken)の中に次のように書かれています。

生まれたばかりの赤ちゃんにとって、まず必要なのは「静けさ」というおおいです。これは赤ちゃんだけのことではなく、私たち人間すべてにとって、「静けさ」のある状態は必要であり、つくり出さなければならないと思います。

私はドイツで四年ほど暮らしたことがあるのですが、そのときに感じた大きなことのひとつは、すべての環境が、それまでの私のいた東京の環境よりもずっと静かだということでした。

(中略)

そうした生活が続いていくと、自分の耳が変わってきたことに気づきました。今まで気づかなかった音に気づくことができるようになったのです。

P16-17

人間は外部の情報を得るとき、耳よりも目を使います。五感のうち9割近くが視覚による情報というデータもあります。なので音に対しては案外無頓着になりがちかもしれません。音楽関係や仕事柄耳を使う人、その他普通の人よりは音に注意を向ける人もいると思います。私も日々ピアノを弾きながら音色(音質)に耳を傾けます。ですから、音に対してやや敏感な面もあるかもしれません。

そういった個人差はあるでしょうが、やはり自然を楽しむ植物園は静かである方が望ましいと思います。静かであって初めて気づくことがあるはずです。意識していなくても、鳥の鳴き声や風や葉っぱの音が耳に入ってくるでしょう。自然の音は耳の感性を豊かにしてくれると思っています。

広場の野外ステージだけでなく、アリーナを含むスポーツゾーンも植物園に隣接する敷地に作る計画があり、大会や音楽イベントなどがあるとここも「にぎやか」になるかもしれません。にぎやかなのがだめというわけじゃないのです。植物園の雰囲気が壊されるのが残念なのです。まだ、美術館や図書館ならばいいのにと思います。

以下のサイトで署名を集められています。私も賛同しました。

京都府立植物園が危ない!「生きた植物の博物館」の存続にあなたのお力をお貸しください! The Kyoto Botanical Gardens are in danger!

長い年月をかけて作り上げられてきた京都府立植物園が、今後どうなるのか気になります。

ベルヴィル・ランデブー

京都シネマで『ベルヴィル・ランデブー』という映画を観ました。この映画についての情報は、公式サイトをちらっと見てアニメーションであること、フランス映画であること、見出しが「ピンチもへっちゃら 愛さえあれば」「最愛の孫シャンピオンが誘拐された! 大都市ベルヴィルでおばあちゃんの大冒険が始まる」、アカデミー賞ノミネート作品であることくらいでしたが、出先で夕方、急に何か映画観ようということになったので、それから間に合うものも限られていたし、これにしようということになりました。

セリフはほとんどなし、独創的な絵(デフォルメがすごくて慣れるのにちょっと時間がかかったくらい)と世界観、スリリングな展開、とにかく強烈な映画でした。このインパクトはなかなか言葉では表現できない。そして創造の可能性とエネルギーを感じさせてくれる。
どうしてもビジュアルに気を取られがちになりますが、フィクションの中に、現実社会への風刺が込められていてそれがリアルだなと感じました。私はこっちにもけっこう反応しました(笑)。

そして、音楽のアピールも感じました。BGMとしてだけではなく、歌ったり、演奏したりするシーンも何度かあるのですが、その演出が魅力的でした。公式サイトを改めてみると、ノミネートされたアカデミー賞は、長編アニメーション映画賞と歌曲賞でした。音楽も高く評価されていたということですね。

クラシックからは、バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻第2番がいくつかのアレンジで何度か使われていました(グールドのような人もちらっと登場)。あとモーツァルトも(多分レクイエム)。クラシック曲は映画でよく使われますが、個人的にはよく知っている曲の場合、それが気になって気が散ってしまいます(汗)。物語の世界から現実に引き戻されるような感じがして。知らない曲の方が映画の世界に浸っていられる(大体の場合)。

公式サイトにSpotifyのリストが貼ってあったので、サントラを聴いてみました。やはり、映画のタイトルと同じ『ベルヴィル・ランデブー Belleville rendez-vous』がかっこよくて一番好き(フランス語バージョンと英語バージョンあり)。バッハの曲はジャズバージョンだけ入っていました。モーツァルトは無し。

実は2002年の映画で、再上映のようです。多分クリエィティブな人は、何かしら刺激を受けると思いますよ。

娘の結婚式

日曜は娘の結婚式でした。昨年入籍してすでに新生活スタートしていますが、コロナのこともあり式はやっていませんでした。

夫婦と両家の家族のみのこじんまりした結婚式(人前式)と披露宴(食事会に近い?)でしたが、緊張感もなく、自然体で食事と会話を楽しめてよかったです(スタッフの方々は盛り上げようと色々工夫をしてくださいましたが)。

式が始まり最初に新郎が入場する際、J-POPのような曲が流れました。そして、次に夫にエスコートされた娘が入場という時、曲が変わりました。なんと、私の曲で、思わず「えー!!」っと言ってしまった気がします(笑)。そんなこと全く想像していなかったし、娘も内緒にしていたので、ほんと驚きました。ドッキリ大成功です(笑)。あとで聞くと、Apple Musicで聞いて選曲してその曲をダウンロードしてくれたそう。これはやはりうれしかったですね。ちなみに「Untitled 1」という曲です(YouTube (音出ます)にもアップしています)。

食事の後に、二人が親に手紙を読んだり、プレゼントを渡したりという時間がありましたが、しんみりすることもなく、和気あいあいと笑いながらになりました。もう家を出て10ヶ月たつし、週に1~2度は帰ってくるし、気持ちも落ち着いてるし、だと思います。

それでも、帰ってきてからそれなりに色々な気持ちがよぎっているので、ちょっとぼーっとしています。記念品もちょっと親ばかにはこたえるしかけがあって、じわじわきています(笑)。

とにかく、無事終わってよかった。

テーブルに飾ってあったお花をいただきました

ぼちぼちやってます

先日、買い物している時、近所の方に会って立ち話をしました。「最近どう?」と聞かれて、「まあ、ぼちぼちやってます」みたいな感じで答えると、「サマーコンサートやってや」みたいに冗談ぽく言われて、「ははは」と返しました。その方、普段から私の音楽活動を気にかけてくださっていて、2019年クリスマスに初めてうちの狭いピアノ室でホームコンサートやった時も来てくださったんですが、2020年に入ってコロナ禍が始まり、狭い部屋でコンサートなどできる状態ではなくなりました(汗)。

2021年も半分を過ぎましたが、まだまだ世の中落ち着いたとは言えない状況ですよね。ただ、実際は京都市の場合、人口1,400,000人に対し新規感染者21名(6/30現在。どの年齢層か、軽症か重症かなどはわかりません)で蔓延防止等重点措置ということですが、これは大変な状況なのかどうか、冷静に考えるとわかりません。それよりはるかに多くの人たちがコロナ対策のために仕事を失ったり、精神的に追い詰められたりしているのではと気になります。命を守る、不幸になる人を増やさないという視点で見れば、コロナ対策による弊害も問題だと感じてしまいます。

さて、音楽について今特別書けることがないのですが、ぼちぼちやっている内容を書いてみます。まず、松田紗依先生のロシアン奏法のレッスンは大体月2回くらいのペースで通っています。少しずつ感じがつかめてきている気分です(毎回新しいテクニックのアドバイスがあり、まだまだかかると思いつつそれでも可能性を感じながら)。今レッスンでやっているのは練習曲とショパンの小品・ワルツ、メンデルスゾーンの無言歌集。家ではレッスンと関係なしにモーツァルトも弾いています(勝手に応用編)。

曲作りも少しずつ進めています。何曲か作って、何か月か前に作った曲を弾くとなんか違うかなと思いながら、また新しいのを作ってという繰り返しです。
3月に録音のアドバイスをしていただいた際、エンジニアさんが持ってきてくださった何種類かのマイクで試し録りをし、気に入ったマイクを買うことにして注文しました。ところが、コロナの影響でしょうか、まだ届きません。オーストラリアのメーカーですが輸入できないのでしょうか。注文時、数か月かかるかもと言われましたがいつになるやら。ただ、まだアルバムのための曲作り・選曲は終わってないので(何曲にするかも決めてない)、それをコツコツ続けます。

じゅらく児童館の「ピアノに合わせてあそぼう」も京都市の緊急事態宣言に合わせて中止されるので、昨年は前半、今年も5月、6月は中止になっています。7月はまだわかりません。

この先、世の中がどうなるのかまだわかりませんが、曲作って録音して配信するのには支障がないので、ぼちぼちやっていこうと思っています。

梅宮大社

アンビエント・ミュージック(環境音楽)について少し

少し前から久しぶりにブライアン・イーノの音楽をBGMとして聴いています。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、彼はアンビエント・ミュージック(環境音楽)という音楽ジャンルを作った人です。調べてみますと(日本大百科全書)、エリック・サティの「家具の音楽」という考えに影響を受けたそうです。「音楽は集中して傾聴されるべき芸術作品ではなく、家具のように生活とともにあるべきものである」という考えです。「環境を遮断する音楽」ではなく「環境を包み込む音楽」という意味を込めて「アンビエント・ミュージック」と名づけられたそうです。ブライアン・イーノの音楽を聴いていると現代美術の展示会場を思い出します。そういう場所でこういった音楽が流れていることがありますから。

音楽は好みや気分によって聞こえ方も変わるし、感じ方は人それぞれですが、ブライアン・イーノはずっとかけていても、聞いていてもいなくても差しさわりないというか、でも確実に現代美術の会場を想像させてくれる(笑)影響力がある、私には。強い主張がなくてもじわじわっと感覚にしみてくるような感じがある。

クラシックの場合、おおざっぱに言えば「調性のある曲」というのが人の感情に訴える作用があり、無調に近づくほどつかみどころがなくなり、無調になるとまた違った感情(通(つう)ではなく一般の人にはついていけない?現代音楽の方すみません)が芽生えるという感じだと思います。

環境音楽は調性は感じられないけれど、クラシックの無調音楽のような難しさがなく、ブライアン・イーノがこのジャンルを作った目的のように、主張せず漂うようにそこにある音楽というのが特徴なのかなと感じています。

こういう音楽の「あり方」に改めて興味をそそられているので、しばらく聴いてみようと思っています。

 

 

 

 

 

 

ショパンの演奏美学

レッスンで話題になった(前回の記事で書いた)『弟子から見たショパンーそのピアノ教育法と演奏美学』(ジャン=ジャックエーゲルディンゲル著/音楽之友社)を少し読んでいます。とにかく、分厚い本ですし(注釈も細かく多い)、多分今回も自分の興味がある所を選んで読むだろうと思います。

とりあえず、「序」の中にとても興味深い部分があります。時間がたって記憶があいまいですが前回読んだ時もそう思ってたはず。ショパンのこだわりが感じられる箇所で共感を覚えています。一部ご紹介します。

「ピアノを弾きたいのなら、歌わなければなりません」

P20

「(ショパンの)声楽へのこれほどのまでの愛着と、人を圧倒するような大音量を拒み、自然で素朴な演奏を好むことには、何らかの関係があると見て然るべきだろう」

P21

「(ショパンは)あまりに狭い職人芸的な見方に反対して、技術の習得はもっと芸術的なものだと主張している。空疎な練習を機械的にくり返してだんだんマンネリになるかわりに、聴覚を極度に集中させるのが彼のやり方なのだ!
このような集中によって、すばらしい音色を得るには不可欠な二つの要素が確実に得られる。耳が良くなり、筋肉を自由に動かし弛緩させることができるようになるのである。ショパンによれば技術とは、名人芸を身につけることよりもまず音の響き具合であり、タッチの用い方なのだということをもっと認識する必要があるのではないだろうか。「だからタッチにふさわしい腕の位置さえ覚えてしまえば、このうえなく美しい音色は自ずと得られ、長い音符も短い音符も思いのままに何でも弾けるようになる」

P22

「当時のピアノ教師たちは、無理な練習を重ねて強制的に指を「均等」にしようとしていたのだが、ショパンはその逆を行って、指の個性、つまりもともと「不均等」なものこそ多様な響きを生み出すものとして、むしろ助長していったのである。(中略)こうして彼は弟子に、退屈なばかりか生理学的にも無理を伴う練習をさせず、弟子の奏でる色彩あふれる響きの多様性を一挙に開花させていったのである。

P23

松田先生にも教えていただきましたが、ショパンの目指す音楽とそのための奏法はロシアピアニズムと重なる部分があると改めて感じます。この本を何年か前読んだときは、ロシアピアニズムについてあまり知らなかったので、今回は改めて新鮮な驚きがあります。

共通すると感じる点はピアノで歌うこと、そのためには機械的な練習ではなく耳を研ぎ澄まし音色を聴くこと、美しい音色のためにはそれにふさわしい体の位置を知り、使い方を身につけること、そういったことです。

また、上の引用の中に「生理学的にも無理を伴う練習」というのがありますが、手や指が強い負担を感じるような練習というのは、それによって多少思うようになったとしても、いずれ手の故障につながる心配がありますよね(『ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと』にも書いてあるように)。例えば指の独立のために特に上がりにくい薬指を高く上げる練習というのもまだあるようですが、手の構造上かなり無理がありますよね。その前提がハイフィンガー奏法だから、奏法が変わればその必要もなくなりますね?
ショパンは体のことを理解した上で、当時のやり方とは違った合理的な考え方で弟子を指導していたということですから、弟子の証言満載のこの本はやはり参考になりそうです(以前ある程度は読んだのですがみんなショパンをほめちぎっているという印象。彼は教育熱心でヨーロッパ各地からショパンの教えを乞いに弟子が集まったとか。その数は正確にはわからないが記録による研究では150人(おそらく長・短期入れて)に及んでるのではないかと。その間に作曲してたとかすごすぎる)。

私がロシアン奏法を習おうと思ったのも、音色や表現をもっと豊かにしたいからです。ロシアン奏法はクラシックの奏法ですが、その奏法を通して自分の音楽表現(ジャンルでくくらない)を良くしていければいいな、自分が前より少しは良くなったかもと思えることができれば、それが続いていけばいいなと思っています。また、これらのことがピアノを弾いておられる方々の参考になれば幸いです。

最新版ではなく私の持っている本です。引用もここからです。