月別アーカイブ: 2022年6月

久々のアルバムです

「MESSAGE FOR YOU」というアルバムを出しました。自宅録音2枚目のアルバムです。
前回のアルバムの録音についても2年前ブログに書きましたが、とにかく初めてでわからないことだらけの上、ピアノの打鍵時に謎のノイズが入ったり、マイクの種類が左右違ったりと、問題の多い中で挑戦しました。何とか自分でミックス・マスタリング(と言えるかどうか?)までして出したものの、結局プロのエンジニアさんにリマスタリングしていただき、同じ内容のものをすぐ後に出しました。

その後、ノイズを取り除くためピアノを修理、マイクもアドバイスをいただき買い直し(手元に届くまで何か月もかかり)ようやく今年4月末に録音に入り、本日2年ぶりにリリースできました。

今回もミックス・マスタリングはHybrid Sound Reformさんにお願いしました。数日前、マスター音源ができて、それを聴いていると、録音時の音源では気づかなかったことに色々と気づいて、また録音し直したくなりました(笑)。実際、「録音して聴いて直す」の繰り返しは練習になるので少しずつ良くなるのですが、まあきりがない(笑)。

2017年よりこれまで合計9枚のアルバムを出してきました。録り直して新しいアルバムに入れたという曲も何曲もあるし(今回も)、スタジオで録った後、選曲して削ってミニアルバムになってしまったものなどもあります。いつも、中途半端な出来だと思いつつ(理性では)、何かとにかく前へ進んでいくという本能のようなものに押される感じで出してきています(笑)。最初のアルバム「LIKE A GENTLE VOICE」、自分で全部仕上げた「imaginary world」はTuneCoreからの配信はやめています。また、リマスタリングしていただいたものの元の音源に色々と問題があったことが気になっていた「imaginary world (remastered version)」もまもなく配信終了します。bandcampにはすべて上げています。

常に、これは「過程」なのだと自分に言いつつ、また次へ向かってゴーです(アルバムを出すかどうかは未定です)。

TuneCoreはこちら(Apple Music等音楽サブスクリプションサービスを利用されている方へ)

bandcampはこちら(どなたでもお聴きになれます)

興味ある方、よかったらお聴きください。

椰子の実

「椰子(ヤシ)の実」という曲をご存知でしょうか?
日本の古い歌です。詩は島崎藤村で、のちに大中寅二が曲をつけたということです。
実は私もメロディをぼんやりとしか知らなくて、改めて聴いたりその背景を知って少し興味を持ちました。

言葉や表現が古くて少しわかりにくいですが、現代の歌手が歌えばより親しみやすく、改めていい歌だなと思いました。

この詩が書かれたのは明治時代。
民俗学者の柳田國男が学生だった頃、旅先の愛知県、伊良湖畔の砂浜で、流れ着いた椰子の実を見つけた。友人の島崎藤村がその話を聞き、そこから着想を得、「椰子の実」という詩を書いたということです。

名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を 離れて
汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)

旧(もと)の木は 生いや茂れる
枝はなお 影をやなせる
われもまた 渚(なぎさ)を枕
孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ

実をとりて 胸にあつれば
新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)
海の日の 沈むを見れば
激(たぎ)り落つ 異郷の涙

思いやる 八重(やえ)の汐々(しおじお)
いずれの日にか 国に帰らん

こちらのサイトより引用しました。意味も書かれています。

昭和になって、世の中のムードが悪くなっていた頃、明るい歌をということで国民歌謡が作られ始め、そのうちの一曲「椰子の実」を大中寅二が作曲したということです。
ところが、この歌はその後太平洋戦争で南方の島に赴いていた兵隊たちによく歌われていたというのです(参考記事)。
そう思ってこの詩を改めて読むと、泣けてきます。切ない。帰りたいけど帰れないというどうしようもない思いを託せる歌だったのかもしれません。

日本の古い歌には、自然や心の機微を表現した文化的、文学的価値があるものも少なくないですね。昔々から、日本人は自然に自分の気持ちを重ね、自然を通して内面を表現することに長けていると感じます。現代人が失いかねない感性が詩の中に生きているような気がします。詩に込められた思いが歌によって未来の世代に受け継がれるといいなと思っています。


こちらの本も参照しています。

ロシアン奏法 あれから

アトリエ松田で松田先生にロシアン奏法を教わり始めてから1年以上たちました(ロシアン奏法を学びます)。

以前にも書いているかもしれませんが、松田先生の鍵盤タッチの方法は、私が子どもの頃から含めそれまで教わったことのある先生方の方法とはかなり違います。

弱い音から強い音までの強弱のグラデーションということよりも、一音一音の音の響かせ方の違いに重点を置いているという感じです。出したい音に合わせ鍵盤のタッチをどう変えるかをかなり意識する必要があります。

2~3週間に一度くらいのレッスンですから、回数は多くないのですが、少しずつは身についてるかなと思うこともあれば、そうでもないかなと思うこともあります。無意識に弾いてしまうと、以前の弾き方に戻ってしまいます。以前の弾き方と今教わっている弾き方に接点がないわけではないのですが、まだまだ新しい弾き方が無意識にできる次元ではありません。

鍵盤は押せば音が出る楽器なので、電子ピアノでも生ピアノでも同じように思われている方もいらっしゃるかもしれませんが、その押し方によって音の表情がかなり変わるのが生楽器の難しいところであり、奥深い所です。

先生の言われていることを理解はできても、そのとおりやるのは本当に難しい。先生の弾き方を真似しても同じような音がなかなか出ない。正直モチベーション下がることもあります。あまり難しく考えず普通に弾ければいいという思いもどこかにありますが、それでもピアノからよりよい音を出せるようになるというのはやはり魅力的なことです。あきらめるのはまだ早い(笑)。

とりあえず、気長にやるのがいいのでしょう。

通信の授業受けています

今年度から、京都橘大学の通信で心理学の勉強をしています。正科生、コース履修、科目履修という選択がありますが、授業に費やせる時間を考え、科目履修にしました。

心理学の科目はかなり幅広く、臨床心理学、発達心理学、認知心理学、社会心理学、教育心理学、言語心理学など、関心のあるものが多く、科目を絞るのにずいぶん時間がかかりました。シラバスを見比べたり、問い合わせたりして、発達心理学、社会心理学、認知心理学あたりで最後まで悩みました。

前期後期2科目ずつにするか1科目ずつにするかもかなり迷いましたが、学習時間がどれくらい必要か読めず、結局、前期1科目(発達心理学Ⅰ)、後期1科目(発達心理学Ⅱ)にしました(実際始めてみて正解だったと思います)。


結局発達心理学にしたのは、これまで児童館・保育所で音楽活動や子育て講座をさせていただいたり、高齢者の施設で演奏させていただいたり、自分の活動に一番関連があるかなと思ったというのがあります。全然違う世代の心の状態というのが気になっていました。

認知心理学は、私がずっと関心を持っている「音楽と心の関係」に関連があるのではと思いましたが、シラバスを見ていると感覚機能の一つとして「聴覚」が少し扱われている程度のようでしたので、授業の中では特に接点はないかと思いました。

社会心理学は、様々な社会問題にも強い関心があるので、心理学からの視点で学んでみたいと思いました。

来年はどうするかまだわかりませんが、とりあえず今年度、授業では発達心理学を学びます。


通信の授業は動画で観るメディア授業と、テキストを読むテキスト授業で構成されています。メディア授業では文字も表示されますが、それと併せて先生が言われたことをノートに書きます。そのため、しょっちゅう動画を止めます(ちなみに、愛用している筆記用具は消せる便利なフリクションボールペンと赤鉛筆です)。
動画の授業は、流れについていけない時はいつでも止められ、何度も観ることができ、まとまった時間がとれなくても好きな時に好きなだけ取り組めるといった利点があります。

大学の授業を受けるのは、何十年ぶりですが、全く心持ちが違うことを感じます。若いころは単に受け身で、なんとなく勉強をしていたのに比べ、何を学ぼうとしているのか、自分が知りたかったことが得られるか、新しい気づきは何か、社会との接点はどこにあるのか、などと考えつつ、とても能動的に取り組んでいます。

授業内容の中には、これまですでに読んだ本で出てきた内容もちらほらありますが、さらにより深く掘り下げるという点で、手ごたえを感じています。ただ、今の時点で前期の三分の一ほど学びましたが、学べることは限定的であると感じています。時間から考えれば当然です。これはあくまで今後また自分が学んでいく上の土台作りのようなものだと思っています。

始めてみるまで、どう感じるかわからない部分もありましたが、なかなか面白いと思っています。社会に出て、様々な経験を積んで、そこからまた学んでみると、積み上げてきた経験、知識、考えと照らし合わせて考えることができるということを実感します。特に心理学は心の学問だから、思い当たることが多いのだと思います。

経験してから学ぶという順番は合理的であるということが、私が時々参考にしている『リファクタリング・ウェットウェア』(Andy Hunt著/武舎広幸・武舎るみ訳/オライリージャパン)という本にも書かれています。

学ぶ内容にもよるかもしれませんが、経験を積んだ大人が学びたいことに出会った時、もっと学びやすい環境があればいいのではと常日頃思っています。

(こちらの記事はnoteにも載せています)

録音うら話

今新しいアルバムの準備をしています。4月の終わりから録音に入って、結局1か月かかりました。もちろん、毎日録音していたわけではないですが、思った以上にかかりました。

録ったらそれを聴いて確認しますが、なかなか満足できない。繰り返しているうちに、細かい所が気になってくる。それでより演奏が委縮して悪いスパイラルに入っていく。

どうしたら、それを回避できるか考える。考えながら弾く。どうすれば思った音が出るのか。タッチの加減、指の角度、余計な力を抜く意識、打鍵の瞬間に意識を持っていく。

普段もレッスンのアドバイスも参考に、色々考えながら弾いていますが、録音するとそれがどういう結果になっているのかちゃんと確認できます。ヘッドホンで聴くと弾いてる時には気づかないことにも気づく。

スタジオで録っていた頃は、そこまで時間をかけなかった(1日でアルバムの録音を終わらせていたことが信じられない。とりあえず間違えずに弾ければOKくらいの次元)ので、気づいていないことも多かったと思います。

けれども、時間をかけられるともっと細かな部分を聴く余裕があるので、気づいてしまうし気づいたら直したくなる。編集でどうのこうのはできないから、とりあえず最初から最後まで何度も録り直す。

続けてやっていると集中力も落ちてきて、ミスが増えだし、これ以上やっても無駄となる。

日がたつにつれ焦りも出てきて、一体何をやっているのだろうと、精神的にもきつくなってくる。もっと能力があれば簡単なことなのだろうとか、マイナスの思考になってしまう。

それでも、一曲ずつなんとか仕上げていくうちに、最初よりも色々とわかってくることがあり、精度が上がってくる。それで、最初の頃に録ったものを聴くと、すでに雑に聞こえる。それでまた録り直し。エンドレスではないかと不安になる。

さんざん時間をかけて録ったけれど、今回アルバムにいれるのを見送った曲も何曲かあります。何度録っても満足できない。それで、この曲がいまいちなんだという結論に達したりして。

今日こそは終わりにすると思い始めてから10日ほどたって終わったように思います。終わりにできたのは、もう今これ以上やってもこれ以上はよく録れないと思えた時です。

別の分野のクリエイターとそのことについて話すと、締め切りがないときついということです。自分で締め切るのはなかなか難しいものです。

そして、とうとうエンジニアさんに連絡しました。なんと、その後にもまたしぶとく半日ほど録音しましたが、それは採用しませんでした。今、仕上げについてエンジニアさんとやり取りしているところです。

録音終わってからの話ですが、たまたま合間合間に読みかけていたキンドル本の続きを読んでいると、ドキッとすることが書いてありました。

本は苫野一徳さんの『はじめての哲学的思考』(ちくまプリマー新書)です。本の中で、ジャン・ジャック・ルソーの著書『エミール』の内容を紹介されています。

ルソーは不幸の本質は「欲望と能力のギャップ」であると言い表しているということです。苫野さんはこれをすぐれた洞察だと書かれている。

そうか、私が1か月苦しんだ(?)のはこれだったのかな。もっとこうしたいということと自分の能力とのギャップがあったせいか。

確かに、その間、正直しんどかった。けれども、終わった結果、少しは身についたものがあると感じています。努力の結果、得たものもある。欲望と能力のギャップはどこまでいっても埋まらない。けれども、そのギャップが自分を前へ進めてくれる原動力にもなり得るのではと思っています。つまり、欲望は大事です(笑)。

本の中では、欲望と能力のギャップの解消法として、

  ①能力を上げる ②欲望を下げる ③欲望を変える

という3つのパターンを挙げられていますが、自分にあてはめればこの中のどれかというより複合的な感じがします。

あと、楽器の話ですが、録音してじっくり聴いていると、いくつかやや鳴りの悪い鍵盤があることに気づきました。2年前、ピアノのハンマーを含む内部の部品をごっそり交換していただき、前回録音時には入ってしまっていた打鍵時のノイズはなくなりましたが、生楽器ですし、年数もたっているし、そんな上等なものでもないし仕方ないです。鳴りの悪い音は意識して弾く工夫が必要でした。また、ペダルを踏む際に妙なノイズも入ったり。

YouTubeなどで素晴らしいピアノの音源を聴いていると、テクニックの違いも当然ですが楽器そのものの違いも感じます。いい楽器で調整も直前に行われているのなら本当にいい音がする。これはあきらめるしかない。部品を交換し、マイクを選び直し、少なくとも、前回の自宅録音よりはいい音で取れているようです。エンジニアさんもそう言ってくださっています。

アルバムは多分1か月以内には出せると思います。またお知らせします。

高齢者の心身の特性・リハビリのセミナー

先日、京都音楽院で行われた、「高齢者の心身の特性・リハビリテーション」というセミナーに行ってきました。5月から始まる予定だった福祉音楽パートナー指導者養成コースに申し込み受講のための面談も済んでいましたが、定員に達しなかっため開講が見送られました(先で開講されるかもしれません)。今回のセミナーはそれとは別のものです。

講師は、理学療法士で音楽療法士の方でした。体力や感覚器官の衰え、かかりやすい病気、それに伴う言語障害などの後遺症、認知症、パーキンソン病などについて具体的なデータや資料を元に説明をされました。様々なケースについて、日々高齢者に向き合って取り組まれている様子が伝わってきました。

特に印象に残ったのは、パーキンソン病の人のリハビリの話です。パーキンソン病の人は足がなかなか前に出ないのですが、たとえばメトロノームのリズムに合わせたり、あらかじめ用意された歩幅の目安になる線を見たりすると足が前に出やすくなることがあるということです。聴覚や視覚を刺激することで脳からの指令が出やすくなるのかもしれません(この辺は心理学の領域になるのでは?と興味深く感じました)。

セミナー前、私が興味を持っていた音楽療法の効用の一つは、心への影響です。けれども今回のセミナー内容の対象となっている高齢者は、体の問題を多く抱えていてリハビリが必要というレベルですから、心身両方への配慮、むしろ体への影響を重視しなければならないわけで、その深刻さについて考えさせられました。例えば、脈拍や血圧が正常でない場合、リハビリは行わない方がいいということもあるわけです。
今回のセミナーでは具体的な音楽療法についての内容は少なかったですが、対象になる人たちが抱えている問題について再認識できました。

そして、音楽療法には関心があるものの、あくまで私が関われるのは音楽レクリエーションというレベル。その中でできること、配慮すべきことについて改めて考える機会となりました。

少し話がそれますが、つい最近、心身に悩みを抱え、何かをやろうという気力も失せていた高齢者が自ら音楽を求めだしたという話を聞き、少し感動しました。それまではそれほど音楽に興味があったわけでもないのに。若いころ聴いていた音楽をまた聴き始め、口ずさんでいるということです。

何がきっかけで、どういう心の状態になった時、人は音楽を求めだすのか、とても興味深いことです。