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阿波踊り!

なぜか阿波踊りの動画がYouTubeのおすすめに出てきたので観てみました。阿波踊りは昔テレビか何かでちょっと見かけたくらいの程度しか知らなかったのですが、観てみるとなんかすごい。ワクワクしました。

13分くらいの動画で、最初三味線、笛、太鼓と行進してきて、通路の両端に分かれて演奏を続け、5分過ぎたあたりから踊り子たちが進んできます。

動画の概要から引用します。

00:00 オープニング:レレレの連(Opening: Rerere-No-Ren)

00:33 鳴り物・三味線 (Musical instruments: Shamisen)

02:01 鳴り物・笛 (Musical instruments: Transverse flute)

03:07 鳴り物・太鼓 (Musical instruments: Drum)

05:03 女踊り (Women’s dance)

10:00 ちびっこ (Children’s dance)

10:23 男踊り (Men’s dance)

12:50 鳴り物・鉦 (Musical instruments: Small gong)

すごい数の踊り子たち。千人以上はいそう。特に女踊りはしなやかだけれど、迫力あります。

これを観て改めて思ったのは、日本にもこんなに素晴らしい踊りの文化があるのだということです。みんなで揃えて踊る様子を見て、これが今のアイドルグループが大人数で踊るのにつながっていたりしてと想像しました。

阿波踊りの歴史は400年以上あるそうです。

江戸時代には、踊りの熱狂が一揆につながることを懸念した徳島藩から何度も踊りの禁止令が出された。特に、武士が庶民の阿波おどりに加わることなど論外で、1841年(天保12年)には徳島藩の中老・蜂須賀一角が踊りに加わり、乱心であると座敷牢に幽閉された記録も残っている。しかし、阿波っ子たちの心に流れる阿波おどりを完全に絶やすことはできなかった。

阿波おどり会館

昔から権力者が恐れるほどの熱気があったのですね。庶民の間に政治に対する不満がたまっていて、それがよりエネルギーを生んだのかもしれませんね。大勢で踊るとテンションが上がってきて、より熱くなるでしょう。

子どもの頃から音楽も踊りも、ほぼ西洋的なものばかりに接してきましたが(日本ではそれが普通ですよね?)、最近になって日本の伝統芸能も気になってきました。歌舞伎や能のようなものもいいのですが、庶民の間で継承されている芸能にも興味そそられます。特別な人たちが行うパフォーマンスではなく、子どもたちも含む無名の庶民が参加するパフォーマンス。音楽も踊りも元々そういうものではないでしょうか。

富山の「おわら風の盆」も今回阿波踊りの動画を観た後に知りました。

こちらは阿波踊りに比べるとしっとりと静かな音楽と踊りです。日本にはまだまだ私が知らない伝統的な音楽や踊りがあるんだなあと、今頃思っています。

西洋音楽(やそれをベースにした音楽)は今ではすっかり世界の多くの人々が共有している音楽と言えると思いますが、地域の音楽や踊りはそこに暮らす人々によって支えられている希少な文化であると思います。一部の人たちがずっと受け継いできているから、古くからそれがあったことを知ることができる。継ぐ人がいないから消えていった文化は世界中にたくさんあるのではないでしょうか。

半月ほど前、寺町通三条上ったところの其中堂(仏教書専門店)の店頭(仏教書以外のジャンルの本が少し置かれている)で日本の音楽のルーツや種類について細かく書かれた専門的な本を見つけたのですが、迷った末、特に必要ないかと思い買いませんでした。その後、阿波踊りの動画を観て少し気持ちが変わり、先日、其中堂の前を通りかかった時、やはり買っておこうと思って見てみるともうありませんでした。古本は偶然の出会いですから、もう二度と巡り合うことはないでしょう。ちょっと後悔しました。また似たような本を探してみます。前から気になっていたものの、まだほとんど知らない民族音楽学者の小泉 文夫さんの本もまた読んでみたいです。

元々民族などに関係なく人が共通して持っている音楽性には興味がありますが、そこからどのように各地域独特の音楽や踊りがうまれたのか、興味深いです。

詩を味わいながら歌う会

今日はうちのeasy room ピアノ室で「詩を味わいながら歌う会」をやりました。部屋が狭いので定員6人にしていましたが、友だちとその他2人の計3人来てくれました。

先日、「椰子の実」についてブログ書きましたが、古い歌の詩は自然の表現が豊かで、歌い継いでいってほしいという思いをずっと持っています。今回この企画をやろうと思った直接のきっかけは、児童館の若い職員さんが「夏の思い出」を知らないと知ったことです。自分にとってはポピュラーな曲と思っていただけに、これはまずいなと思いました。

今回、夏にちなんだ曲を意識して選曲してみました。

曲目は

・夏の思い出

・ゆりかごのうた

・茶摘

・夏は来ぬ

・あかとんぼ

・たなばたさま

・うみ

・夕焼小焼

・浜辺の歌

です。

みんな福祉関係の仕事をしているけれど、歌う機会はないということでした。最初は声出ない、歌えないと言っていましたが、ちゃんと歌っていました(笑)。曲は全部知っている。

「夏の思い出」に出てくる「尾瀬、水芭蕉」、「茶摘み」に出てくる「あかねだすき、スゲの笠」、「夏は来ぬ」に出てくる「卯の花、楝(センダンの木)、水鶏(ヒクイナという鳥)」はイメージしやすいように画像を用意しておきました。

この中で特に「夏は来ぬ」(=夏が来た)が言葉が古く難しいのですが、みんなこれまであまり深く考えたことなかったと。私もあまり知らなかったので調べてみて、新しい言葉をいくつも覚えました。夏が来たことを表す自然の言葉を知って歌うと、さらに味わいがある。

夏は来ぬ 作詞:佐佐木信綱 作曲:小山作之助

1 卯の花の匂う垣根に、時鳥(ホトトギス)
  早も来鳴きて、忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

2 さみだれの注ぐ山田に、早乙女(さおとめ)が
  裳裾(もすそ)ぬらして、玉苗植うる 夏は来ぬ

3 橘(たちばな)の薫る軒場(のきば)の窓近く
  蛍とびかい、おこたり諫(いさ)むる 夏は来ぬ

4 楝(おうち)ちる川辺の宿の門(かど)遠く、
  水鶏(くいな)声して、夕月(ゆうづき)すずしき 夏は来ぬ

5 五月やみ、蛍飛びかい、水鶏(くいな)なき、
  卯の花咲きて、早苗植えわたす 夏は来ぬ

  卯の花:ウツギ 卯月(4月)に咲くから
  忍音:その年に初めて聞かれるホトトギスの鳴き声
  さみだれ(五月雨:旧暦の5月頃に降る雨)
  山田:山間にある田
  早乙女:田植えをする若い女性
  裳裾:着物の裾
  玉苗:早苗 稲の苗
  蛍とびかい、おこたり諫むる:中国の故事「蛍雪の功」から、なまけずに勉強に励み
                なさいといさめるように蛍が飛んでいる様子
  楝(おうち):センダンの木
  水鶏(くいな):ヒクイナ?
  五月やみ:5月の雨が降る頃の夜の暗さ

でも、卯の花とか五月雨とか、夏というより春から初夏という感じでしょうか。

「椰子の実」もやりたかったのですが、もし知らなかったら少し歌いにくい歌かなと思って今回は入れませんでした。

これらの歌は知ってても歌うこともないし、普段は忘れてるし、思い浮かべることもないと思いますが、改めて歌ってみて、みなさん、いい歌ねとしみじみと感じ入っていました。みんなと一緒なら、イベントとして歌えてしまう。そこがいいと思っています。歌い継いでほしいという私の思いも共感してもらえたようです。

合間に、日本の音楽・西洋音楽の話、生ピアノの特性などの話をしたり、最後にリクエストを受け演奏したり、お茶もしたりして楽しくなごやかな会になりました。次もまたやりましょうという話になりました。

なんとか、少しでもみなさんが歌う機会を作っていきたいです。

たまたま見つけた動画ですが、現代風なアレンジで歌われることによって、今の若い世代にも受け入れられるといいなと思います。

光源氏が語る「物語論」

以前もブログに書いた『日本の芸術論』(安田章生著)をちびちびと読み進めています。実は、この本で一番力の入っている「詩歌論」を読んだ後、しばらく読んでなかったんです。といのは、あまりに芸術を追求して高めることばかりが書かれていて(松尾芭蕉についてたくさん書かれています)、少しひいてしまったんです。

すべてでないかもしれないけど、その対象が無限と思われる「自然」の美。それがすばらしいことには違いないと思いますが、そこから美をすくい取って、「詩」という芸術に仕上げることにに全生命をかけるくらいの厳しさというか、その精神性に、ちょっとそこまでは…と感じてしまって。そういう印象を持ってしまったあたりからは、読み方もちょっといい加減になったかもしれません。すばらしいこともたくさん書いてありますが。

で、しばらくしてから、次の「物語論」というのを読んでみたら、少し興味深いことが書いてあって、ちょっと書いてみようかと思いました。
「物語論」も「音楽論」よりはましなものの、「詩歌論」に比べれば、書かれたものが少ないようです。その中で著者にとっての物語論の中で、最高のものとして『源氏物語』の「螢」の巻のなかに見える物語論をあげています。源氏物語って、昔々、高校生の時古典でずっと読んでいたけど、ほとんど覚えてないというか、そもそもあまり頭に入ってない(笑)。

紫式部が、『源氏物語』の中で自分の物語論を光源氏に語らせているということです。
著者が要約したものは、こうです。

一、物語というものには、実際なかったことがかかれており、そういう点でそのままには信ずべきでないものが含まれている。

二、しかし、それは、さびしい心を慰めてくれるものであり、虚構のなかに人間性の真実をきらめかしているものである。

三、それゆえ、それは、史実を越えて、人間性を描き出すものであり、そういう意味で、史書以上に人間の真実に迫り触れているものである。

四、そういう物語というものは、ある特定の事実をそのままでないにせよ、この世に生きている人間の有様を見聞きするにつけ、書かずにはおられなくなって書いたものである。それはやはり現実に深く根ざして書かれたもので、全く嘘だとはいい切れないものである。

人をひきつける物語とは、その中に受け取る側が共感できる真実があるからだと、実感することはよくあります。
「詩歌論」がどちらかというと、自然に向き合っているのに対し、「物語論」は人に向き合っているという違いが感じられます。この違いは興味深い。
この本は、そもそも自分にとっての興味のテーマで、この本を選んだきっかけ、「私に影響を与えている日本・西洋の芸術についての考え方」にも影響を及ぼしている感じがしています。

 

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「心」と「ことば」

またまた『日本の芸術論』(安田章生著/東京創元社)ですが、前回のブログでこの本では「詩歌論」に重きを置いていると書きました。実際、残っている文献が多いからで、そのことが日本の芸術論の中で、「詩歌」の分野が重要視されてきた表れだと思われます。
詩歌論の章には様々なことについて書かれていて興味深い事柄がたくさんあるのですが、その中からひとつ「心」と「ことば」について書いてある部分を少しピックアップしたいと思います。

「「心」と「ことば」との関係について、その出発点となっている考え方は、『古今集』の序に見られる、「心」を根本とする考え方である。」
中略
「すべて詩(広くいえば文学、芸術)というのは、まず作者の心に詩的(芸術的)感動が存在するのが原則であるから、……」
中略
「内容としての「心」と、表現としての「ことば」とを分けて考えるということは、便宜的なことであるといわねばならないのであるが、日本の詩歌論においては、両者にわけて考えられることが多く、その場合、内容としての心を尊重することが強い伝統となっているのである。」

『古今集』とは調べてみると、平安時代前期の書物。もうその頃に芸術論がすでに存在しているのですね。
「音楽論」にはそのようなことについて書かれたものが見つからなかったから、この本では「名人」について書かれた部分が紹介されていて、前の二つのブログでそのことについて書きました。

「まず作者の心に詩的(芸術的)感動が存在するのが原則」という部分を読んだ時、「それそれ」と思ったんですね。それは私がいつも思っていることで、普遍的なことなのだなと再認識した部分です。他にも「それそれ」と思える部分がたくさんあります。
詩も音楽も表現手段であり、核となるのは「感動する心」であるのだと思います。

 

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塩や野菜もでてきます

前回書いた『日本の芸術論』の中の「音楽論」について少し補足をしておきたいと思います。この本は多くの古い書物(ちゃんと確認できてませんが多分平安時代から江戸時代くらい)から引用文を用い、著者が古い言葉を読みやすく訳し、さらに、考察を加えるというような形をとっています。前回のブログで私が引用した文は、著者の考察文にあたり、さらに元になる文があります(ややこしいですが)。
音楽論の前置きとして、日本の古い音楽書というものは少なく、主として解説的なものか研究的なもので、芸術論的には見るべき点が乏しい、音楽の本質論にわたるような論は見いだすことができなかった、ということです。
その上で、平曲(『平家物語』を琵琶にあわせて語る音曲)における上手の等級を論じた文を引用されています(『西海余滴集』より)。その中の一部が昨日私が引用した文の元となっています。
該当する部分を含んだ著者が訳した部分はこうです。

「名(名人)というものは、節まわしも他の人と違ったところはなく、声もとくべつの声というものでもない。とりわけておもしろいとも聞こえないが、聞いていると、さすがに飽くことなく、いつ終わったとも覚えない。他の人の芸と比較すると、及ぶものはなくて、聴衆は再び聞きたいと願い、またという望みが起るのをいうのである。 たとえていうと、名人は飯のようなものである。味というほどの味もなく、とくにすぐれているというのではないけれども、食物のかしらである。

名人の次の位の上手というのは、塩のようなものである。いい塩を煮加えると、諸食の味がよくなる。ゆえに、過ぎても悪く、また足りなくても悪くて、そのよき程度を加減することがむつかしいのである。上手は、また、いってみれば、三月下旬や四月初めに、瓜や茄子を得たようなものである。最初は珍しいけれども、後にはそれほどでもなくなる。」

ご飯に加え、塩、野菜もでてきました(笑)。食べ物から芸術表現をイメージするのは難しい!(笑)。ユーモアは感じますが。
この本の中で「詩歌論」の方が、書物も充実し、詩を書くことに対する古い時代からの思い入れの強さが感じられます。内容も「音楽論」とは比べ物にならない。「詩歌論」を読めばおおむね日本人が大切にしてきた価値観、芸術観というものが理解できる気がします。他の分野はそれをベースにしていると思えるくらい。
現代人が親しんでいる西洋音楽をベースとした音楽に相当するものは、そもそも日本にはなかったし、昔の人が熱く語ってこなかったことからも、音楽というものにそれほど熱心でもなかったのだろうなと、思えます。
西洋芸術における音楽の重要性と比較すると、日本の場合は、「詩歌」に重きを置いてきたのでしょう。

 

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芸術は「ご飯」だ?

8月の下鴨納涼古本まつりで買った『日本の芸術論』(安田章生著/東京創元社)をちびちび読んでいますが(昔の言葉(引用文)が多くて読みづらい(-_-;))、「序」の部分に、かなりこの本の趣旨と思われる文章があります。

「日本の芸術論全般に通じる特色というようなものを考えるとき、何よりもまずあげるべきは、詩的なもの、余情、素直さ、自然であることを尊重する点が、たいへん強いということであろう。これらの点は、とりもなおさず日本の芸術全般に見られる特色でもある」

本の中に「音楽論」というのも出てきますが、「詩歌論」「演劇・戯曲論」などに比べるとかなり簡単で短いです。
私がなぜここにきて、日本の芸術(特に伝統的な)に興味を持ったかと言えば、自分が小さい頃からずっと西洋音楽をベースとした音楽に接してきていて、私の中にある音楽はほぼ西洋音楽でできていると思うのですが、でも和花や、日本の庭や、無垢の木や日本の美しいものは好きだし、まさに「詩的なもの、余情、素直さ、自然であること」が感じられる日本的な美意識というものも持っていると自覚していて、その両方が自分の中でどのように同居しているんだろうと、常々考えたりしているからです。
特に、曲を作り出してからだいぶたって、西洋音楽ベースからスタートした自分の音楽が、少しずつどこかで自分の中の和の感覚に影響を受けてるんじゃないかな?と思うこともあります。それは「雅楽」とかいう意味じゃないです(笑)。もっと抽象的な感じです。

西洋音楽は「自然であること」とは、だいぶ違って、もっと人間の「美しいものを作る」という意思をもって作られているように思います。それが西洋音楽の強さであり、民族を越えて人をひきつける魅力にもなっているのだと思います。
ちなみに、この本の「音楽論」の中に、次のような文があります。

「真にすぐれた芸術というものは、「飯」の味のように、平凡に似て、いつまでも飽くことのない性格を持っているものであるといえるであろう」

芸術は「ご飯」です!(笑) 確かに日本人はご飯が好きだし、自然だー! ちょっとガクッときましたが(笑)。
毎日創作を続ける中、非常に異なった西洋と和の芸術の違いについて考え、感じています。

 

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