前回書いた『日本の芸術論』の中の「音楽論」について少し補足をしておきたいと思います。この本は多くの古い書物(ちゃんと確認できてませんが多分平安時代から江戸時代くらい)から引用文を用い、著者が古い言葉を読みやすく訳し、さらに、考察を加えるというような形をとっています。前回のブログで私が引用した文は、著者の考察文にあたり、さらに元になる文があります(ややこしいですが)。
音楽論の前置きとして、日本の古い音楽書というものは少なく、主として解説的なものか研究的なもので、芸術論的には見るべき点が乏しい、音楽の本質論にわたるような論は見いだすことができなかった、ということです。
その上で、平曲(『平家物語』を琵琶にあわせて語る音曲)における上手の等級を論じた文を引用されています(『西海余滴集』より)。その中の一部が昨日私が引用した文の元となっています。
該当する部分を含んだ著者が訳した部分はこうです。
「名(名人)というものは、節まわしも他の人と違ったところはなく、声もとくべつの声というものでもない。とりわけておもしろいとも聞こえないが、聞いていると、さすがに飽くことなく、いつ終わったとも覚えない。他の人の芸と比較すると、及ぶものはなくて、聴衆は再び聞きたいと願い、またという望みが起るのをいうのである。 たとえていうと、名人は飯のようなものである。味というほどの味もなく、とくにすぐれているというのではないけれども、食物のかしらである。
名人の次の位の上手というのは、塩のようなものである。いい塩を煮加えると、諸食の味がよくなる。ゆえに、過ぎても悪く、また足りなくても悪くて、そのよき程度を加減することがむつかしいのである。上手は、また、いってみれば、三月下旬や四月初めに、瓜や茄子を得たようなものである。最初は珍しいけれども、後にはそれほどでもなくなる。」
ご飯に加え、塩、野菜もでてきました(笑)。食べ物から芸術表現をイメージするのは難しい!(笑)。ユーモアは感じますが。
この本の中で「詩歌論」の方が、書物も充実し、詩を書くことに対する古い時代からの思い入れの強さが感じられます。内容も「音楽論」とは比べ物にならない。「詩歌論」を読めばおおむね日本人が大切にしてきた価値観、芸術観というものが理解できる気がします。他の分野はそれをベースにしていると思えるくらい。
現代人が親しんでいる西洋音楽をベースとした音楽に相当するものは、そもそも日本にはなかったし、昔の人が熱く語ってこなかったことからも、音楽というものにそれほど熱心でもなかったのだろうなと、思えます。
西洋芸術における音楽の重要性と比較すると、日本の場合は、「詩歌」に重きを置いてきたのでしょう。