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協和と不協和の境は?

『楽典ー音楽家を志す人のための』(菊池有恒著/音楽之友社)の中の、第3章 「音楽の原理」の中に「協和音程と不協和音程」というのがあります。

「快く調和して響く状態を協和といい、協和しない状態を不協和というが、音程の協和・不協和に対する判断には、主観的・感覚的なものと、客観的・理論的なものがあり、両者の間には食い違いがある。」

わかりやすい例でいえば、7の和音は客観的・理論的には不協和音程ですが、7の和音を聴いて不協和と感じる人はあまりいないのではという話ですね。以前、高齢になってからピアノを始められた生徒さんが7の音の入った和音を弾いて、不協和音のようとおっしゃったことがありましたが。

普段何気なく音楽を聴いてても7の和音どころか、不協和に分類される和音がたくさん含まれていますね。それでも曲全体がいいムードであれば、協和してるとかしてないとかあまり意識しないと思います。

以前、一度会った、あるジャズ系のピアニストが私の編曲したきらきら星の出だしを聞いて、自分だったらこうすると同じ出だしのところを弾いてくれました。

ド ド ソ ソ ラ ラ ソー ファ ファ ミ ミ レ レ ドー

の全部の音符にそれぞれ違った、とても凝ったコードの押さえ方で。

私の耳には、きらきら星のメロディーは聞こえませんでした。メロディーはコードよって縦に刻まれて、コード一つ一つのどこかにはめ込まれているのだろうけど、旋律としては感じられない。なので、不協和音の連続のように聞こえてしまった(つまり不協和ということをとても意識した)。その人はその方がいいと言われました。私は「うーん」くらいは言ったかな? でも感じ方は人それぞれです。私にとって音楽は歌=旋律が優先されるので、やはり私の曲はそうならないなと思いました。

オリヴィエ・アランの『和声の歴史』(白水社)はとても面白い本で、その中に

「音楽とは垂直の要素と水平の要素がたえずたたかっている場所なのだ」

とありますが、縦とは和音、横は旋律で、音楽を縦優先で考えるか横優先で考えるか? ジャズの場合は縦優先かな??

ペダルの響きのどこまでが濁ってなくて、どこからが濁ってるのかといのも、はっきりした線があるのではなくて、いくらか感じ方の幅があるんだと思います。これも協和、不協和の主観的・感覚的な判断によるものと思いますが、ピアノ指導では曲にもよりますが、少しでも濁らないように言われることが多い印象です。私は自分の曲の場合、けっこうここは悩みます。自分の表現だから当然自分で決めるんですが、どこまで音を混ぜるか混ぜないか、まさに感覚で決めるので。もちろん、「理論的」不協和音はたっくさんありますから。録音の時に撮ったものを聴いて一番気になるのがこれで、録音に時間がかかる最大の理由です。弾いてる時に聞こえてるものと撮ったものは聞こえ方が違うから。

協和、不協和に限らず、音楽の感じ方は、それまでどんな音楽を聴いたり弾いたりしたかの音楽経験や、好みなどによって大きく変わるものだということを、時々思います。

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ピアノへの向き合い方はいろいろ

先日、たまたま見かけたかなり前のYahoo知恵袋の質問に、次のようなものがありました。

質問者Aさんは、5~6歳くらいのお子さんに1年半ほどピアノを教えていらっしゃるのですが、ご自身も少し弾ける程度ということで、教材についてアドバイスが欲しいという内容です。質問内容には、これまで使われてきた教材、親として何のためにピアノを教えているのか(自分も少し弾けることで楽しめているので、子どもも簡単なことをピアノでできるようになったらいいなと思うということ)、親から見た子どもの音楽的センス、習わせる余裕はない、本物のピアノはない、コミュニケーションとしてやっているなど、ということが書かれていて、ある程度限られた条件の中、多分お子さんの適性もよくわかった上で、ご自分でできることをやっていらっしゃるんだなと感じました。お子さんもちゃんと親御さんの元でピアノを続けているのだから、すばらしいと思いました。

でも、これに対する回答の中には、教材についてではなく、親御さんを非難するちょっと驚くようなコメントがいくつかありました。

何のために教えているのか、中途半端で子どもがかわいそう、子どもの芽を摘む、母親のエゴ、絶対音楽をつけさせるべきなど、批判的な、または一方的に価値観を押し付ける、感情的なコメントが少なからずあり、とても違和感を覚えました(匿名でなければここまで書けないと思います)。

それらのコメントから、ピアノをやるならちゃんと徹底的にやらなければ意味がない、将来音楽の仕事につけないという考え方が感じられました(Aさんの文章をちゃんと読めば、これらのコメントは出てこないと思うんですが)。

でも世の中には、色々な理由でピアノが弾きたい人たちがいます。私が接している親御さんでも、コンクールや音大を目指したいわけではないとはっきり言う方もいらっしゃいます。それは、Aさんのように、自分の子どもの適性はわかっている、でも少し弾けたら楽しみが増えたり、役にたつこともあるかもしれないという気持から習わせたいと思っていらっしゃるのでしょう。実際にはそういう親御さんの方が多いのではないでしょうか?

音楽の道に進み、さらにプロの音楽家になるには、そこそこの資質と相当な覚悟と長い年月の努力が必要で、それでも音楽家として生計をたてることは並大抵ではないですよね。昔から、モーツァルトやドビュッシーでさえもお金に困っていた!

そういうことがわかっていれば、なおさら、そこに多くの時間やお金を費やすよりも、他のことも色々させて(別に習いごとでなくても、色々な経験や遊び!を)可能性の幅を広げたいと考えるのは自然なことだと思います。本人がやりたい!というのなら、なるべくその気持を大事にして、伸ばしてあげるような環境においてあげるのがいいのだと思います。子どもの適性を見ずに、こうするべきという形にはめようとするのは望ましくないと思います。一番よくないのは、多くを求めすぎて、結局苦手意識を持ってやめてしまうことではないでしょうか。

『音楽気質』(アンソニー・E・ケンプ著/朝井知訳/星和書店)という本の13章「音楽的才能の発達」に、

「若い音楽家は、親が、自分の子どもの音楽的発達のための責任と信じて押し付けてくる環境に、どの程度まで包まれているべきなのだろうか」

という問いかけがあります。

この本では、音楽家となるタイプについての様々な検証がなされていますが、やはり適性というのはあります。でも、音楽を学ぶという行為は、一流の音楽家を目指す人から、楽しみのためにやりたい人までとても幅広く行われることで(もちろんクラシック以外のたくさんのジャンルも含め)、この中で音楽家に向いている人というのは、地道に練習や創作という孤独な作業に膨大な時間をつぎ込んでそれをずっと継続できる人で、ある程度絞られてくる。そういった人たちと、楽しみのためにやりたいだけでそこまで時間もお金もかけられない人が、同じように取り組むべきということにはならないと思います。

私が、ピアノに興味がある人たちにできることは、多少でもより弾けるようになって、音楽の楽しみを感じられるようなるお手伝いをすることだと思っています。

 

アルバム『various stories』リリースしました

金曜日に大阪のスタジオで録音をして、昨日ニューアルバム『various stories』をリリースしました。

TuneCore経由で、各配信サイトに手続き中で、1~2日以内くらいにはストリーミング、ダウンロードが可能になると思います。

bandcampはすでに販売開始しています。もちろん、試聴できます。

前の2つのアルバムジャケット写真は家で撮りましたが、今回は近くの公園で撮って加工しました。クローバーの中に一つ、シロツメクサがあります。

今回もYouTubeなどにもアップしようかと思いますが、アクセスが少ないのでちょっとどうしようかとも思っています。
今のところ、結局有料のストリーミングサービスで聴いている人たちからのアクセスが一番多いです。特に台湾のKKBOXがダントツ! その他はSpotify、Google play、Prime Music、Apple Musicあたり。TuneCoreのレポートを毎日見て、一喜一憂しています(笑)。

よかったら、お聴きください!