月別アーカイブ: 2016年2月

「即興曲」とは

「即興曲」をネットで調べると、例えば「19世紀の器楽曲の曲種の一つ。即興演奏によって作られるのではないが,楽想を即興的に自由に展開した小品」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)のように説明されています。
つまり、即興で弾くというのはその場で弾くことだけど、即興曲はそうではないということです。即興演奏といえばジャズを思い浮かべますが、前回のブログでも少し書きましたように(山下洋輔さんの話)、何のストックもなしにはできないわけで、音楽経験からたくさんの音楽的要素が頭の中にたくさんあってそれを使うということですね。例えばほとんど音楽を聴いたことも演奏したこともない幼児が楽器で何かを弾いたとしてもそれは音の羅列であって、音楽ではないでしょう。
私は昨年から作曲・編曲をしていますが、今まで録音していないものも含め小品を50曲以上作りました。頭の中に浮かぶモチーフからどんどん曲を作っていきました。それで、改めて私の作ってたのは即興曲に近いなと思ったのです。まさに、「楽想を即興的に自由に展開した小品!」。
最近そのことに思い至り、今作っている曲も作り方は近いですが、少し時間をかけていじっています。それはそれでおもしろい。今後は少しずつやり方も変わっていく予感。

新しい音楽ジャンル?

ツイッターで色々検索しているうちに、ついにとても興味のあることを発見しました。ただ漠然と検索していたのではなく、日頃から気になっていることに関連したキーワードで。
それは「NEW MUSIC」で、どうもひとつの音楽のジャンルのようです。それも、関連するアカウントは今のところアメリカばかり。アメリカ以外ではまだないジャンルかも? 私が知らなかっただけ?(日本でニューミュージックといえば昔そういうジャンルもあったけど、全然違う。)
それでそれがどういったものかとはっきり定義できるほどわかってないのですが、私がクラシックの延長上にあると認識している現代音楽(現代の作曲家によるクラシックのジャンル)とは一線を画したもので、オーケストラから多ジャンルとのコラボまで幅広く、あまり既成の概念にとらわれていない音楽活動をしているジャンルのようです。様々な楽器の人がいますが、ピアニスト、作曲家が多いという印象です。やはりアメリカ人が多いようです。
音源もたくさんあるので興味のあるものは聴いていますが、その中で二人、コラールを作曲している女性の作曲家がいてかなり感動しました。
以下Daleさんの音源です。
Dale Trumbore | Choral Works
私もコラールを研究してみようと思って、さっそくバッハの四声コラール集を入手しました。そのことをDaleさんに伝えたら、ちょっとユーモアのある?短いアドバイスをくださいました。それに対して、作曲家の中にはバッハのコラールで和声の勉強をすることを勧めている人がいるけれど、あなたのアドバイスも役立ちます。目標は良い音楽です。と返したら。「いいね」で締めくくってくれました。

山下洋輔さんと茂木健一郎さんの対談形式の『脳と即興性』(PHP新書)の中で、山下さんが即興のために必要なことのひとつとして、たくさんの音楽を自分のなかに持っておくことということを書かれていたと思います(返してしまったので多少あいまですが、そんな意味のこと)。それは作曲にも当然必要なことだと思います。
結局たいしたことはできないかもしれないですが、意欲のある限り取り組んでいこうと思っています。

クラシック音楽におけるポピュラー性とは?

シェーンベルクの『作曲の基礎技法』の中に、「ポピュラー調」、「ポピュラー性」という言葉が出てきます。前回のブログで武満徹がポピュラー音楽を嗜好したという、一柳彗さんの分析について書きましたが、例えばシェーンベルクは次のようなことを書いています。
「シューベルトの多くのメロディーがポピュラー性をもっているのは、ポピュラー音楽に見られるように、一つのリズム形が、たえず反復するからである。しかし、シューベルトのメロディーの高貴さは、そのゆたかな旋律線のなかに、本来のものとして秘められている」
また、
「彼らは、自分のテーマに、ちょっとした「ポピュラー調」を求めた。
(彼らはクラシック音楽の巨匠のこと)
クラシック音楽における、ポピュラー性とはやはりその言葉のとおり、わかりやすさ、親しみやすさということになるような感じですね。
バロック、古典、ロマン派(後期途中くらい?)くらいまでのクラシックはそういう意味ではわかりやすい、感情移入しやすいものが多かったのかもしれません。その後、だんだんとポピュラー性を排除していった(それが目的でなくても結果的に)のが、一般的に現代音楽と呼ばれているものでしょうか。
私はやはり自分の音楽を、「わかってほしい」からポピュラー調路線ですね(笑)。

 

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一柳彗さんの語る武満徹

作曲家でピアニストの一柳彗(いちやなぎとし)さんの『音楽という営み』(NTT出版)という本を読んでいます。1998年出版で少し古いですが、西洋と日本の音楽の違いを中立的な視点で分析されているなど、非常に興味深いテーマについていくつも書かれています。
この本の中の、「同時代の作曲家」という中で武満徹について書かれています。一柳さんは武満さんとのつながりが深かったようで、一柳さんの分析する武満徹像は興味そそられます。特に気になった一部を引用します。

「武満の音楽に対する姿勢は生涯ほぼ一貫していたと言ってよいだろう。たしかに、詩的なたたずまいのなかで緊迫感が持続する初期の作風とくらべると、七〇年代から晩年までの作品は成熟度が高まるにつれ、先鋭さが影をひそめてくる。晩年の作品では、古典的な三和音を意識的に用いた耽美的な音色や、たゆとうような甘美な旋律がしばしば用いられており、ケージが六〇年代に述べていた甘さがいよいよ目立つようになってくる。現代の作曲家で古典的な三和音を度々使用した作曲家は武満くらいであろうが、私にはそれは、クラシック音楽から援用されたものというより、武満のポピュラー音楽への嗜好がそうさせたものと受け取れる。
武満は自らを、ドビュッシーと関係づけて意識していた面があるようだ。ドイツの音楽の重々しい石の建築物のような有機的な構築性より、ドビュッシーの音楽が内在させている自然との交感や文学性、音楽的には多彩な音色や瞬間瞬間の独立した響きが織りなすテクスチュアに共感を覚えたのであろう。武満の音楽の洗練された内容は、たしかにドビュッシーを彷彿させるものがある。」

このあたりを読んで思ったのが、ここでいうポピュラー音楽とは何か?ということです。現代、音楽ジャンルとして一般的に言われているポップスやロックと言った意味ではないように感じました。より、一般の人(専門家、マニアではない)にわかりやすい音楽ということではないかということです。私も武満徹の歌曲は好きです。やはりわかりやすいからだと思います。「甘い」とか「ポピュラーである」ことは現代音楽の作曲家としては、あまり評価されないことなんでしょうかね? とても気になるテーマです。

ちなみにジョン・ケージは一柳さんに「私はトオルの音楽の甘さには耐えられないが、彼は人物としてはすばらしいと思う」と言っていたということです。

また、おもしろいなと思ったのは、ドビュッシーに傾倒していた武満徹は十代で一柳さんと付き合い始めたころ、作曲家になるか、美術評論家か迷っていたそうですが、ドビュッシーも音楽と同じくらい絵が好きで、葛飾北斎など日本の画家に強い影響を受けて作った作品もあるということです(ドビュッシーのエピソードは以前別の雑誌で読みました)。武満徹はドビュッシーの音楽の中にある「絵」を感じたのかもしれませんね。

私は武満徹についてはそれほど知りませんでしたが、一柳さんの文章を読んで興味が深まりました。実は私は人の作品ややっていることは内面の表れであると思っていて、その人が何を考え、どんな人物であるかということの方により興味を持ちます。例えばダニエル・バレンボイムの音楽はほとんで聞きませんが、彼の哲学には強い関心があります。そういう人は他にも何人かいます。一柳さんの曲もまだ聴いたことがありませんが、こんな素晴らしいことを色々考えている人がいたんだと思いました。音楽も聴きます、近々(笑)。

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