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自由派音楽理論とは?

たまたま少し前にとても素敵なサイトを知りました。音楽理論について書かれているサイトですが、普段は登録制なのが今は一時的に誰でも見られるようになっています(いつまでかはわかりません)。

音楽理論について学ぼうとすれば、やはりクラシックの理論がメインになってくると思うのですが、こちらのサイトはポピュラー(がメイン?)やジャズの理論もあり、参考音源も豊富です。そして何よりも、「自由派音楽理論」という名前の元、ジャンルでくくられた理論にとらわれないというはっきりした考え方があるというのが一番良いなと思った点です。何のための理論なのかを考え、そのジャンルにしか通用しないような理論だけではなく、いくつかの理論を広く音楽をするためのツールとして活用できるように学べばよいということだと思います。

サイトはSound Quest

自由派音楽理論とは

自由派音楽理論 目次

少し長いですが、いいことが書いてあるので「自由派音楽理論とは」より引用をさせていただきます。

世間でよく目にする「音楽理論」は、実のところ、クラシックかジャズの理論を簡略化しただけのものです。そして彼らは100年前200年前に作られたシステムを刷新することなく、そのままの形で教えています。果たしてそれは本当に“音楽”理論と呼べるものなのでしょうか?

自由派は、「正しい音楽」などという偏見を学ぶ人に押し付けません。さまざまに発展してきた音楽の全てを愛する、自由と博愛の理論です。

確かに歴史や伝統は尊いですが、その「歴史」には、ロック・スターやテクノ・スターが作り上げてきた近代の音楽も含まれるべきです。禁則破りの歴史は、紛れもなく音楽の発展の歴史です。 だから自由派は、一般的な理論が「禁則です」の一言で済ませていた数々の技法を、現代の楽曲を研究することで「使える技法」として吸収しました。だから、自由派音楽理論には、禁則が一切ありません。どんなにアウトローな手法であっても、常に「それをどうやって使いこなすか」を説明します。

自由派は、常に全てを肯定します。決して学習者の感性を押さえつけません。一人一人のアーティストとしての思想と誇りを守るために、従来の音楽理論に対するアンチテーゼとして存在する理論なのです。

でも自由派は、旧来の理論を否定することもしません。歴史と伝統を深く愛することもまた、自由だからです。

自由派は、「どれが正しいか」なんて不毛な主張の代わりに、各流派が「なぜ」そう考えているのかを説明します。様々な考え方を理解することで価値観を豊かにする。自由派は「多様性」という21世紀のテーマに則った流派なのです。

「自由派」の考え方はとても説得力があり、共感できました。それぞれの考えに耳を傾け、その上で自分の考えを持つ。これは音楽に限ったことではないと感じますね。序論の「音楽理論とは何か」にもいいことが書いてありますが、引用ばかりになるのも何ですので興味のある方はサイトを訪ねてみてください。

クリエィティブなことはなんでもそうでしょうけど、曲作りも「表現したい何か」が自分の中にあって初めて始まるのではと思っています。そのために役立つのはとにかくたくさんのいい作品、好きな作品を弾いて、ああ、この響き、この展開、このメロディ、リズム、いいなあと体を通して耳を肥やすことなんじゃないかな? そうすれば理論と向き合った時も、自分なりの判断ができると思います。私もこれからまだまだ学んで考え続けます。

ジャズのコーナーでで紹介されていた「The Jazz Theory」という本が面白そうなので買ってしまいました(笑)。日本語版です。

480ページくらいの思った以上に巨大な本でした(笑)

ピアノのための和声は?

ピアノのための和声の本というのは、演奏者向けのものは多少あっても、作曲のためのというのはあまりないように思います。和声の本を読んでいてよく感じる疑問(色々ありますが)のうちの一つがピアノ曲の場合どうなの?ということですが、それについていくつか書かれている文章をご紹介します。

一つは、以前もブログに書いていますが、『実用和声学』(中田喜直/音楽之友社)からのものです。中田喜直さんは「夏の思い出」や「ちいさい秋みつけた」なども作曲された方です。

ピアノは音楽の基本的な楽器である。もちろん和声学もピアノを使って勉強するが、和声学はピアノのためのものではないので具合が悪い。和声学はその名の通り、和音の中の一つ一つの音を独立した声部として扱い、その声部の動きを厳格に規定したものであるから、混声合唱か、異なる楽器の四重奏でやらなければ本当に理解できないわけである。

平行八度や平行五度の禁則は、そのようにすればある程度理由はわかるが、ピアノで弾いたのでは悪く聞こえない場合が多い。

また、『「なぜ?」が分かるとおもしろい和声学』(川崎絵都夫・石井栄治共著/FAIRY inc)には次のような記述があります。

器楽曲は通常、声部という考え方で作曲されていないので、和声学よりも自由な書法になることが多い。

ある和声学関係の本に、モーツァルトのピアノソナタの譜例をあげて、平行五度が使われているがうっかりミスか?と書かれていました。私は音楽的にそれがミスとは思えないし、そんな例はピアノ曲にたくさんあって、ということは別に問題はないことではと思いましたが、『「なぜ?」が分かるとおもしろい和声学』にも別のモーツァルトピアノソナタを例に、連続8度だが禁則ではないと説明されています。そもそも和声学でピアノ曲を分析するのはどうかということですね。

その和声理論についても

いわゆる機能和声理論は、バッハからロマン派までの音楽語法を矛盾なく包摂しうる高度に体系化された理論であるが、時代がより近代に近づくにつれて、それによって説明しきれない音楽の例が増大してくるのである。(『近代和声の機能理論への試み』(橋本正昭・高野茂著)より)

と書かれているように、ドビュッシーあたり以降から当てはまらないものが増えてきて、どう考えればいいかややこしくなってくるわけですね。

古い和声学と近代の和声についてどう考えればいいのか、シャルル・ケックランの『和声の変遷』(音楽之友社)に書かれていることが面白いです。この本は昭和43年に出されたのが最後で、何年か前古本で見つけました。もう茶色くなっていますが貴重な資料です。ケックランはドビュッシーやフォーレの曲のオーケストレーションをやったこともある人です。本の中から興味深い箇所をいくつか引用します。

「決して過去のものを軽蔑したり、素朴なスタイルを軽んじたりしてはならない」

「芸術家があらかじめ、人の踏んできた道をさけようと考えたところで、決して独創的になったといえない」

「芸術家が斬新で個性的であるという特権を持とうとするには、ありきたりの和音を一生懸命さけたからといってそうなるものでもない」

「私たちの知っている和声学はその時代のすべての音楽の法則集でもなければ、過去の音楽の法則集でもない」

「作曲にあたっては、和声技法について≪固定した法則≫などというものはないことは明白である」

「決まりは相対的なものであり、わずらわされないことが大切である」

などなど、和声についてどのように考えればいいかというヒントがたくさんです。抽象的ですけどね。

色々な音楽家の考え方に触れながら、自分なりに学んでいければいいのかなと思っています。

もともとリズムはなかった?

あと1時間ほどで2018年も終わろうとしていますが、今年最後のブログを書いてみようと思います。

先日、いるか喫茶バーである曲を演奏していた時のことです。その曲は、だいぶ前に作った曲ですが、途中で拍子が変わったり、所々にリタルダンドがあったり、拍子の変わった所ではテンポも変わったりという曲です。以前から自分の曲ながらテンポの調整が難しいなと思っていました。ところが、この間その曲を弾きながら、別に拍とか、テンポとかにとらわれず、小節線がないような感じで弾いてもいいんじゃないか、とふと思いました。誰かと合わせるのではなく、一人で弾いているのだし、自分の曲だし。

今、『憂鬱と官能を教えた学校』【バークリー・メソッド】によって俯瞰される20世紀商業音楽史(菊池成孔+大谷能生/河出書房新書)という本を読んでいて、この本には面白いことがたくさん書いてあるのですが、ちょうど拍子とかリズムの話が出てきています。その中に、カール・シュトゥンプの『音楽のはじめ』からの引用があります。

「本当に、一声的な言葉では、多声音楽や和声音楽におけるよりも、リズムの展開はずっと自由です」

「大勢が一緒に音楽をやって全く異なる旋律を声々に歌うときは、旋律が或る定まった、保持し易いリズムにうまく結びついていないと、混沌たる状態に陥ってしまうほかなくなるからです」

「それ故、多声音楽は容易に計量音楽に移り」

計量音楽とは近代の拍子、四分の四拍子とか四分の三拍子を指すということ。

また、カール・ウェルナーの『音楽史』からの文章も紹介されています。

「ゴシックやルネッサンスの芸術音楽には、今日のような拍子はまったく存在せず、音楽の時間的な経過はタクトゥスによって規則づけられていたにすぎない」

タクトゥスとはタクト(指揮棒)のことです。

ということで、いわゆる西洋クラシック音楽にはもともと拍子とかリズムはなかったのですね。音楽の基本要素はリズム、メロディ、ハーモニーと教わると思いますが、この本によりますと、近代的な拍子の概念が確立したのは、大バッハの時代、後期バロック期ということです。

たまたま、拍子やテンポにとらわれず弾いてみたいと思った時に、これを読んだので面白いなと思ったのです。

先日、ジャスピアノの先生にも、小節線がないような自由な弾き方をしたい曲がある反面、グルーヴを感じながら弾きたい曲もある、両方好きという話をしました。

グルーヴについては、この本の中に、

バッハの曲にはドラムなんて入ってないけど、むちゃくちゃグルーヴです。

というような話も出てきて、これもまた面白い。クラシックでグルーヴ?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、私はずっと前から、バッハや、モーツァルト・ハイドンのアルベルティ・バスを弾いててグルーヴを感じることがあったんで、やっぱりな、と思いました。

グルーヴの話はまた書くかもしれません。

それでは、皆さま良いお年をお迎えください。

協和と不協和の境は?

『楽典ー音楽家を志す人のための』(菊池有恒著/音楽之友社)の中の、第3章 「音楽の原理」の中に「協和音程と不協和音程」というのがあります。

「快く調和して響く状態を協和といい、協和しない状態を不協和というが、音程の協和・不協和に対する判断には、主観的・感覚的なものと、客観的・理論的なものがあり、両者の間には食い違いがある。」

わかりやすい例でいえば、7の和音は客観的・理論的には不協和音程ですが、7の和音を聴いて不協和と感じる人はあまりいないのではという話ですね。以前、高齢になってからピアノを始められた生徒さんが7の音の入った和音を弾いて、不協和音のようとおっしゃったことがありましたが。

普段何気なく音楽を聴いてても7の和音どころか、不協和に分類される和音がたくさん含まれていますね。それでも曲全体がいいムードであれば、協和してるとかしてないとかあまり意識しないと思います。

以前、一度会った、あるジャズ系のピアニストが私の編曲したきらきら星の出だしを聞いて、自分だったらこうすると同じ出だしのところを弾いてくれました。

ド ド ソ ソ ラ ラ ソー ファ ファ ミ ミ レ レ ドー

の全部の音符にそれぞれ違った、とても凝ったコードの押さえ方で。

私の耳には、きらきら星のメロディーは聞こえませんでした。メロディーはコードよって縦に刻まれて、コード一つ一つのどこかにはめ込まれているのだろうけど、旋律としては感じられない。なので、不協和音の連続のように聞こえてしまった(つまり不協和ということをとても意識した)。その人はその方がいいと言われました。私は「うーん」くらいは言ったかな? でも感じ方は人それぞれです。私にとって音楽は歌=旋律が優先されるので、やはり私の曲はそうならないなと思いました。

オリヴィエ・アランの『和声の歴史』(白水社)はとても面白い本で、その中に

「音楽とは垂直の要素と水平の要素がたえずたたかっている場所なのだ」

とありますが、縦とは和音、横は旋律で、音楽を縦優先で考えるか横優先で考えるか? ジャズの場合は縦優先かな??

ペダルの響きのどこまでが濁ってなくて、どこからが濁ってるのかといのも、はっきりした線があるのではなくて、いくらか感じ方の幅があるんだと思います。これも協和、不協和の主観的・感覚的な判断によるものと思いますが、ピアノ指導では曲にもよりますが、少しでも濁らないように言われることが多い印象です。私は自分の曲の場合、けっこうここは悩みます。自分の表現だから当然自分で決めるんですが、どこまで音を混ぜるか混ぜないか、まさに感覚で決めるので。もちろん、「理論的」不協和音はたっくさんありますから。録音の時に撮ったものを聴いて一番気になるのがこれで、録音に時間がかかる最大の理由です。弾いてる時に聞こえてるものと撮ったものは聞こえ方が違うから。

協和、不協和に限らず、音楽の感じ方は、それまでどんな音楽を聴いたり弾いたりしたかの音楽経験や、好みなどによって大きく変わるものだということを、時々思います。

「新しい」か「古い」かではなく

今ぼちぼち読んでいるシャルル・ケクランの『和声の変遷』には譜例がたくさん出てきますが、フォーレ、ドビュッシー、ラヴェル、シャブリエ、サン・サーンス、サティ、ムソルグスキー、ビゼー、ケクラン(著者)などなど、響きとしては近代の新しい感じのものがほとんどです(ほとんど知らない曲ばかり。実際音を出してみて、ふうん、きれいなあとか、よくわらからんとか)。
でも、譜例では新しい方法を紹介しつつ、繰り返し、古い手法をおろそかにするべきでないことも念を押すように書かれています。
例えば次のように。

(序)
「私は学生たちに―これは大変大切なことである―決して不協和音の中に身を没してはならぬと注意しよう。しかるに学生はあまりにもかたくなな熱意のままにその中に溺れている。それは彼らが完全三和音の美感覚を失ったからである。完全三和音のあの洗練された内的な本質を味わうには真の教養というものが必要なのである。しかし、独創的であろうと心をくだき、平凡さをおそれるというのならまた話は別である。たしかに平凡であってはならないし、又真の美を含むものは何かの点で独創的である。しかし芸術家があらかじめ、人の踏んで来た道をさけようと考えたところで、決して独創的になったとはいえない。(中略)芸術家が斬新で個性的であるという特権を持とうとするには、ありきたりの和音を一生懸命さけたからといってそうなるものでない。また、平凡さを救うものは、多調音楽であるのでもない。」
「ここでは近代の不協和音(往々にしてやわらかい)の一般的な発展について研究すると同時に、新しい和音形式を分析するのであるが、しかし決して万能薬とも言うべきものをお見せしようというのではない。くりかえしていうが、学生諸君―および音楽会の聴衆諸君―決して、過去のものを軽蔑したり、素朴なスタイルを軽んじたりしてはならない。」

(第五章 特殊例)
「本書は新しい音楽語を研究しようというものであるが、在来の和音もなお可能であるということを指摘しておきたい。」
「作者のファンタジーや感情を正確に表現するためにどのような和声にすればよいかと言うことについては法則もなければ定まった手法もない」
「古い完全三和音またはその方式を新しい個性的な方法で用いることもできるからである。」

そして「第六章 近代の対位法技法」で、近代の作曲家たちがは皆バッハを研究し影響を受けているという話につながっていきます。
以前、武満徹について書いたことがありますが、武満徹が晩年調性音楽寄りになっていったことについてかなり批判を受けたということに、なぜそうなるんだろうと違和感を持ちました。作曲家は常に新しいものを求め続けなければならないから、それは調性を感じるものではいけないのかと。そうじゃないんじゃないかと。
それで、この本もですが、オリヴィエ・アランの『和声の歴史』や、アンリ・ゴナールの『調性音楽を読む本』を読んで、大切なのはやはり新しいとか古いとかじゃなくて、「音楽」なのだと再認識しています。著者はみんなフランス人なのですが、物事を多面的にとらえて深く考察し、こちらに考えるための色々なヒントを提供してくれるという点が共通していると感じます。芸術に、音楽に答えはないから、どのように向き合うのかということが重要であると思うし、そのことについてとても心強い助言を得た気がしています。
『和声の変遷』はまだ途中ですし、その他の本もとても密度が濃いし、また読み返して感動したいです。