ピアノのための和声は?

ピアノのための和声の本というのは、演奏者向けのものは多少あっても、作曲のためのというのはあまりないように思います。和声の本を読んでいてよく感じる疑問(色々ありますが)のうちの一つがピアノ曲の場合どうなの?ということですが、それについていくつか書かれている文章をご紹介します。

一つは、以前もブログに書いていますが、『実用和声学』(中田喜直/音楽之友社)からのものです。中田喜直さんは「夏の思い出」や「ちいさい秋みつけた」なども作曲された方です。

ピアノは音楽の基本的な楽器である。もちろん和声学もピアノを使って勉強するが、和声学はピアノのためのものではないので具合が悪い。和声学はその名の通り、和音の中の一つ一つの音を独立した声部として扱い、その声部の動きを厳格に規定したものであるから、混声合唱か、異なる楽器の四重奏でやらなければ本当に理解できないわけである。

平行八度や平行五度の禁則は、そのようにすればある程度理由はわかるが、ピアノで弾いたのでは悪く聞こえない場合が多い。

また、『「なぜ?」が分かるとおもしろい和声学』(川崎絵都夫・石井栄治共著/FAIRY inc)には次のような記述があります。

器楽曲は通常、声部という考え方で作曲されていないので、和声学よりも自由な書法になることが多い。

ある和声学関係の本に、モーツァルトのピアノソナタの譜例をあげて、平行五度が使われているがうっかりミスか?と書かれていました。私は音楽的にそれがミスとは思えないし、そんな例はピアノ曲にたくさんあって、ということは別に問題はないことではと思いましたが、『「なぜ?」が分かるとおもしろい和声学』にも別のモーツァルトピアノソナタを例に、連続8度だが禁則ではないと説明されています。そもそも和声学でピアノ曲を分析するのはどうかということですね。

その和声理論についても

いわゆる機能和声理論は、バッハからロマン派までの音楽語法を矛盾なく包摂しうる高度に体系化された理論であるが、時代がより近代に近づくにつれて、それによって説明しきれない音楽の例が増大してくるのである。(『近代和声の機能理論への試み』(橋本正昭・高野茂著)より)

と書かれているように、ドビュッシーあたり以降から当てはまらないものが増えてきて、どう考えればいいかややこしくなってくるわけですね。

古い和声学と近代の和声についてどう考えればいいのか、シャルル・ケックランの『和声の変遷』(音楽之友社)に書かれていることが面白いです。この本は昭和43年に出されたのが最後で、何年か前古本で見つけました。もう茶色くなっていますが貴重な資料です。ケックランはドビュッシーやフォーレの曲のオーケストレーションをやったこともある人です。本の中から興味深い箇所をいくつか引用します。

「決して過去のものを軽蔑したり、素朴なスタイルを軽んじたりしてはならない」

「芸術家があらかじめ、人の踏んできた道をさけようと考えたところで、決して独創的になったといえない」

「芸術家が斬新で個性的であるという特権を持とうとするには、ありきたりの和音を一生懸命さけたからといってそうなるものでもない」

「私たちの知っている和声学はその時代のすべての音楽の法則集でもなければ、過去の音楽の法則集でもない」

「作曲にあたっては、和声技法について≪固定した法則≫などというものはないことは明白である」

「決まりは相対的なものであり、わずらわされないことが大切である」

などなど、和声についてどのように考えればいいかというヒントがたくさんです。抽象的ですけどね。

色々な音楽家の考え方に触れながら、自分なりに学んでいければいいのかなと思っています。

 

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