月別アーカイブ: 2016年10月

お寺でバロック

日曜はパブロ・エスカンデさんと三橋桜子さんご夫妻からご案内いただいたコンサートに行ってきました。場所は京都市左京区の法然院。哲学の道の途中から東へ坂を上がって行った奥にあります。哲学の道へは時たま行くことがありますが、法然院は久しぶりです。山門がとても素敵。来月になれば、紅葉で人もたくさんでしょうが、夕方近くということもあってかそんなに多くはなかった。でもコンサートには多くの人が来られていました。

今回のコンサートは、初期バロックの作品ばかりで、お二人の他にバロックの演奏家が二人いっしょに演奏されました。チェンバロの他、バロックギター、テオルボ、コルネットなど初めて見たり聴いたりする楽器がありました。パブロさんがオランダから船で送ったという小さなパイプオルガンも。
お寺の本堂の真ん中にチェンバロがある光景はなかなか不思議な感じでした。他の部屋より天井が少し高く、端に向って少し丸みをもたせてあり、思っていたとおり、柔らかないい音がしていました。

今回演奏された初期バロックの作品は、作曲家も曲も知らないものばかり。でも、全体的に優しい音色、歌も含めた楽器の音の溶け合う美しさ、趣向をこらしたプログラム、知らない楽器への興味などからとても楽しめる内容でした。

近頃は、トークも充実しているとよりコンサートの満足度も高まる感じがしますが、今回も初期バロックの作品や楽器などについての説明がたくさんあって、おもしろかった。
バロック時代は即興演奏もさかんで、八分音符を三連符のように弾いていたということは本で読んだりしていました。そういう演奏も聴いたことあります。これは後のジャズのようですが、今回のお話でバロック時代の即興も何かインスピレーションを得て演奏するというよりも、たくさんのフレーズをストックしておいて演奏する時に引き出しからそれを取り出すというようなことを聞いて、そうか、ジャズもそうやって学習すると聞いたな、と思ったのでした。今回の演奏でも、即興演奏の部分があったようですが、もともとの曲を知らないので、どの部分がそうか、ちゃんとわかりませんでした。

休憩時間に、少しパブロさんと話せたので、最近ジャズを勉強しはじめたと言うと、すぐに何が言いたいかわかってくれたようでした。今日のコンサートとの接点。初期バロック作品はより自由な感じがする(クラシック音楽の中で)ということについて共感できました(夫も)。

コンサートの始めに、住職の法話みたいなのが少しあって、仏教は宗派が違ってもそれを認め合う寛容さがあり、それは大切なことであり、日本のお寺でヨーロッパの音楽が演奏されるのも意義深いことであるというようなことをおっしゃってました(おおざっぱな記憶ですが)。
お寺でバロックは、期待通り、いやそれ以上に素敵でした。

聴こえない音楽

先月たまたまツイッターで『リッスン』という映画のことを知りました。公式サイトはこちら
サイトには『「聾者(ろう者)の音楽」を視覚的に表現したアート・ドキュメンタリー、無音の58分間』という見出しがあります。とても気になって予告編を見て、衝撃を受けました。
それまで、音楽というのは耳で聴くもの、音を使って表現するものだと思っていたからです。でも、確かに彼らは全身を使って、音を使わず、音楽を表現していると感じました。
ぜひ観てみたいと思いましたが、京都での上映は元立誠小学校で、すでに終わっていました。
そして最近、『138億年の音楽史』(浦久俊彦著/講談社現代新書)という本を読んでいて、「これは!」と思う部分がありました。

古代ギリシャと聴こえない音楽
「古代ギリシャ時代の音楽観がわかる恰好の資料がある。五~六世紀ローマの哲学者ボエティウスが著した『音楽論』である。ここに、古代ギリシャの音楽が三種の分類で示されている。「宇宙の音楽」、「人体の音楽」、「道具の音楽」である。
ところで、この三種の分類は、ぼくたちの常識的な音楽とはまったくかけ離れている。このなかでいまでも音楽として通用するのは、第三の「道具の音楽」だけだ。この「道具」には、楽器だけでなく人の声も含まれるというから、何か「音の出るモノ」を使う音楽は、すべて道具の音楽となる。ほかのふたつ、宇宙の音楽と人体の音楽は、メロディーがあって演奏できるような音楽ではない。つまり聴こえる音楽ではないのだ。
だが、ギリシャ人たちにとっては、どちらも音楽であることに変わりはなかった。」

そして、ボエティウスは「人体」と「宇宙」の音楽について、どちらも「結合」「調和」など、何かと何かを結びつけること(ハルモニア=ハーモニー)であると強調しているということ。
ハーモニーという英語は、日本でも普通に使われていて、音楽をイメージする言葉だと思いますが、音楽に限らず「調和」を意味する言葉。音楽というのは聴こえても聴こえなくても「調和」のためにあるのだと思うと、改めて感動してしまいます。
これを読んで、「リッスン」で彼らが表現しているのは、やはり「音楽」なのだなと思いました。

 

「なんてことない」ことはないです!

村上春樹さんのエッセイ集『サラダ好きのライオン』の中の、「オペラ歌手のシャム猫」の中に、

「僕は昔から音楽が好きで、それなしではうまく生きていけないくらいだけど、でもそのぶん耳障りな音楽には耐えられない体質になってしまっているところがある。
その昔、用事があって原宿のファッション・ビル「ラフォーレ」に行った。フロアを歩いていたら、右手の店からホール&オーツの『アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット』が聞こえてきて、左手の店からスティービー・ワンダーの『パートタイム・ラヴァー』が聞こえてきて、それがちょうど僕の耳あたりでがつんともろにぶつかりあった。それぞれの歌は悪くないんだけど、二つが等格で混じり合うと、不快な騒音以外の何ものでもない。神経にヤスリをかけられているみたいで、頭がぶち切れそうになり、それがトラウマになって(ほんとに)、以来原宿地区にはろくに足を踏み入れていない。
今の渋谷センター街近辺でも、おおむね同じような事態が―音楽の傾向はもちろんかなり変化したけど―日常的に生じている。とくにあの巨大テレビ画面の音声が街路上で混じり合っている様は、ほとんど拷問に近い。でも見たところ、まわりにはぶち切れている人はいないみたいだ。とくになんてことないんでしょうかね?」

というのがあって、ここまで読んで、「いえ、なんてことないことはないです!」と言いたくなりました。
私もけっこう音楽や大音量のスピーカーの声などが気になる方で、どうしてこんなに音を雑に扱うんだろう、と常々思っている(あきらめてるけど)からです。例えばスーパーなどで、建物全体に聞こえるBGMが流れているのに、魚屋の前では別の音楽がながれていたり(だから両方聞こえている)、途中で音楽がぶちっと切れて、お買い得商品の紹介がスピーカーから流れだしたり。
私も、色々な音が混ざってたりしてもみんな平気なんかな? と思っていたことがあるので、そうでない人を見つけた(村上さん!)と、ちょっとうれしかった。

 

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