月別アーカイブ: 2019年5月

『キース・ジャレット』より その2

前回に引き続き、また『キース・ジャレット』(Ian Carr著・蓑田洋子訳/音楽之友社)を読んでいて、気になったことについて少し書きたいと思います。

1976年にキース・ジャレットは日本で10回のソロ・コンサートツアーを行っています。このうちの5回分が『サン・ベア・コンサーツ』というタイトルでアルバム化されました。そのアルバムについて、批評家の反応はさまざまだったということですが、その中に、批判的なものもあったということです。そして、それに対して著者は次のように述べています。

このような批評家たちはジャレットの音楽そのものがわかっていない。その大きな原因は、真に価値のある音楽的表現はハーモニーに基づいていなければならないという彼らの思い込みにある。その思い込みのせいで、彼らは世界の音楽のおそらく80パーセントを、そしてまた、キース・ジャレットの音楽の本質的な部分を理解できないでいるのである。リズムはリズムだけでも、演奏さえよければ、音楽的装飾や展開に頼らなくても完全に音楽として成り立つということが理解できないというのは、おそらく、西欧のクラシック音楽の判断基準をジャズと即興演奏に当てはめているのであろう。

「西欧のクラシック音楽の判断基準」を、他の音楽にも当てはめるべきではないという著者の考えについて、改めてそうだなあと思いました。自分に当てはめて考えてみると、他の多くの人たちと同じようにほぼ西洋音楽(クラシック以外も含め西洋音楽理論がベースとなっている音楽)の影響の中で生きてきて、それらからたくさんの感動を得て、自分の作品もそういったことがベースになっていると思いますが、だからといって西洋音楽のルールの中だけでやらなければならないというわけではない。知らず知らずとらわれすぎないよう、もっと自由にやっていこうと思えたのでした。でも、全然知らない民族の音楽のようにはならない。知らない成り立ちの音楽は自然には出てこないから。でも、多くの人と共有できる西洋音楽がベースとなっていることは、それはそれでいいと思っています。

「ぼくは最初の最初から、音楽的には完全に真っすぐ進化して来たと思う。ぼくは、いろんなカテゴリーの音楽を渡り歩いたけれども、それは、その時その時に、それらのカテゴリーが、それぞれ、ぼくの中の音楽に一番近いものに感じられたからだ」

というキース・ジャレットの言葉がありますが、ジャンルにとらわれず良いと思うものを吸収し、自分の音楽を生み出そうとする情熱にはすさまじいものを感じます。読んでいて刺激を受けます!

『キース・ジャレット』より

たまたま図書館の蔵書を検索していて見つけた『キース・ジャレット』(Ian Carr著・蓑田洋子訳/音楽之友社)という本を読んでいます。中身を全く知らずに借りましたが、キース・ジャレットをはじめ、彼の家族、様々なミュージシャンへのインタビューをもとに書かれているので、大変興味深いです。何よりもキース・ジャレットの音楽に対する考え方、向き合い方には好奇心そそられずにはいられません。100ページ以上読みましたが(約3分の1)、気になる箇所はメモをとっています。後から探しても見つけるのが大変なので。この本は欲しいと思いますが、ネットで見た限りではもう普通には売ってない(;’∀’)。中古も高くなっている(;’∀’)。とりあえずまた探してみようとは思っています。

ぱらぱらと見たところ最後の方にとても気になることが書いてあるようで、そのあたりのことをブログに書くことになるかなと思っていましたが、100ページを超えてしばらくして、これは!という箇所が出てきたので(私にとってですが)、それについて先に書こうかなと思います。

ジャレットが古今の最も偉大なインプロヴァイザーのひとりであることは間違いないが、それにもかかわらず、彼の音楽が常に聴衆に何かを語りかけているのは、彼が自分と人々の違いよりも、人々と共有しているもののほうをよく認識しているためであるように思われる。

ナディア・ブーランジェはかつて次のように語ったことがある。「普通のことを避けようとしてむきになってはいけません。そうする人は、人生の外で生きているのです」

ジャレットの強みの一つは、彼は決して普通のことを恐れないということである。彼は、ソロ・コンサートで、リズムに有頂天になり、しばしば、長い間、強力なリズム・パターンを持続させる。

ブーランジェの言葉をなぞるように、ジャレットもこう言うのである。「ジャズは、ユニークでなければならないということになってしまっている。ユニークであることは自己中心的なことである。ぼくの考えでは、人が一番やろうとしてはならないことは、独創的であろうとすることだ。もし、他の八万人の人々とそっくりな響きになるとしても、人真似をしていないならば、それはやはり音楽だ」

彼が民俗(フォーク)音楽や、民族(エスニック)音楽をよく理解しているおかげで、そして彼の持って生まれたメロディーの才能のおかげで、彼の演奏するものの多くは奇妙に親しみを感じさせるが、それでもなお、次々と新しいアイディアが現れてくる。ジャレットのコンサートをあれほど素晴らしいものにしているのは、明らかに親しみを感じるものが、まったく予想もしないものと一緒に並べられているという安心感である。

キース・ジャレットの音楽が独自性がありながら聴きやすいのは、そういう信念を持っているからだということがわかりました。私は、ユニークであろうとすること、独創的であろうとすることを悪いと思いませんが、どちらかと言えばキース・ジャレットの考えに共感します。私など全く次元の違うところでやっていますが、常に「人々と共有しているもの」について意識がいきます。そして、時代の価値観が少しずつ移り変わっていく中で、共有の部分も少しずつ変化していっているような気がしていますが、この本の最後の方でもそういったことについて触れられていることを最初のぱらぱら読みで発見しました。

自分の音楽を探求するということは内に向くことですが、誰かに聞いてもらうことが前提だから外への意識を持ち続けているわけです。その狭間で、音楽って何だろうと思うことがよくあります。

引用部分に「民俗・民族音楽」の話がありましたが、『和声の変遷』(Ch・ケックラン著・清水脩訳/音楽之友社)に次のように書かれている部分があります。

一般に古い民謡には人工的な作意というものがなく、それは《心の声》である。感情の内的な要求である。なぜ民謡がながく世にのこり、その感化力が豊であるかはこのためである。

心を動かすのは心(音楽に込められた)ということでしょうね。個人個人の思い(好きという)によって音楽は受け継がれていき、それは結果として人々の間で共有される。個人のための音楽と共有する音楽について考え、その間を行き来しながら日々音楽に向き合っているような気がしています。

引き続き読みます。

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みんなで歌える歌

今日はゆうらくデイサービスで、演奏、伴奏してきました。昨年一度やらせていただいて、今回で2回目です。きっかけは、福祉系の仕事をしている友だちの紹介でした。友だちは今回は自分のお母さんも連れてきてくれました。今日のイベントは誰でも参加できるらしく、私が弾くというのもあって、久しぶりに会えるし(お母さんと)二人で参加してくれました。友だちとは幼なじみで、お母さんに久しぶりに陽子ちゃんと呼んでもらって、なんかうれしかったです。

イベントでは演奏と歌の伴奏をやりました。演奏では何を弾こうか、クラシックと編曲ものとオリジナルと迷いましたが結局クラシックにしました。行って場の雰囲気で決めました。耳に優しそうなモーツァルトとショパンの曲にしました。あまりクラシックを弾く人と思われたくもないのですが(大した演奏もできませんし)、やはりその方が一般的にはわかりやすいかな?(ピアノ=クラシック?)その場に合わせて柔軟に対応していこうかなという感じです。

歌の方は、事前に相談して「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」「ドレミの歌」などを歌ってもらいました。「見上げてごらん夜の星を」が一番よく声が出ていた感じです。終わってから参加者の人たち(福祉関係のお仕事?)と話をしましたが、だんだんと音楽の好みも多様化していて、みんなで歌える歌ってこれから少しずつ選曲が難しくなるかもですねと日ごろから思っていることを話すと、同意してくださいました。それで、どんな曲がいいですかね?とご意見を伺いました。最近、親子のイベントなどでもどんな音楽が好きか皆さんに教えてもらったりしています。

歌う、しかも大勢でという機会はなかなかないと思いますが、合唱(ユニゾンの)って準備なしで誰でも音楽に参加できるし、一体感みたいなのも生まれるし(私は伴奏しながらいつも感じていますが)、とても良い体験じゃないかなと思っています。それで、みんなで歌える歌というのに興味があります。

明日は子どもたちと音楽です!

 

ピアノのための和声は?

ピアノのための和声の本というのは、演奏者向けのものは多少あっても、作曲のためのというのはあまりないように思います。和声の本を読んでいてよく感じる疑問(色々ありますが)のうちの一つがピアノ曲の場合どうなの?ということですが、それについていくつか書かれている文章をご紹介します。

一つは、以前もブログに書いていますが、『実用和声学』(中田喜直/音楽之友社)からのものです。中田喜直さんは「夏の思い出」や「ちいさい秋みつけた」なども作曲された方です。

ピアノは音楽の基本的な楽器である。もちろん和声学もピアノを使って勉強するが、和声学はピアノのためのものではないので具合が悪い。和声学はその名の通り、和音の中の一つ一つの音を独立した声部として扱い、その声部の動きを厳格に規定したものであるから、混声合唱か、異なる楽器の四重奏でやらなければ本当に理解できないわけである。

平行八度や平行五度の禁則は、そのようにすればある程度理由はわかるが、ピアノで弾いたのでは悪く聞こえない場合が多い。

また、『「なぜ?」が分かるとおもしろい和声学』(川崎絵都夫・石井栄治共著/FAIRY inc)には次のような記述があります。

器楽曲は通常、声部という考え方で作曲されていないので、和声学よりも自由な書法になることが多い。

ある和声学関係の本に、モーツァルトのピアノソナタの譜例をあげて、平行五度が使われているがうっかりミスか?と書かれていました。私は音楽的にそれがミスとは思えないし、そんな例はピアノ曲にたくさんあって、ということは別に問題はないことではと思いましたが、『「なぜ?」が分かるとおもしろい和声学』にも別のモーツァルトピアノソナタを例に、連続8度だが禁則ではないと説明されています。そもそも和声学でピアノ曲を分析するのはどうかということですね。

その和声理論についても

いわゆる機能和声理論は、バッハからロマン派までの音楽語法を矛盾なく包摂しうる高度に体系化された理論であるが、時代がより近代に近づくにつれて、それによって説明しきれない音楽の例が増大してくるのである。(『近代和声の機能理論への試み』(橋本正昭・高野茂著)より)

と書かれているように、ドビュッシーあたり以降から当てはまらないものが増えてきて、どう考えればいいかややこしくなってくるわけですね。

古い和声学と近代の和声についてどう考えればいいのか、シャルル・ケックランの『和声の変遷』(音楽之友社)に書かれていることが面白いです。この本は昭和43年に出されたのが最後で、何年か前古本で見つけました。もう茶色くなっていますが貴重な資料です。ケックランはドビュッシーやフォーレの曲のオーケストレーションをやったこともある人です。本の中から興味深い箇所をいくつか引用します。

「決して過去のものを軽蔑したり、素朴なスタイルを軽んじたりしてはならない」

「芸術家があらかじめ、人の踏んできた道をさけようと考えたところで、決して独創的になったといえない」

「芸術家が斬新で個性的であるという特権を持とうとするには、ありきたりの和音を一生懸命さけたからといってそうなるものでもない」

「私たちの知っている和声学はその時代のすべての音楽の法則集でもなければ、過去の音楽の法則集でもない」

「作曲にあたっては、和声技法について≪固定した法則≫などというものはないことは明白である」

「決まりは相対的なものであり、わずらわされないことが大切である」

などなど、和声についてどのように考えればいいかというヒントがたくさんです。抽象的ですけどね。

色々な音楽家の考え方に触れながら、自分なりに学んでいければいいのかなと思っています。

 

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