『キース・ジャレット』より

たまたま図書館の蔵書を検索していて見つけた『キース・ジャレット』(Ian Carr著・蓑田洋子訳/音楽之友社)という本を読んでいます。中身を全く知らずに借りましたが、キース・ジャレットをはじめ、彼の家族、様々なミュージシャンへのインタビューをもとに書かれているので、大変興味深いです。何よりもキース・ジャレットの音楽に対する考え方、向き合い方には好奇心そそられずにはいられません。100ページ以上読みましたが(約3分の1)、気になる箇所はメモをとっています。後から探しても見つけるのが大変なので。この本は欲しいと思いますが、ネットで見た限りではもう普通には売ってない(;’∀’)。中古も高くなっている(;’∀’)。とりあえずまた探してみようとは思っています。

ぱらぱらと見たところ最後の方にとても気になることが書いてあるようで、そのあたりのことをブログに書くことになるかなと思っていましたが、100ページを超えてしばらくして、これは!という箇所が出てきたので(私にとってですが)、それについて先に書こうかなと思います。

ジャレットが古今の最も偉大なインプロヴァイザーのひとりであることは間違いないが、それにもかかわらず、彼の音楽が常に聴衆に何かを語りかけているのは、彼が自分と人々の違いよりも、人々と共有しているもののほうをよく認識しているためであるように思われる。

ナディア・ブーランジェはかつて次のように語ったことがある。「普通のことを避けようとしてむきになってはいけません。そうする人は、人生の外で生きているのです」

ジャレットの強みの一つは、彼は決して普通のことを恐れないということである。彼は、ソロ・コンサートで、リズムに有頂天になり、しばしば、長い間、強力なリズム・パターンを持続させる。

ブーランジェの言葉をなぞるように、ジャレットもこう言うのである。「ジャズは、ユニークでなければならないということになってしまっている。ユニークであることは自己中心的なことである。ぼくの考えでは、人が一番やろうとしてはならないことは、独創的であろうとすることだ。もし、他の八万人の人々とそっくりな響きになるとしても、人真似をしていないならば、それはやはり音楽だ」

彼が民俗(フォーク)音楽や、民族(エスニック)音楽をよく理解しているおかげで、そして彼の持って生まれたメロディーの才能のおかげで、彼の演奏するものの多くは奇妙に親しみを感じさせるが、それでもなお、次々と新しいアイディアが現れてくる。ジャレットのコンサートをあれほど素晴らしいものにしているのは、明らかに親しみを感じるものが、まったく予想もしないものと一緒に並べられているという安心感である。

キース・ジャレットの音楽が独自性がありながら聴きやすいのは、そういう信念を持っているからだということがわかりました。私は、ユニークであろうとすること、独創的であろうとすることを悪いと思いませんが、どちらかと言えばキース・ジャレットの考えに共感します。私など全く次元の違うところでやっていますが、常に「人々と共有しているもの」について意識がいきます。そして、時代の価値観が少しずつ移り変わっていく中で、共有の部分も少しずつ変化していっているような気がしていますが、この本の最後の方でもそういったことについて触れられていることを最初のぱらぱら読みで発見しました。

自分の音楽を探求するということは内に向くことですが、誰かに聞いてもらうことが前提だから外への意識を持ち続けているわけです。その狭間で、音楽って何だろうと思うことがよくあります。

引用部分に「民俗・民族音楽」の話がありましたが、『和声の変遷』(Ch・ケックラン著・清水脩訳/音楽之友社)に次のように書かれている部分があります。

一般に古い民謡には人工的な作意というものがなく、それは《心の声》である。感情の内的な要求である。なぜ民謡がながく世にのこり、その感化力が豊であるかはこのためである。

心を動かすのは心(音楽に込められた)ということでしょうね。個人個人の思い(好きという)によって音楽は受け継がれていき、それは結果として人々の間で共有される。個人のための音楽と共有する音楽について考え、その間を行き来しながら日々音楽に向き合っているような気がしています。

引き続き読みます。

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