今ぼちぼち読んでいるシャルル・ケクランの『和声の変遷』には譜例がたくさん出てきますが、フォーレ、ドビュッシー、ラヴェル、シャブリエ、サン・サーンス、サティ、ムソルグスキー、ビゼー、ケクラン(著者)などなど、響きとしては近代の新しい感じのものがほとんどです(ほとんど知らない曲ばかり。実際音を出してみて、ふうん、きれいなあとか、よくわらからんとか)。
でも、譜例では新しい方法を紹介しつつ、繰り返し、古い手法をおろそかにするべきでないことも念を押すように書かれています。
例えば次のように。
(序)
「私は学生たちに―これは大変大切なことである―決して不協和音の中に身を没してはならぬと注意しよう。しかるに学生はあまりにもかたくなな熱意のままにその中に溺れている。それは彼らが完全三和音の美感覚を失ったからである。完全三和音のあの洗練された内的な本質を味わうには真の教養というものが必要なのである。しかし、独創的であろうと心をくだき、平凡さをおそれるというのならまた話は別である。たしかに平凡であってはならないし、又真の美を含むものは何かの点で独創的である。しかし芸術家があらかじめ、人の踏んで来た道をさけようと考えたところで、決して独創的になったとはいえない。(中略)芸術家が斬新で個性的であるという特権を持とうとするには、ありきたりの和音を一生懸命さけたからといってそうなるものでない。また、平凡さを救うものは、多調音楽であるのでもない。」
「ここでは近代の不協和音(往々にしてやわらかい)の一般的な発展について研究すると同時に、新しい和音形式を分析するのであるが、しかし決して万能薬とも言うべきものをお見せしようというのではない。くりかえしていうが、学生諸君―および音楽会の聴衆諸君―決して、過去のものを軽蔑したり、素朴なスタイルを軽んじたりしてはならない。」(第五章 特殊例)
「本書は新しい音楽語を研究しようというものであるが、在来の和音もなお可能であるということを指摘しておきたい。」
「作者のファンタジーや感情を正確に表現するためにどのような和声にすればよいかと言うことについては法則もなければ定まった手法もない」
「古い完全三和音またはその方式を新しい個性的な方法で用いることもできるからである。」
そして「第六章 近代の対位法技法」で、近代の作曲家たちがは皆バッハを研究し影響を受けているという話につながっていきます。
以前、武満徹について書いたことがありますが、武満徹が晩年調性音楽寄りになっていったことについてかなり批判を受けたということに、なぜそうなるんだろうと違和感を持ちました。作曲家は常に新しいものを求め続けなければならないから、それは調性を感じるものではいけないのかと。そうじゃないんじゃないかと。
それで、この本もですが、オリヴィエ・アランの『和声の歴史』や、アンリ・ゴナールの『調性音楽を読む本』を読んで、大切なのはやはり新しいとか古いとかじゃなくて、「音楽」なのだと再認識しています。著者はみんなフランス人なのですが、物事を多面的にとらえて深く考察し、こちらに考えるための色々なヒントを提供してくれるという点が共通していると感じます。芸術に、音楽に答えはないから、どのように向き合うのかということが重要であると思うし、そのことについてとても心強い助言を得た気がしています。
『和声の変遷』はまだ途中ですし、その他の本もとても密度が濃いし、また読み返して感動したいです。