ピアノへの向き合い方はいろいろ

先日、たまたま見かけたかなり前のYahoo知恵袋の質問に、次のようなものがありました。

質問者Aさんは、5~6歳くらいのお子さんに1年半ほどピアノを教えていらっしゃるのですが、ご自身も少し弾ける程度ということで、教材についてアドバイスが欲しいという内容です。質問内容には、これまで使われてきた教材、親として何のためにピアノを教えているのか(自分も少し弾けることで楽しめているので、子どもも簡単なことをピアノでできるようになったらいいなと思うということ)、親から見た子どもの音楽的センス、習わせる余裕はない、本物のピアノはない、コミュニケーションとしてやっているなど、ということが書かれていて、ある程度限られた条件の中、多分お子さんの適性もよくわかった上で、ご自分でできることをやっていらっしゃるんだなと感じました。お子さんもちゃんと親御さんの元でピアノを続けているのだから、すばらしいと思いました。

でも、これに対する回答の中には、教材についてではなく、親御さんを非難するちょっと驚くようなコメントがいくつかありました。

何のために教えているのか、中途半端で子どもがかわいそう、子どもの芽を摘む、母親のエゴ、絶対音楽をつけさせるべきなど、批判的な、または一方的に価値観を押し付ける、感情的なコメントが少なからずあり、とても違和感を覚えました(匿名でなければここまで書けないと思います)。

それらのコメントから、ピアノをやるならちゃんと徹底的にやらなければ意味がない、将来音楽の仕事につけないという考え方が感じられました(Aさんの文章をちゃんと読めば、これらのコメントは出てこないと思うんですが)。

でも世の中には、色々な理由でピアノが弾きたい人たちがいます。私が接している親御さんでも、コンクールや音大を目指したいわけではないとはっきり言う方もいらっしゃいます。それは、Aさんのように、自分の子どもの適性はわかっている、でも少し弾けたら楽しみが増えたり、役にたつこともあるかもしれないという気持から習わせたいと思っていらっしゃるのでしょう。実際にはそういう親御さんの方が多いのではないでしょうか?

音楽の道に進み、さらにプロの音楽家になるには、そこそこの資質と相当な覚悟と長い年月の努力が必要で、それでも音楽家として生計をたてることは並大抵ではないですよね。昔から、モーツァルトやドビュッシーでさえもお金に困っていた!

そういうことがわかっていれば、なおさら、そこに多くの時間やお金を費やすよりも、他のことも色々させて(別に習いごとでなくても、色々な経験や遊び!を)可能性の幅を広げたいと考えるのは自然なことだと思います。本人がやりたい!というのなら、なるべくその気持を大事にして、伸ばしてあげるような環境においてあげるのがいいのだと思います。子どもの適性を見ずに、こうするべきという形にはめようとするのは望ましくないと思います。一番よくないのは、多くを求めすぎて、結局苦手意識を持ってやめてしまうことではないでしょうか。

『音楽気質』(アンソニー・E・ケンプ著/朝井知訳/星和書店)という本の13章「音楽的才能の発達」に、

「若い音楽家は、親が、自分の子どもの音楽的発達のための責任と信じて押し付けてくる環境に、どの程度まで包まれているべきなのだろうか」

という問いかけがあります。

この本では、音楽家となるタイプについての様々な検証がなされていますが、やはり適性というのはあります。でも、音楽を学ぶという行為は、一流の音楽家を目指す人から、楽しみのためにやりたい人までとても幅広く行われることで(もちろんクラシック以外のたくさんのジャンルも含め)、この中で音楽家に向いている人というのは、地道に練習や創作という孤独な作業に膨大な時間をつぎ込んでそれをずっと継続できる人で、ある程度絞られてくる。そういった人たちと、楽しみのためにやりたいだけでそこまで時間もお金もかけられない人が、同じように取り組むべきということにはならないと思います。

私が、ピアノに興味がある人たちにできることは、多少でもより弾けるようになって、音楽の楽しみを感じられるようなるお手伝いをすることだと思っています。