光源氏が語る「物語論」

以前もブログに書いた『日本の芸術論』(安田章生著)をちびちびと読み進めています。実は、この本で一番力の入っている「詩歌論」を読んだ後、しばらく読んでなかったんです。といのは、あまりに芸術を追求して高めることばかりが書かれていて(松尾芭蕉についてたくさん書かれています)、少しひいてしまったんです。

すべてでないかもしれないけど、その対象が無限と思われる「自然」の美。それがすばらしいことには違いないと思いますが、そこから美をすくい取って、「詩」という芸術に仕上げることにに全生命をかけるくらいの厳しさというか、その精神性に、ちょっとそこまでは…と感じてしまって。そういう印象を持ってしまったあたりからは、読み方もちょっといい加減になったかもしれません。すばらしいこともたくさん書いてありますが。

で、しばらくしてから、次の「物語論」というのを読んでみたら、少し興味深いことが書いてあって、ちょっと書いてみようかと思いました。
「物語論」も「音楽論」よりはましなものの、「詩歌論」に比べれば、書かれたものが少ないようです。その中で著者にとっての物語論の中で、最高のものとして『源氏物語』の「螢」の巻のなかに見える物語論をあげています。源氏物語って、昔々、高校生の時古典でずっと読んでいたけど、ほとんど覚えてないというか、そもそもあまり頭に入ってない(笑)。

紫式部が、『源氏物語』の中で自分の物語論を光源氏に語らせているということです。
著者が要約したものは、こうです。

一、物語というものには、実際なかったことがかかれており、そういう点でそのままには信ずべきでないものが含まれている。

二、しかし、それは、さびしい心を慰めてくれるものであり、虚構のなかに人間性の真実をきらめかしているものである。

三、それゆえ、それは、史実を越えて、人間性を描き出すものであり、そういう意味で、史書以上に人間の真実に迫り触れているものである。

四、そういう物語というものは、ある特定の事実をそのままでないにせよ、この世に生きている人間の有様を見聞きするにつけ、書かずにはおられなくなって書いたものである。それはやはり現実に深く根ざして書かれたもので、全く嘘だとはいい切れないものである。

人をひきつける物語とは、その中に受け取る側が共感できる真実があるからだと、実感することはよくあります。
「詩歌論」がどちらかというと、自然に向き合っているのに対し、「物語論」は人に向き合っているという違いが感じられます。この違いは興味深い。
この本は、そもそも自分にとっての興味のテーマで、この本を選んだきっかけ、「私に影響を与えている日本・西洋の芸術についての考え方」にも影響を及ぼしている感じがしています。

 

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