雅楽?レチタティーボ?

この間の録音の後、ようやく気づいたのですが、私のゆっくりな曲の変則的な拍の取り方は、クラシック的なものとは違うかもということです。

いるか喫茶バーのマスターが少し前から、私のゆっくりした曲の中に「ため」や「間」があってそれが語っているとおっしゃってくださっているのですが、その時もまだ、それはクラシック音楽から得た「ゆらぎ」であると思っていたのです。

クラシック音楽では、ベースとなるテンポがあって、その中でルバート、リタルダンド、アッチェレランドなどなど、速くなったり遅くなったりする表現がありますが、そういった感じとは違うような。

曲作ったり、ちょっと変えたりしている段階から、例えば4分の4で書いている曲の途中の1小節を4分の5にしたり、でも実際弾く時ははもう少し伸ばしたり、感覚的に変えているようなことがだいぶ前からあるにはあったのです。

自分が書いた楽譜に忠実に弾くというより、むしろそれはメモ(よりは詳しいけど)で、演奏の際にはある程度自由に弾くというスタイルです、改めて考えてみると。と言ってもある程度は自然と決まってきますが。

クラシックでもバロックの頃は、楽譜はメモのようなもので即興(ルールのある)がたくさん取り入れられていたということですが、とにかく一度書き留めた楽譜よりも、演奏に重点を置くという感じ?

録音スタジオでエンジニアの人と、ある曲を聴きながら、ん?楽譜の音符の長さと違う、これはいかん、と一度は思ったのですが、その後、いや、でも演奏中はこれでいいと思っていたし、その表現が良いと思うなら、楽譜をそのように変えてもいい。自分の曲だし。と思いなおす。エンジニアの人が、私の楽譜を見ながら、ritとか書いてないの?と聞くので、自分しか弾かないから何も書かないなどと言って、話をしながら、改めて自分の表現について考えたのでした。

自分でも意外だなと思ったのですが、雅楽ってどうなんだろうという考えが浮かびました。日本人やしなあ(笑)。それで改めて調べてみたら、笙を演奏されている方のサイトに興味深いことが書いてありました。少し短く簡単にまとめて引用してみたら、

・雅楽ももともとは歌である。人間の息の長さが周期になっている。

・さらに、雅楽の楽器は俊敏に音を発することに向いていない。よって、拍はにじんだようになり、リズムは柔軟になる。

(野津輝男さんのサイト『雅楽のリズム』より)

そうか、「歌」なのだ。クラシックでもレチタティーボというのがありますよね。わりと自由に歌う部分。(以前一度だけヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」の伴奏をしたことがあるのですが、レチタティーボの部分、私が慣れてないのもあって合わせるの大変だった(^_^;))

ここに思い至って、ようやく腑に落ちたというか、自分の中の理性(こうであるべき!)と感性のせめぎあい(?)に決着がついたというか、すっきりしたんですね。

私は歌うようにピアノを弾きたい。だから、場合によっては拍から自由になりたくなる(なっている)。ようやく謎が解けたという感じです。

曲によっては最初から最後まで3拍子なら3拍子で同じような調子で弾く曲もありますが、特にゆったりした曲は、これからもっと歌っていこうかな。とにかく表現をfix(固定)したくない。自分が変わっていけば、弾き方も変わっていくのは自然なことでしょう。