西洋音楽とその他の音楽について

明治時代に日本の近代化に伴い、西洋音楽も導入され、それまでの日本の音楽が西洋音楽に取って代わられたというような話はたまに聞きます。それまでの日本の音楽と言えば、民謡やわらべうた、雅楽などの古典音楽でしょうか。西洋音楽とはつくりが全然違う音楽ですね。なので取って代わられたというよりも、それまでなかったジャンルの音楽が入ってきたという方が近いんじゃないかなという気がします。そして西洋音楽は、文部省唱歌のような形にして日本人が親しむよう仕向けられたからという理由だけではなく、やはり魅力があったから定着したのではないかと思います。当時の日本の作曲家たちも、理屈抜きでクラシック音楽を聴いてその魅力に惹きつけられたという話をこれまで何度か読んでいます。

西洋音楽は、合理化を優先し、十二平均律によって隣り合う音の音程を均等に整えてあり、民族を超えて共有するにはとても便利にできているんですね。また、閉じて秘伝にするというよりもオープンにして共有するというのも西洋文化の特徴の一つであると思います。日本に限らず、西洋音楽が他の非西洋の国々でも受け入れられているというのは、音楽の魅力に加え、そういった西洋音楽の性質によるところもあるのではないでしょうか(そういえば平均律の発明が音楽の商業化の始まりであるというようなことが『憂鬱と官能を教えた学校』(菊地成孔+大谷能生/河出書房新社)に書いてあったことを思い出しました)。

でも、もともとあった音楽よりも西洋音楽を好んだからといって、各地方にあった、民俗・民族音楽が、西洋音楽の前では価値がないのかというと、そういうことでは全然ないはずです。世界の音楽全体を見たら、西洋音楽も音楽のうちの一つの種類なんですよね。

そういう風に改めて考えるきっかけとなったのが、最近読んだ『キース・ジャレット』(Ian Carr著・蓑田洋子訳/音楽之友社)、『サステナブル・ミュージック』(若尾裕/アルテスパブリッシング)、『親のための新しい音楽の教科書』(若尾裕/サボテン書房)と、読みかけで返した(再び取り寄せ中)『ミュージッキング』(クリストファー・スモール/水声社)です。

これらの本の中で、共感できること、新たに考えさせられたこと、そしてちょっと違うんじゃないかなと思えること(あまりネガティブに考えても仕方ないと思えることなど)もありますが、共通して言及されているのは、西洋音楽(特にクラシック)の音楽全体に対する位置づけについてだと思います。あまりに権威化していて(そもそも西洋クラシック音楽の始まりは宗教や貴族などのためであったし)、音楽本来のあり方からかけ離れてしまっているのではないかということです。作品や作曲家そのものへの批判ではなく、とらえられ方についてですね。それを絶対視して他を批判したり、階層の一番上と考えたりすることに異を唱え、複雑で難しいものがより価値が高いという価値観に対し疑問を投げかけています。

これは、単に音楽ジャンルとか種類だけの話ではなく、誰もが人生や音楽を楽しむ権利があるという意味で、どれも等しく価値があるということにつながっていると思います。

色々と影響を受けたこともあり、最近改めてクラシックの中でも民族音楽色のあるものを弾いてみたり、これまでお店でもあまり気に留めていなかった無印で使われている民族音楽をネットで改めて聴いてみたり、色々と探っています。面白いです。

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