音楽性というものは

少し前に、シャルル・ケクランの『和声の変遷』という本を買いました。京都芸大図書館で下見をして、欲しいと思っていました。でも古い本で普通の本屋さんでは手に入らないのでネットの古本屋さんで見つけました。紙は茶色くなってるし、所々鉛筆で書き込みもあり(消しゴムで消せるからよかった)、少したばこのようなにおいもしますが、それでも見つかってよかった。
譜例がたくさんあって、音を出しながら読み進めていていますが(参考になってるかどうかわかりませんがとりあえず)、音を出せる時間帯はなるべくピアノの練習や作曲などをしているので、なかなか先に進みません(ようやく5分の1くらいで止まってます)。でも、すでに興味深いことがいくつかあって、それは理論についてというより、音楽への向き合い方のような考え方についてです。
一例をあげてみます。途中の「特殊例」という章に次のようなことが書かれています。

「和声学の法則や禁止が現代の音楽家によって大抵は破られている。五十年前の人たちはそれほどこれらの法則を犯さなかった。そして十八世紀 ―あるいはそれ以前の― 大家たちは、これらの法則とは全然ちがう用例をしめした。ベートーヴェンの考え方(彼曰く、“法則は私のする通りになっている”)や、グルックの考え方(“音楽として要求されるならば、私の犯さなければならぬと信じたものはもはや法則ではない”)については既に誰もが知っていることである。」
(中略)

「音楽性というものはきわめて神秘である。どの作曲家もみな同じ音楽性をもっているということはない。ただし音楽性が存在するという点では、すぐれた音楽家たちはみな共通している。(しかし場合によっては意見の異なることもある)
“美の法則”を数理的に樹立しようという理論にとっては、音楽性というものは厄介なものである。“芸術の数理的理論”というものは論じる価値はあるが、それは量的には説明しえない要素を含んでいる。つまり、その要素というのは、質的なものであって量的なものでないところの人間の感情である(ベルグソン)。

この人間的な要素がつねに芸術の根底にある。それは数だの大きさだのによっては分解できないものである。人間の魂とその表現(芸術の物的手段によってなされる表現)、この間の関係は、心と物、質と量、無限と有限等におけると同様に神秘なものである。
したがって、過去および現在の大家たちの作品に見出される数多くの特殊例は一々非難したり懸念したりする必要はない。今日以降も、またちがった特殊例が見出されるであろう。そして、それらはすべて理論では証明できぬものであろう!」

“人間の魂とその表現”。まさに、日々その狭間を行き来している気がします。音楽性とは神秘であり、無限ですね。どこにも答えはないから終わりがない。
理論の部分はまあまあ適当にとばしつつ目を通して、こういった部分は何度も「そうそう」と思いながら読み返している感じです(笑)。