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ボディ・マップ

『ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと』(トーマス・マーク他著/春秋社)を読んでいます。以前一度読んでいますが、その時とてもいいことが書いてあると思い、実際弾く時に試してみて意識していることがありますが、最近またボディ・マッピングなどについて人と話す機会が何度かあり、もちろん忘れている部分もたくさんあると思うし、もう一度読んでみようと思いました。

まず「ボディ・マップ」について書かれています。

「私たちの身体の位置や状態、動きは、脳の中でしっかりイメージされていて、このイメージを用いて全身の動きを協調させているのです。この脳内イメージこそがボディ・マップと呼ばれているものなのです」

このボティ・マップは変化するもので(例えば身体の成長に伴って)、

「あいまいだったり詳細だったり、正確だったり不正確だったりします」

一方、

「身体というのはある決まった構造をしており、その能力の範囲内でしか動かないのです」

つまり、実際の体の構造や動きとボディ・マップのギャップが大きいと、色々問題があるということです。ピアノ演奏でいうなら、間違ったボディ・マップによる力みや不自然な動きによって演奏の質を損なったり、手などの故障の原因となる。

ボディ・マップの質をあげること(イメージを実際の体の機能に近づける)が、演奏の質を上げ、故障の原因を減らすことになるわけですね。

良い演奏のためには、身体のことをちゃんと知った方がいいですね。演奏もダンスなど他のパフォーマンスと同じように、心身を切り離して考えることはできないものだと思います。内面を表すためには、身体をうまく使いこなさなければならない。この本でも次のように書かれています。

「音楽を奏でるために、身体と一体化した自己(セルフ)を動かす」

(ちょっとわかりにくい表現のような気もするのは、元が英語だから?)

良いボディ・マップは演奏家だけに限らず、スポーツをする人、また全ての人が体のトラブル(腰痛など)を回避するのに有効だと感じます。

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音楽は抽象的ですよね

今晩(24日のこと。今は25日1時すぎ、眠い!)は、いるか喫茶バーでBGM演奏をしてきました。今回は編曲ものなしで、20曲弱ほどオリジナル。
そのうち、わりと新しい3曲はまだタイトルが決まってなくて(とりあえず番号をつけてます)、いつものことですが、困ってます。以前も書きましたが、タイトルを決めてから曲を書くことはあまりないので、あとから決めるのですが、この抽象的なものにタイトルをつけるのがとても難しいといつも感じます。音楽を言葉に置き換えるのは無理があると基本的には思っています。それでも、タイトルがないと自分でもどれがどれだかわかりにくい。なんとか、名前をつけてしまえばだんだんふさわしく思えてくる。そういう理由で今のところどれもタイトルをつけています。
来週は久々に録音をするので、それまでにはなんとか決めたいのですが💦

今、『西洋音楽史』(岡田暁生著/中公新書)という本を図書館で借りて読んでいます。ダルクローズリトミックの先生に教えていただいた本です。このタイトルでは自ら手に取ることはないと思いますが(平凡なので)、面白そうだなと思って借りてみました。まだ途中ですが、やはり独特の視点が面白いです。色々勉強になるので資料としてまた買ってもいいかなと思っています。
ロマン派のところで、次のような箇所があります。

「十九世紀に入って、とりわけドイツ・ロマン派の詩人たちの間で、純粋器楽曲崇拝とでもいうべきものが生じはじめる。彼らは芸術の中にあらゆる現実=具象を越えたものを求めてやまなかった。(中略)
諸芸術の中でただ音楽だけが、それも器楽曲だけが、具象界を超越することができる。その漠たる抽象性のゆえに無限に想像力の翼をはばたかせることができるのだ。」

まあ、とにかく言葉を使わない音楽は抽象的であることに関する記述を見つけて、そうそうと思っているのです。

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身体による表現

今日は京都音楽院で行われたクリエィティブリトミック音楽指導研究のうちの、「身体による表現」(ボディクリエーションコース)に参加してきました。

ちらしによると、「音楽や表現を体験的に理解し、模倣や即興、創作の遊びを通した創造的な音楽活動の提案を実践していきます」などと書かれていますが、どんな内容なのかいまいちわからないまま、でも今私が気になっていることに近い感じもして、トライしてみることにしました。

講師の井上浩子さんは、音楽教育家のオルフやダルクローズの考えを紹介しつつ、体を使ってできる表現について、様々な方法で指導してくださいました。先生はヨーロッパやアメリカで学んでこられていますが、向こうでは音楽家はみんなダンスを学ぶということです。体を使ってリズム感覚を習得するという考えのようです。単なるリズム感覚ではなく、豊かなリズム感覚と感じました。

今日はたくさん体を動かしましたが(音楽ありとなしの両方)、その際どの部位が働いているのかということに意識を向けるということをたくさんやりました。その中で「筋感覚」のお話もありました。

筋感覚については以前読んだ『ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと』で知り、その話をしました。この本では、筋感覚は五感の次にくる第六感と位置づけていています。ピアノを弾く時どこの関節、骨、筋肉が関係しているのか、そういったことを意識することによって、弾き方が変わってくる。今日のお話と重なる部分があります。

体の仕組みを知りむだな力を使わず動かすという物理的な側面と、音楽を感じて体で表現するという芸術的な側面の両方について改めて考え、また体を動かすことと心理面との関係を認識するなど、とても有意義なワークショップでした。
最近取り組んでいることは、私の音楽そのものと、みんなと共有するための音楽活動どちらにも生かしていけるものじゃないかなと感じています。

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「即興」について考える

今年最初のブログです。今年もよろしくお願いします。
先週の金曜日、ダルクローズ・リトミック京都研究会の月例会に参加しました。田中弥生先生はダルクローズ国際ライセンスをお持ちで、内容はリトミック、ソルフェージュ、即興、鍵盤和声、指導法と盛りだくさんでした。全体を通して即興の要素が多く(リズム、歌、ピアノ)、またグループで行うのでリズムのかけあいをしたり、メロディーを紡いだり、音楽を通してのコミュニケーションを何度も意識し、興味深かったです。

以前ブログで一部ご紹介した『フリープレイ―人生と芸術におけるインプロヴィゼーション』(スティーブン・ナハマノヴィッチ著/フィルムアート社)は、まだ読んでる途中ですが、この本を読んでから「即興」(インプロヴィゼーション)とは広く創造を意味するものとしてとらえるようになりました。この本の中に「作曲とは、インプロヴィゼーションをゆっくりおこなうことである」というシェーンベルクの言葉が紹介されています。この本では音楽に限らず、生きていく上での「即興」(創造)の重要性を説いていると感じます。
ナハマノヴィッチはヴァイオリニスト、作曲家、詩人、教師、コンピューターアーティストということですが、コンピューターと人間の違いについてこんな記述があります。

「コンピューター演算は、AからBへ、BからCへ進む直線的プロセスであるのに対し、直観はむしろ、集中的な演算です。すべてのステップと変数は、一度に、いまの瞬間という中心の決定点に収斂します。」

AI(人工知能)の進歩が目覚ましい中で、やはり人間にしかできないことについて考えさせられます。人間の創造力によってなされることがそのうちの一つではと思います。

昨日たまたまのぞいた十字屋のワゴンで『おとなと子どものための即興音楽ゲーム』(リリ・フリーデマン著/音楽之友社)という本を見つけました。少し読んで著者にとても興味を持ちました(そして40%offで買いました!)。
訳者のまえがきに著者について次のようなことが書かれていました。

「私は音楽療法の勉強はしていません。療法的効果をねらってゲームを考案している訳ではないのです。ただ、私と一緒に一定の期間、こうしたゲームをやってきたおとなや子どもたちから、精神的ストレスが主な原因となる症状がやわらいできた、という話はよく聞かされました。私のいくつかのゲームによって、あるいは、参加者がお互いを認めながら同等のレベルでのパートナーシップの下で進めるというゲームの原則によって、ねらわずとも自己の内面の力が強められ、自身が変わっていくということは、私にも参加者の体験を見ていて確かなことです。」

確かに、先日のリズムやメロディ―や動きの即興は楽しいものでした。精神の解放という感じでしょうか! 音楽を感じてそれを自分の感覚で表現していく。その時に「即興」することで引きだされる可能性のようなものを感じました。普段から常に音楽で表現しているつもりでしたが、また「別の何かがある」という感じ。知らなかった自分?みたいな。
フリーデマンのゲームがどんなものかまだ見ていませんが、やり方はともかく、その結果もたらされたことが興味深いです。
もともとヴァイオリニストであるリリ・フリーデマンが即興演奏や指導を始めたきっかけについて書いてあります。

「いつだったか、ある音楽会議で音楽家たちが集まった時に、こんなことを言う人がいたのです。『こんなに何人もの音楽家が集まっているというのに、一緒に何も弾けやしない。ただ、楽譜が手元にないからって、こんなことでいいのかい?』この言葉は私に大きな衝撃を与えました。」

私はとりあえず自分が即興演奏をしたいというのではなく、創造という意味での即興の持つ可能性を探り、それをなるべく多くの人と共有したいと考えています。

 

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ストラヴィンスキーの言葉

2016年も間もなく終わり。大晦日はいつも、一応主婦業もしているのでいくら手を抜いても普段よりはやることがあり、今日もお正月のための買い物(最低限ですが)などで時間をとられました。
元旦くらいは多少はいつもと違わないとなあと毎年めんどくさいなと思いながら、いかに簡単にちょっとお正月らしい雰囲気を出せるかを考えながらスーパーをうろうろしています。

そして大晦日でも毎年ピアノを弾きます。弾きたいから弾くだけ。今年は今作ってる曲が最後の曲になりました。まだ出来上がってないけど。なんか大晦日はいつもしみじみした気持ちで弾きます。今年はこれで終わりだなと。

最後に『フリープレイ―人生と芸術におけるインプロヴィゼーション』(スティーブン・ナハマノヴィッチ著/フィルムアート社)の中の、「練習すること」より、ストラヴィンスキーの言葉を引用します。

「作品を紙に書く行為というものは、パン生地をこねるように、
私にとって、創造の喜びと切り離すことはできません。
私に関する限り、スピリチュアルな努力と
心理的身体的な努力を切り離すことはできません。
これらは、同じレベルで私に直面し、ヒエラルキーがないのです」

それでは、皆さま良いお年を!

 

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音と心理の関係

今読んでいる『絶対音感神話』(宮崎謙一著/DOJIN SENSHO)の中でとても気になることがあったので、引用します。

「音響としての音の物理的性質と、その音を聞いた時に私たちが知覚する音の心理的性質は対応関係にあるが、同じものではない。(中略)音の聞こえの感覚は、物理的な音が、耳から脳に至るまでの聴覚系で分析・処理されることによってつくり出される主観的経験である。」(中略)「ピッチやラウドネス、音色などは、音を聞く人が感じる感覚的性質(心理的性質)であるため、測定器を使って測るわけににはいかない。こうした音の聞こえの性質を知るには、実際に音を人に聞いてもらう聴覚実験を中心とした心理学的研究を行うしかない。」

要は、音は物理現象(振動)だけど、どう感じるかは聞く人の頭の中で起こること(主観)によるから、それぞれに違う。音をどう感じるかは心理学の領域になるということですね。これは少し、はっとしました。
ここでは、単体の音についての話だと思いますが、音楽ならなおさら、心理との関係は深いでしょう。

 

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「遊び」は大切

前回の記事で取り上げた『フリープレイ―人生と芸術におけるインプロヴィゼーション』(スティーブン・ナハマノヴィッチ著/フィルムアート社)はまだ読んでいる途中ですが、「遊びのこころ」という章があります。この章の最初に、カール・ユング(スイスの精神科医、心理学者)の言葉が紹介されています。

新しいものの創造は、知性によって達成されるものではない。内面の必要性から、直感的におこなわれる遊び(プレイ)によって達成される。この創造的思考は、その愛する対象との戯れである

ふんふん、確かに毎日音楽と戯れているよ、とそこは実感。
そして、さらにこの章から引用します。

遊ぶことは、なんであれ私たちを制限から解放し、私たちの行動の領域を広げます。私たちの遊びは反応の豊かさと適応の柔軟さを育みます。これは遊びの進化価値であり、遊びは私たちを柔軟にするのです。現実を再解釈し、新しさをもたらすことによって、私たちは硬直にならずに済みます。遊びは私たちの能力やアイデンティティを再編成し、いままでになりやり方でそれを使えるようにします

遊びは自由な探究精神であり、それ自体、純粋な喜びのための行為と存在です

「遊び」と聞いて思い浮かべることは人によって違うかもしれません。「遊びが大事」という考え方は、なんだか漠然としていてわかりにくいかもしれません。でも、私はとても納得できるし、自分が思っていた以上に「遊び」は大切なんだと認識を新たにしています。
「遊び」は決して子どもだけのものではなく、「自由な精神での創造の実践」を意味している思います。創造というのは芸術や何かを作るということだけではなく、自分の生き方そのものにあてはまるのだと思います。自分の生き方は自分で造っていく。
「遊び」の大切さが理解できれば、子育ても、自分の生き方に対しても少し見方が変わるかもしれませんね。
私は、よし、もっと自信を持って遊ぼう(笑)と勇気づけられています。

 

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ブレイクスルーは続くよどこまでも

『フリープレイ―人生と芸術におけるインプロヴィゼーション』(スティーブン・ナハマノヴィッチ著/フィルムアート社)という本をツイッターで知って、おもしろそうなので図書館で借りました。
まだ読み始めて最初の方ですが、何度も読み返す箇所(そこに書いてあることが気になって)の連続です。引用したい箇所満載ですが(笑)、自分が普段感じていることと重なることのひとつについて書こうと思います。

「創造的な生き方において見出すものは、際限のない仮のブレイクスルーの連続に過ぎないのです。つまりこの旅には終点はないのです。なぜならこれは、自分の魂に向かう旅なのですから。」

私は時々、ああ、ようやくこのことに気づいた、開眼した、スタート地点に立ったと思いますが、しばらくしてまた別のことに、ようやく気づいた、開眼した、スタート地点に立ったと思います。そういう風に思うことの連続という感じです。引用の部分を読んで、そうか仮のブレイクスルー(壁を突破したと思ったら、また別の壁があった💦?)を繰り返しているのかと思いました。でもそのたびに少しずつは前進していると思ってるんですが。
著者は、禅の言葉にとても魅かれるということです。それは禅がブレイクスルーの体験を深く見抜いているからということです。
読み進めるのが楽しみです。

さて、12日、13日、14日とそれぞれ別の場所であった親子のクリスマスイベントは終わりました。3日間ともいつもの児童館と保育所のスタッフの方たちと一緒にクリスマスの音楽を中心に、様々なプログラムを行いました。私のソロの演奏もそれぞれの場所で行い、毎回何人かの小さなお子さんとお母さんが近くまで来て聴いたりしてくれて、やりがいがありました。1、2歳の子でも、ピアノにとても興味を示す子がいます。はいはいして足元まで来る子がいたり(かわいい!)、鍵盤を触ろうとする子もいますが、何があっても弾き続けます(笑)。毎月児童館で、同じようなことを感じていますが、この3日間はなかなか密度が高かった。クリスマスシーズンは音楽へのニーズが高いですね。
毎日家でピアノに向かっている時は自分の魂に向かう旅(ちょっと大げさ?)を続け、そして外では現場で喜んでいただくことを大切にしたいと思っています。

 

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どうして涙が出る?

音楽を聴いて涙が出ることがあるのはなぜか? ずっと前からわからないと思っていることです。さっき、ふとそのことについてある考えが浮かびました。
小鳥のさえずりや、水のせせらぎなどを聞いて、きれいな音だなあと思っても涙までは出ません(私は)。もし出るとすれば、その音から何かを連想して、別の理由によってということになる気がします。
自然の音は、人間に聞いてもらおうという意思を持って音をだしているわけではなく、私たちは受動的に一方的にそれを受け止めて、美しいと感じる。
音楽は、人間の意志によって構成されたある秩序をもった音の集まり。そこに、伝えよう、感動してもらおうという意思が強くあればあるほど、人の心に訴えかけてくるのではないか?
音楽を作る・発信する側と受け取る側の双方向のコミュニケーションがあるからこそ、感情が生まれるのでは?
この考えは今までの中で、一番説得力(自分に対する)がある感じがします。
初めて第九を聴いた時、合唱のところでだいぶやばいと思うほど心揺さぶられた時、ベートーヴェンの強烈さを実感しました。すさまじい意志の持ち主だったんではないでしょうか?
そう言いつつ、例えば弦楽器の音は、コンサートが始まる前に舞台上で音を調整しているのを聞いて、うるうるしてしまうことがあり、それはなぜか全然わからない。まさに琴線に触れる音?
だいぶ前にブログで書いた、ストラヴィンスキーの『音楽の詩学』(未來社)からの引用のことを思い出しました。記事はこちら「自然と芸術」。

そうした受動的な快感の彼方に、私たちは、秩序づけ、活気づけ、創造する精神の操作に私たちを積極的に関与させる音楽を発見しに赴くのです。
というのも、あらゆる創造の根源には、地上の糧に対する渇望ではない渇望が見出せるからです。そのようなわけで、自然のたまものに、策略―それこそが、芸術(アート)(技術)の一般的な意義です―の恩恵が加わります。

「地上の糧に対する渇望ではない渇望」というのが、人間の意志(作りたい、伝えたい)なんだろうと思います。
以上、今晩の思いつきについて書きました✌。

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聴こえない音楽

先月たまたまツイッターで『リッスン』という映画のことを知りました。公式サイトはこちら
サイトには『「聾者(ろう者)の音楽」を視覚的に表現したアート・ドキュメンタリー、無音の58分間』という見出しがあります。とても気になって予告編を見て、衝撃を受けました。
それまで、音楽というのは耳で聴くもの、音を使って表現するものだと思っていたからです。でも、確かに彼らは全身を使って、音を使わず、音楽を表現していると感じました。
ぜひ観てみたいと思いましたが、京都での上映は元立誠小学校で、すでに終わっていました。
そして最近、『138億年の音楽史』(浦久俊彦著/講談社現代新書)という本を読んでいて、「これは!」と思う部分がありました。

古代ギリシャと聴こえない音楽
「古代ギリシャ時代の音楽観がわかる恰好の資料がある。五~六世紀ローマの哲学者ボエティウスが著した『音楽論』である。ここに、古代ギリシャの音楽が三種の分類で示されている。「宇宙の音楽」、「人体の音楽」、「道具の音楽」である。
ところで、この三種の分類は、ぼくたちの常識的な音楽とはまったくかけ離れている。このなかでいまでも音楽として通用するのは、第三の「道具の音楽」だけだ。この「道具」には、楽器だけでなく人の声も含まれるというから、何か「音の出るモノ」を使う音楽は、すべて道具の音楽となる。ほかのふたつ、宇宙の音楽と人体の音楽は、メロディーがあって演奏できるような音楽ではない。つまり聴こえる音楽ではないのだ。
だが、ギリシャ人たちにとっては、どちらも音楽であることに変わりはなかった。」

そして、ボエティウスは「人体」と「宇宙」の音楽について、どちらも「結合」「調和」など、何かと何かを結びつけること(ハルモニア=ハーモニー)であると強調しているということ。
ハーモニーという英語は、日本でも普通に使われていて、音楽をイメージする言葉だと思いますが、音楽に限らず「調和」を意味する言葉。音楽というのは聴こえても聴こえなくても「調和」のためにあるのだと思うと、改めて感動してしまいます。
これを読んで、「リッスン」で彼らが表現しているのは、やはり「音楽」なのだなと思いました。

 

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