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即興演奏についてなど

「すごいジャズには理由(ワケ)がある」(岡田暁生・フィリップ・ストレンジ著/アルテスパブリッシング)の一番最初にビル・エヴァンスの言葉が紹介されています。

ジャズとは一分の曲を一分で作曲することである。

なるほど。

改めて考えてみればすごいことですね。でも、同時にこうも思います。もしビル・エヴァンスが1分の曲を1時間かけて作曲したら?本人的にはどっちがいい曲になるだろう。もしかしたら、即興の方がいい曲かもしれない。完成度が高くて、どこも触る必要がなくて。でも、1時間あれば、ここをこうしてみようかなとか、また試してみることができる。あれこれやって、やっぱり最初のがいいとか。ショパンは即興が得意だったらしいけど、それを思い出して記譜するのが大変だったとジョルジュ・サンドが言っていたと確かどこかで読みました。

ジャズに限らず色々なピアニストの即興演奏の動画を何度も見ていますが、いつも感じるのが、聴衆が今から目の前でどんな曲を弾いてくれるんだろうという期待に満ちた様子をしていることです。そして演奏中もとても興味深げに耳を傾けている。即興演奏の醍醐味は、目の前でが曲が作られているということではないかと思っています。

私の場合、どう考えても時間をかけて作った方がいいに決まっているのですが、それでも少しでも素敵な即興演奏ができればいいなと思っています。今の所、こっそりBGMの合間にちょろちょろっと弾いたりという程度です。即興演奏しますと言って弾ける日が来るかはわかりません(笑)。

昨年末からジャズピアノの先生(でもジャズじゃない作曲もされている)の所に行きだしたのは、頭の中にある音楽をもっとうまく引き出せないかなという抽象的な願望があったというものあります。先生としてもちょっとどうすべきかわかりにくかったと思います。とりあえずジャズのレッスンですからスタンダードなどを弾いて行く中で、自分の目標に近づくために何をしたらいいかということが少しずつ見えてきて(それはジャズを弾くことでなくて)、自分に課す課題が増え、しばらくはそれらに取り組んでいきたいと思い、レッスンはストップすることにしました。回数は少なかったのですが、先生との会話やレッスンの中で、色々と気づくことができたので感謝しています。

この本の帯にジャズピアニストの南博さんの言葉が紹介されていて、その中に

ジャズ、クラシック、ともに語源は曖昧です。分け隔ての分岐点は、あなたの感性の中にあるのです。

と書かれています。

普通ジャズが弾きたいと言って習いに行くと、ジャズのルールを教わります。当たり前だと思いますが、私の中ではすでに結構色々な音楽が混ざっている、曲も作ってるから、やはりあまりそのルールにとらわれても仕方なくて、ただここ何ヶ月かで、よりジャズとクラシックの両方(さらに他にも?)を行き来できるような感じというのが、なんとなくわかるような気がしています。多分。

「憂鬱と官能を教えた学校」(菊地 成孔,・大谷 能生著/河出書房新社)もジャズやクラシック、民族音楽と横断していて面白い。音楽を俯瞰してみると、一つのジャンルの中にいたらわからないことが見えてくると思います。

たくさん見つかった課題に取り組んで、さて、思うようにいくかそれはわかりませんが、そうやって続けていけばまた何か面白いことがあるでしょう。

 

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記号化について

大晦日に、『憂鬱と官能を教えた学校』【バークリー・メソッド】によって俯瞰される20世紀商業音楽史(菊池成孔+大谷能生/河出書房新書)ーについて少し書きましたが、まだ下巻を読んでいる途中です(なかなかすすまないけど下巻の方がより面白い感じが)。

けっこうページを割いて、コードとモードの話があるのですが、その中に出てくる話で「これは」というのがあります。そう言った箇所が色々あるんですが、その中でも気になった部分です。

記号化について

記号化作業を中心にして現象を斬っていくとさ、すべての現象を記号化できるっていう風な妄想が絶対わいてくるのね。記号化が役に立つのはさ、富士山でいうと七合目ぐらいまで。で、そっから先は遠慮して踏み込まない。っていう風にした方が、どっちかって言うとわれわれの生活上の感覚に合致しているわけなんだけど、えー、七合目まで登ってひき返す山男はいない(笑)。そこに山があるから絶対登るわけですよ。で、富士山なら山頂があるけれど、記号化には山頂がありません。(中略)

記号化を100%達成しよとすると、必ずこういうところに入り込むんですよ。つまり、全部を一覧表にして序列化できるという発想、何かの数的な構造によって事象をすべて捉えようという発想が人間には時折生まれますが、すごくきわめて理論的な当たり前なことを言いますと、数的な秩序で全ての物事を記号化できる唯一の学問は、数学だけです。

本を読んで面白いと思ったり、共感したりするのは、普段から考えていることと接点を感じた時で、この「記号化について」には結構反応しました(笑)。

著者の伝えたかったこととずれているかもしれませんが、ここを読んで思ったのが、(音楽を)記号化できない部分、この部分がけっこう肝というか、本当に難しくて、謎で、秘密な部分じゃないかな? 勉強したってわからない、言語化できない、つかみどころのない。例えば長年愛されている音楽がなぜそうなのか、ある音楽を聴くといつでも心が動くのはなぜか、いくらアナライズしても言葉では理由を説明できないんじゃないでしょうかね。

じゃあ、そこには何が隠されているんでしょう? パッションだったり、愛だったり、感動だったり?? 何でしょう?(笑)

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もともとリズムはなかった?

あと1時間ほどで2018年も終わろうとしていますが、今年最後のブログを書いてみようと思います。

先日、いるか喫茶バーである曲を演奏していた時のことです。その曲は、だいぶ前に作った曲ですが、途中で拍子が変わったり、所々にリタルダンドがあったり、拍子の変わった所ではテンポも変わったりという曲です。以前から自分の曲ながらテンポの調整が難しいなと思っていました。ところが、この間その曲を弾きながら、別に拍とか、テンポとかにとらわれず、小節線がないような感じで弾いてもいいんじゃないか、とふと思いました。誰かと合わせるのではなく、一人で弾いているのだし、自分の曲だし。

今、『憂鬱と官能を教えた学校』【バークリー・メソッド】によって俯瞰される20世紀商業音楽史(菊池成孔+大谷能生/河出書房新書)という本を読んでいて、この本には面白いことがたくさん書いてあるのですが、ちょうど拍子とかリズムの話が出てきています。その中に、カール・シュトゥンプの『音楽のはじめ』からの引用があります。

「本当に、一声的な言葉では、多声音楽や和声音楽におけるよりも、リズムの展開はずっと自由です」

「大勢が一緒に音楽をやって全く異なる旋律を声々に歌うときは、旋律が或る定まった、保持し易いリズムにうまく結びついていないと、混沌たる状態に陥ってしまうほかなくなるからです」

「それ故、多声音楽は容易に計量音楽に移り」

計量音楽とは近代の拍子、四分の四拍子とか四分の三拍子を指すということ。

また、カール・ウェルナーの『音楽史』からの文章も紹介されています。

「ゴシックやルネッサンスの芸術音楽には、今日のような拍子はまったく存在せず、音楽の時間的な経過はタクトゥスによって規則づけられていたにすぎない」

タクトゥスとはタクト(指揮棒)のことです。

ということで、いわゆる西洋クラシック音楽にはもともと拍子とかリズムはなかったのですね。音楽の基本要素はリズム、メロディ、ハーモニーと教わると思いますが、この本によりますと、近代的な拍子の概念が確立したのは、大バッハの時代、後期バロック期ということです。

たまたま、拍子やテンポにとらわれず弾いてみたいと思った時に、これを読んだので面白いなと思ったのです。

先日、ジャスピアノの先生にも、小節線がないような自由な弾き方をしたい曲がある反面、グルーヴを感じながら弾きたい曲もある、両方好きという話をしました。

グルーヴについては、この本の中に、

バッハの曲にはドラムなんて入ってないけど、むちゃくちゃグルーヴです。

というような話も出てきて、これもまた面白い。クラシックでグルーヴ?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、私はずっと前から、バッハや、モーツァルト・ハイドンのアルベルティ・バスを弾いててグルーヴを感じることがあったんで、やっぱりな、と思いました。

グルーヴの話はまた書くかもしれません。

それでは、皆さま良いお年をお迎えください。

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協和と不協和の境は?

『楽典ー音楽家を志す人のための』(菊池有恒著/音楽之友社)の中の、第3章 「音楽の原理」の中に「協和音程と不協和音程」というのがあります。

「快く調和して響く状態を協和といい、協和しない状態を不協和というが、音程の協和・不協和に対する判断には、主観的・感覚的なものと、客観的・理論的なものがあり、両者の間には食い違いがある。」

わかりやすい例でいえば、7の和音は客観的・理論的には不協和音程ですが、7の和音を聴いて不協和と感じる人はあまりいないのではという話ですね。以前、高齢になってからピアノを始められた生徒さんが7の音の入った和音を弾いて、不協和音のようとおっしゃったことがありましたが。

普段何気なく音楽を聴いてても7の和音どころか、不協和に分類される和音がたくさん含まれていますね。それでも曲全体がいいムードであれば、協和してるとかしてないとかあまり意識しないと思います。

以前、一度会った、あるジャズ系のピアニストが私の編曲したきらきら星の出だしを聞いて、自分だったらこうすると同じ出だしのところを弾いてくれました。

ド ド ソ ソ ラ ラ ソー ファ ファ ミ ミ レ レ ドー

の全部の音符にそれぞれ違った、とても凝ったコードの押さえ方で。

私の耳には、きらきら星のメロディーは聞こえませんでした。メロディーはコードよって縦に刻まれて、コード一つ一つのどこかにはめ込まれているのだろうけど、旋律としては感じられない。なので、不協和音の連続のように聞こえてしまった(つまり不協和ということをとても意識した)。その人はその方がいいと言われました。私は「うーん」くらいは言ったかな? でも感じ方は人それぞれです。私にとって音楽は歌=旋律が優先されるので、やはり私の曲はそうならないなと思いました。

オリヴィエ・アランの『和声の歴史』(白水社)はとても面白い本で、その中に

「音楽とは垂直の要素と水平の要素がたえずたたかっている場所なのだ」

とありますが、縦とは和音、横は旋律で、音楽を縦優先で考えるか横優先で考えるか? ジャズの場合は縦優先かな??

ペダルの響きのどこまでが濁ってなくて、どこからが濁ってるのかといのも、はっきりした線があるのではなくて、いくらか感じ方の幅があるんだと思います。これも協和、不協和の主観的・感覚的な判断によるものと思いますが、ピアノ指導では曲にもよりますが、少しでも濁らないように言われることが多い印象です。私は自分の曲の場合、けっこうここは悩みます。自分の表現だから当然自分で決めるんですが、どこまで音を混ぜるか混ぜないか、まさに感覚で決めるので。もちろん、「理論的」不協和音はたっくさんありますから。録音の時に撮ったものを聴いて一番気になるのがこれで、録音に時間がかかる最大の理由です。弾いてる時に聞こえてるものと撮ったものは聞こえ方が違うから。

協和、不協和に限らず、音楽の感じ方は、それまでどんな音楽を聴いたり弾いたりしたかの音楽経験や、好みなどによって大きく変わるものだということを、時々思います。

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行動すること、経験すること

『フリープレイ―人生と芸術におけるインプロヴィゼーション』(スティーヴン・ナハマノヴィッチ著・若尾裕訳/フィルムアート社)の中の「練習すること」という節の中に、次のような記述があります。

 楽器やスポーツ、あるいはそれ以外の芸術を学ぶなら、誰でも練習、実験、トレーニングが必要です。私たちは行動によってのみ、学びます。何かをやることを想像したり企画したり計画することと、実際におこなうことの間には、非常に大きな違いがあります。空想の恋愛と、複雑さを備えた生身の人間と出会うことは違います。(中略)ひとは、すばらしい創造的な気質や輝くようなインスピレーションや高貴な感覚を持っているかもしれませんが、創作が実際におこなわなければ、創造性はないのと同じなのです。

私の場合、身体を使って、そして考えながらピアノを弾き、そこからさまざまなことを感じ取ったり、創作したりということをしている中で、心と体は切り離せないことはいつも感じています。感覚(鍵盤に触れるという感触と耳から入ってくる音をとらえること)と、思考とが行き来している感じ?

ただ見るという行為でも、絵なら実物を、パフォーマンスならライブを見た方が感覚に訴えてくる部分が大きいと感じます。自然や建築も、そこに身を置いてみて初めてわかることがある。

どれほど便利になっても、知識や情報と、実際の経験のギャップは埋まることがないのだろうと思います。

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『ミシェル・ルグラン自伝』から少し

前回の記事からずい分日があきましたが、その後、『ミシェル・ルグラン自伝』([著]ミシェル・ルグラン/[共著]ステファン・ルルージュ/アルテスパブリッシング)を図書館で借りました。ところが、なかなか読む時間がないまま日が過ぎ、もうすぐ返却日がせまってきているので、また借りなおすかもしれませんが、とりあえず前回引用した部分

「もっとも重要なのは、永遠の初心者でいられる能力である」

のあたりだけでも読んでおこうと探しました。多分最後の方じゃないかなと思ってページをめくっていると、やはり最後の締めくくりの部分にありました。

「私の創作への原動力となるのは、アカデミーの燕尾服ではなく、好奇心あふれた精神と即興性、そして音楽自体の豊かさと多様性だ。

そしてもっとも重要なのは、永遠に初心者のままでいられる能力である。

人生のもっとも美しい瞬間のひとつは、なにかを発見する瞬間であり、なにかを学ぶ瞬間だ。」

改めて、共感できます。

また、もう少しページをさかのぼると、面白いなと思う部分があったので、ついでに引用させてもらいます。ミシェル・ルグランが20歳の時、パリに来たイーゴリー・ストラヴィンスキーと話す機会があり、勇気をふりしぼって質問をしたということです。

「「先生、ピエール・ブーレーズが《春の祭典》を分析した本をお読みになりましたか?」

彼は微笑んで、軽いロシア訛りのあるフランス語で答えてくれた。

「読んではいない、ざっと目を通しただけだよ。彼は私の作曲を自動車の構造のように完全に分解して、どのフレーズが意図的に、どのフレーズを逆さにした対位法になっているかを説明している。わずかな転調、微細なテンポの変化にも、私が自分では考えたこともなかったような秘密の意図を見つけ出してる」

やや間を置いて、彼は付け加えた。

「これは覚えておくといい。本物の創作者は、自分が何をしているか、けっして自分では分からないものだよ」

なかなか面白いエピソードだと思います。そして、それを聞いたミシェル・ルグランは、

「この言葉は私に啓示のような効果をもたらし、私の人生を照らしていくことになる。このときから、私は十六分音符ひとつひとつの存在理由を気にする必要はないと悟った。疑問や孤独にかかわらず、自分の直感を信じて思い描いた通りの道を進むべきだ。」

全く次元の違う人たちの話ですが、私も勇気づけられました!!

自分の道を行くしかないですが、やはり時々不安にもなりますからね。

この記事を書き終えてないまま、本を返しに行きました。今回はなにも予約してないから、何か新しいのあるかな?と音楽関係の本棚を眺めていると、これまで読んだことのある本のタイトルが目に入ります。それぞれのタイトルを見ると、読んだ当時の自分の心境や、何を求めていたのかなどが思い出されます。そして、今はそのことについては、もう自分なりに納得できたからもういいかなという気持になっている事柄もあって、時間の流れを感じます。他の図書館から取り寄せてもらって読んだ本もたくさんあるから、ずいぶんと図書館で勉強させてもらったなと思います。そんな中から、この本は保存版だと思ったら買うのですが、買うとなぜかあまり読まないのですね。なので、買うのに慎重になってしまう。(^_^;)

他の本棚も見て回って、今日は詩集を借りてきました。何かまた新しい発見があるかなと楽しみです。

 

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永遠の初心者で……

「もっとも重要なのは、永遠の初心者でいられる能力である」

これは、以前ツイッターでたまたま見かけた本の帯に書いてあった言葉です。その本は『ミシェル・ルグラン自伝 ビトゥイーン・イエスタデイ・アンド・トゥモロウ』(アルテスパブリッシング)で、ミシェル・ルグランさんは検索したらフランスの作曲家、ピアニスト、映画監督、俳優ということです(本の紹介にはこのように→フランス映画音楽界の巨匠が名画・名盤のドラマと80年の人生を初めて赤裸々に綴った珠玉の回想録!)。この人の名前は知らなかったけど、『シェルブールの雨傘』『愛と哀しみのボレロ』などなど映画音楽を作られてたということで、聴けば知ってるというのはあると思います。

ミシェル・ルグランさんのことも知らないし、この本もまだ読んでませんが(今図書館で検索したらあったので予約しました!)、この帯の言葉はとても響きました。

何年経験を重ねても、わからないことはたくさんあり、ずっと発見はある。結局、音楽というものを通して、自分の中の未知の世界を探究しているのだから。日々ピアノの前に座るたび、今日も何かあるという期待があります。そういう気持を持ち続けていければ幸せだなと思います。

以前、あるピアニストの方に聞いた話です。ドイツに留学されていた時に、先生がいつもレッスンが終わった時に、「ありがとう」と言ったそうです。つまり、今日、私はあなたにピアノのレッスンをしたけれど、私もあなたから教わりましたと。人に何かを教えている時に、自分にも気づきがあるということに感謝するという姿勢に、そのピアニストは共感されていました。私もすばらしいなと思いました。

さて、本の内容はまだ知りませんが、帯の言葉から色々と思ったのでした。

 

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ソノリティのある音とは?

「ソノリティ」という言葉をご存知でしょうか?

『目指せ!耳の達人~クラシック音楽7つの”聴点”~』(宇野功芳/山之内正著/音楽之友社)の中の、「Ⅴ 録音はどこまで音楽を伝えるか」という章の中にその言葉がでてきます。一部引用します。

泣けるpp

(前略)

宇野 ぼくもppの効果は実感していますが、本当のppというのはホール全体を満たしていくものだと思っています。それは演奏者がffを出すのと同じくらいの気迫を持って出す必要がある。ただ弱くしただけではあの効果は出ないんです。ppがきちんと表現できる演奏家というのは、優れた演奏家だとぼくは思います。

山之内 ただ音を弱くすると音色的に破綻しますから、そうならないよう響きを保ちながら、でも息を飲むようなppを出すということですね。

宇野 最近のピアニストではアリス=紗良・オットのppが凄かったなあ。《エリーゼのために》を全部弱音で弾いたのですが、これは美しかった。聴こえるか聴こえないかくらいの音量なのですが、ソノリティがあるのでぐっと来るんです。ところが、CDだとただ弱いだけに聴こえてしまう。内田光子がアンコールで弾くモーツァルトの《ソナチネ》第2楽章も全部弱音で、あれにもだいぶ泣かされました。

山之内 でも、その場で聴かないと、素晴らしさが伝わらない。

宇野 マイクに入らない演奏というのもあると思う、ぼくは。

山之内 弱音もそのひとつですね。

宇野 でも、だからこそ良いんですよ。

ソノリティは、この本によると「声と楽器の響きや聴こえのこと」で、優れたソノリティとは、明瞭で聴き取りやすい音のことだそうです。

朝比奈隆さんがリハーサルで「pでもソノリティがない音はダメだ」と言っていたという話も紹介されています。

実は、以前この本は一度読んでいて、ソノリティという言葉は忘れていましたが、小さくて美しい音の話が印象に残っていました。

クラシックでは小さい音から大きい音まで、とても幅が広い表現がありますが、自分のオリジナルではあまり大きな音で弾くことは多分ないので、特に小さな音を丁寧に表現していけたらと思っています。

 

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テクニックを学ぶ目的とは?

最近、ほぼざざっと読み終えた本、『ピアノ・テクニックの科学ープロフェッサー・ヤンケのピアノメソード』(アンスガー・ヤンケ+晴美・ヤンケ著/アルテスバブリッシング)はなかなかすごい本でした。ピアニストで教育者であったアンスガー・ヤンケさんは、ピアノテクニックの学習において一般的に行われている練習方法(ハノンやツェルニーなど)もバサバサと切り捨て(さんざんやりましたよ(^_^;))、何がよりよい方法なのか、深く追求しています。「楽器、及び身体(腕、手)の構造が演奏動作の条件を定める」(引用)ということを前提として。

「はじめに」のところで、テクニックを学ぶ真の目的を述べたアンスガー・ヤンケさんの言葉が紹介されています。

テクニックがすべてではない。この言葉はもちろん正しい。表現したいと思うものを何も持たない人は、最良のテクニックをもっても伝えることはできない。しかしながら同時にこうも言える。演奏者が感じ、イメージした響きのニュアンスが、目的に適った動きとなって楽器演奏に実現される瞬間では、テクニックがすべてである。「動きに」に変換させないのであれば感性も思考も響きとなっては表れず、演奏はごく個人的な領域に留まって、聴衆に本物の感動を呼びおこすことはない。

ああ本当に、表現したいことをうまく伝えるためのテクニックはまだまだ磨いていきたい!と思っています。自分の曲だからなおさら表現したい気持ちは持っているけれど、私のイメージではもっといい感じ(笑)。

ちょうど今の私にとって役に立ちそうなことを発見したので、早速練習に取り入れています。けっこうわくわくしながら。

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美しい音をめざして

何年か前、『アルド・チッコリーニ わが人生』(パスカル・ル・コール著/全音楽譜出版社)を読んで、とても印象に残っている箇所があります。

アルド・チッコリーニが5歳で初めてピアノを習った時の先生が言った言葉です。

「アルド、綺麗な音を出して頂戴! 私に美しい音を下さい! とても表現力に富んだ麗しい音の調べが欲しいの」

ちょっとショックなくらい、感心しました。レッスンを始めた時から、自分の出している音を意識させるとは、とてもすばらしいことだと思いました。

私の子どもの頃の経験ではあまりそのようなことはなく、ちゃんと弾けるまでなかなか次に進めないという、どちらかといえば技術的な面について厳しかった記憶があります。ある程度弾けるようになってから、表情をつけていくよう指導されていたような。記憶はあいまいですが。

私が美しい音に目覚めたのは、きれいな音の生演奏で感動して、そういう音で弾きたい!と思ってからですね。確か。

前回書いた『ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと』は、ざっと読み終えましたが、ピアノを弾くのによりよい腕のポジションや、背中などへの意識とか、いくつかこれはいつも意識しておこうという点を再確認。

この本には、ピアノのマッビングについても書かれていますが、身体のこと、ピアノのことを知り、そして耳を澄ませて音を「聴く」ことが、より良い音を出すために大切なことでしょう。

これからも、美しい音をめざして修行を続けます!

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