クラシック」カテゴリーアーカイブ

日本テレマン協会の「福袋コンサート」

最近、作曲とImprovisation(即興)の関係についてあれこれ考えているさなかですが、今日はパブロ・エスカンデさんからお招きいただいたコンサートに行ってクラシック音楽を楽しんできました。日本テレマン協会のマンスリーコンサート(室内楽)ですが、今日のタイトルは「New Year’s Gift 福袋コンサート」でした。さすがパブロさんらしく、テレマンからクライスラーまで変化に富んだ楽しいプログラムでした。
ゲストのソプラノが歌われた、ヨハン・シュトラウス二世の「春の声」の演奏はワルツのリズムにとてもわくわくしたし、クライスラーの「プレリュードとアレグロ」は大好きな曲で、生で聴けてやったーという感じでした。素晴らしい演奏でした。
これらの曲は花があるというか、気持ちが高揚しますね。静かな曲が心を安らかにするのに対して対照的で、どちらも音楽の素晴らしいところだと思います。
パブロさんは前半はチェンバロ、後半はピアノ伴奏でしたが、本当に何でも弾かれるしいつもすごいなと思います。
そうやって聴きながら、いつも自分の音楽についても考えています。いい刺激となります。

歌劇『ヘンゼルとグレーテル』

今日は大阪府島本町のケリヤホールで行われた歌劇『ヘンゼルとグレーテル』を観に行きました。このイベントは町制75周年記念事業ということですが、この歌劇の音楽監督と指揮のパブロ・エスカンデさんからお知らせいただきました。歌劇は英語ではオペラですが、ライプで観るのは初めてでした。「フィガロの結婚」(モーツァルト)、「セビリアの理髪師」(ロッシーニ)、「ルサルカ」(ドヴォルザーク)、「カプリッチョ」(リヒャルト・シュトラウス)などの海外公演をDVDで観たことはありますが、規模は小さくてもやはりライブはいいなと思いました。
伴奏はピアノだけで、パブロさんと奥さんの三橋桜子さんの連弾でしたが、最初から最後まで途中20分の休憩以外はずっと弾きっぱなしで、大変だろうなと思いました。
後でパブロさんに教えてもらったのですが、作曲は エンゲルベルト・フンパーディンクでクリスマス向けの作品らしいです。
最後は子供たちの合唱ですが、うるうるきました。子どもたちの歌声ってなぜか心揺さぶられます。私にとって最大の謎である「音楽はなぜ涙をさそうのか?」を今日もまたまた感じさせられました。

サロンでイタリアンバロック

昨日の夜は、淀屋橋の大阪倶楽部で行われた、日本テレマン協会のサロンコンサートへ行ってきました。今回のタイトルは『リコーダーとバスで辿る…イタリア・バロックの系譜』というもので、このコンサートの音楽アドバイザーのパブロ・エスカンデさんからお知らせいただいていました。パブロさんは今回はずっとチェンバロでした。
出発する直前に夫の仕事の電話が長引いて、7時の開演に10分ほど遅れてしまいました。到着するとサロンの扉2か所が開け放たれホールの外のロビーに椅子が並べられていて、中に入りきれないお客さんがそこに座っていました。私たちは最後尾に椅子を用意していただいて座りました。大きなコンサートホールなどではあり得ないことですよね(笑)。でもその柔軟な感じがいいです。音がやや聞こえにくかったですが、まわりが広々していて雰囲気も良く十分快適でした。そして出演者は私たちの座っているすぐ近くで待機していて、パブロさんとも前半が終わった後とコンサート終了後すぐに話すことができました。
前回のテレマン協会のコンサートは、トルコがテーマでしたが、パブロさんの選曲や編曲はオリジナリティが感じられてとても楽しめます。昨日はヴィバルディ、コレッリ、スカルラッティの曲でしたが、リコーダーとバスが主役でほとんど知らない曲ばかりでした。
ディレクターの延原武春さんはトークがとてもおもしろく演奏者を巻き込んで笑いを誘うのですが、実はとても大事なことではと最近思います。トークが楽しいと場が和みます。演奏者も聴衆もとてもリラックスしたムードの中で音楽を楽しめる。
昨日の朝のコンサートで私もマイクを用意していただいたのですが、もっとうまくしゃべれるようになりたいなと思っています。普段知らない人でも平気で話しかけられるくらいですが、多くの人の前でしゃべる時は誰に向ってしゃべっているのかわからない妙な感覚になります。でも曲や作曲家のエピソードなど紹介して知らない曲でも興味をもっていただき、なごやかな雰囲気の中で聴いていただきたいというのが私の思いです。そのためにはトークの技術も磨かねば!(笑)

彫刻家のアトリエ

今日は修学院のアトリエ松田で行われたピティナのステップでショパンとモーツァルトを弾いてきました。このピアノのイベントは全国各地で行われていて京都でも2~3カ月に1度ほどいくつかの会場で行われます。
ステップはこの会場だけ参加しています。ここは松田先生の、彫刻家であったおじいさんがアトリエとして作られた部屋ということですが、やはり何か特別な感じのする場所です。周囲は壁に囲まれていますが、高い所に大きな窓があって自然光がたくさん入ってくるようになっています。私はホールよりもこういう雰囲気のある場所が好きです。
初めてここで弾いたのは4年前ですが、どういう場所かあまり考えずショパンの幻想即興曲を準備していきました。アトリエに入って、あれ、これは選曲を誤ったなと思いました。もちろん、皆さん色々な曲を弾かれますが、私はここではもっとここの空間にあったしっとりした曲を弾きたいなと思い、次の年からはずいぶん選曲にはこだわっています(悩みます)。
建築空間は何かを行う場所ですが、ここは、そこに合う音楽で満たしたいという思わせてくれる所です。元々彫刻を行うために作られた場所は、別の芸術的行為を行う際にも何か感じさせてくれるのかもしれません。
弾き終わった後、ある女性が、きれいな音で感動しました、と言ってくださいました。これまでも時々そうやって直接感想を言ってくださる方がいらっしゃいましたが、その一言でまたがんばろうと思えます。それらの言葉は私の宝物です。
明日からはクリスマスのイベントに向けて、編曲にもとりかからないと。設計の方のあれこれもあるし、やること色々です(-_-;)。

ピアノで歌う

しばらくショパンは弾いてなかったのですが、最近ショパン気分です。ノクターンやプレリュードなどの中から何曲か弾いていますが、以前よりいっそう曲の中の歌を感じて、弾いたことのある曲をもっと「歌いたい」気持ちで弾いています。
モーツァルトもショパンも「歌う」ことが大切であると言っていた作曲家です。ショパンはモーツァルトのように自分が書いた文章をあまり残していないようで、『弟子から見たショパン』(ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル著・米谷治郎/中島弘二訳/音楽之友社)はとても貴重な資料だと思いますが、この本の中に、ピアノを使って歌うことをたびたびレッスンで言われたという弟子たちの証言があります。
少し引用します。

「ショパンが(わたしの勉強について)尋ねましたので、わたしは歌を聴くのが何より役に立ちました、と答えました:「それは結構なことです。そもそも音楽は歌であるべきなのです」と、彼は教えてくれました。ショパンの指にかかると、ピアノはほんとうに様々な歌を歌うのでした。」(匿名希望のスコットランド女性/ハデン)

「ショパンはレッスンをしているときも、「指を使って歌うのですよ!」と、いつも言っていました。」(グレッチ/クレヴィンク)

「ショパンが弾くと、フレーズはみな歌のように響きました。澄み切った音色に耳を傾けていると、音符が音節で小節が言葉となって、個々のフレーズが思想を表現しているように思われてくるのです。彼の演奏は、大言壮語のまったくない、簡潔で気品のある朗読のようなものでした。(ミクリ/コチャルスキ)

「(ショパンの曲を演奏するには)今弾いた音を、最後の瞬間にまで響かせて次の音につなげることです。とにかく絶対に誇張してはいけません。」(クールティ/アゲタン)

ショパンはモーツァルトを「神」と言っていたと、この本か別の本かどこかで見かけました(この本だけでも分厚くて一度見失ったらどこに書いてあったっけ?と探すのも一苦労)。
私はこの二人の作曲家に、誇張を嫌うという点や歌うことを大切にしている点など共通性を感じています。
ピアノを使って「歌うこと」は本当に楽しいことです。あとはそれが人に伝わるよう、よりよい歌をめざし続けます。

 

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再び『モーツァルトの手紙』を読む

だいぶ前に途中まで読んでそのままになっていた『モーツァルトの手紙』(吉田秀和編訳/講談社学術文庫)をまた最初から読み返しています。
心の「師」(弟子にすると言われてないので(笑))の言葉だと思うと、この本は本当にエキサイティングです。読んでいるとまるでモーツァルトが生き生きとそこに存在しているような気がします。本人はまさか、後世自分の手紙が本になって多くの人に読まれるとは思ってなかったでしょうね。思ったこと、感じたことがたくさん詰まっています。そして、随所に音楽に対する思いや考えも書かれていて、本当に興味深い。
前回読んだ時、気になっていた箇所がようやく出てきました。モーツァルト21歳の11月、マンハイムで書いた手紙の一部を引用します。
「今日六時に大演奏会がありました。フレンツルがヴァイオリンで協奏曲をひくのをききましたが、ぼくはとても気に入りました。パパもご存知のように、ぼくはむずかしい技巧がそんなに好きじゃありません。ところが彼はむずかしいものをひいているが、人にはそのむずかしさがわからない。自分でもすぐまねできるような気がする。これこそ本当なのです。」
モーツァルトの価値観が感じられる文章で、印象に残っていたのです。モーツァルトに関する他の本からも、モーツァルトは華美なものや誇張やこれ見よがしなものが好きでないということを感じています。それはもちろん、モーツァルトの音楽からも感じられることで、そういう所がとても好きなんです。
作家ロマン・ロランも讃美したというモーツァルトの手紙。モーツァルトを知る、貴重な資料です。引き続き読み進めます。

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『モーツァルト頌』

月曜はピアニストの内藤晃さんが久々に関西に来られたので、レッスンを受けました。昨年内藤晃さんのモーツァルトを聴いてからは、繊細で美しいモーツァルトを弾きたいという思いがより強くなっています。
今、『モーツァルト頌』(吉田秀和・高橋英郎編/白水社)という本を読んでいますが、タイトルの「頌」というのはあまり見かけない言葉だなと思って調べると、ほめたたえるという意味の言葉で「大地讃頌」の「頌」なんですね。

これが結構すごい本で、著名な作曲家、詩人、作家、哲学者、画家、音楽評論家など総勢210人の人がモーツァルトについて述べているのです。それぞれが言葉をつくしてモーツァルトのすごさを語っているのですが、感動的な文章がたくさんあって(愛あふれて涙誘うものも)、どれか引用しようと思うのですが、絞れないという感じです。私がなぜモーツァルトに惹かれるのかという理由がさらに補強されていく感じです。500ページ以上あって、じっくり全部は読めていませんが(でもかなり読みました!)、とりあえず「そうそう」と強くうなづけたもののうちのひとつを引用したいと思います。

(前半省略)
「私はモーツァルトに寄せる記念文を書き記したいと思う。―ところでこのすばらしい巨匠がそのようなものを必要とするだろうか?―彼の作品を学ぶことのできる人、あるいはそれを聴く機会だけでももてる人のすべてにとっては、たしかにそれは不要であろう。しかし、この巨匠をその全き深みにおいてとらえる人、彼の神的なハーモニーを聴くことによって、みずからの高揚と幸福を感じる人―こうした人は同時に、すでに昇天した貴重な友のことのように、彼について語り彼について語られるのを聞く欲求を感じているのではないだろうか?」(ヨハン・ペーター・リューザー/ドイツの文人、画家、音楽家)

はい、感じています(笑)。私がこの本を感動しながら読んでいるのがまさにその証。
もうひとつ短いものを。

「死の床のショパンが、友人たちに言った、「みんなで何か演奏をしてくれないか。君たちはその間私のことを考え、私は君たちの演奏をきくことにしよう!」と。
チェリストのオーギュスト・フランショームが「じゃ、君のソナタを弾こう」というと、ショパン「そりゃ、いけない。ほんとうの音楽を弾いてくれたまえ。モーツァルトの音楽を!」
まだまだご紹介したいものがあります。こんな本はやはり珍しい。

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モーツァルトの方法

『音楽は対話である』(ニコラウス・アーノンクール著)の中の「モーツァルトは改革者ではなかった」の中に次のような記述があります。
「かつて一度も聴いたことがなかったような、そして存在したことのなかったような音楽技法上のものを、新たに発明したり、用いたりすることなく、モーツァルトは同時代の作曲家と全く同じ媒体を使って、他に比べることのできない世界を音楽の中で表現したのであった。これはまさに謎ではないか。説明することも、理解することもできない」
現代はモーツァルトの時代に比べ、はるかに何もかも出尽くした状況だと思いますが、この考察の中に創作のヒントがある気がします。

自然と芸術

ストラヴィンスキーの『音楽の詩学』(未來社)の中の第2課「音楽現象について」の中に次のような記述があります。
「私は、それ自体として心地よく、耳を愛撫し、完全たりうる喜びを私たちにもたらす基礎的な音響、生の状態の音楽素材の存在を認めます。けれども、そうした受動的な快感の彼方に、私たちは、秩序づけ、活気づけ、創造する精神の操作に私たちを積極的に関与させる音楽を発見しに赴くのです。というのも、あらゆる創造の根源には、地上の糧に対する渇望ではない渇望が見出せるからです。そのようなわけで、自然のたまものに、策略―それこそが、芸術(アート)(技術)の一般的な意義です―の恩恵が加わります。」
(この中の「基礎的な音響」、「生の状態の音楽素材」とは前述している「木々をわたる微風のささやき」「小川のせせらぎ」「鳥の歌」などのことだと思います)
受動的な感動を得られる自然の音と、それとは別に意思をもって人が作り出す音楽(芸術)というものの違いを明確に表現した文章だなと思いました。翻訳されているから原文とのニュアンスの違いがどの程度かわかりませんが、簡潔でしっくりくる表現です。

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京都・国際音楽学生フェスティバル2015

今日から始まった「京都・国際音楽学生フェスティバル2015」に行ってきました。毎年府民ホールアルティで行われていることは知っていましたが(今年で23年目だそう!)、特別気になることもなく行ったことはありませんでした。今年は今日の分のチケットをいただいたので、初めて行ってみることに。
今日は、ベルリン芸術大学の学生がチェロとピアノのアンサンブル、パリ国立高等音楽院の学生がヴィオラとピアノのアンサンブル、そして最後に両学校のピアノの連弾と、日本の音大生たちやシベリウス音楽院の学生も加わって弦楽アンサンブルが行われました。
ベルリンの2人はテクニック、オーラとそろっている感じでなかなかすごかったです。ピアノの響きのコントロールが素晴らしかった!
今日のプログラムの中で印象的だったのは、グラズノフの曲です。今までこの作曲家の作品は聴いたことなかったので、新鮮でした。
弦楽アンサンブルはレスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア第3組曲」でしたが、生演奏の弦のハーモニーに弱い私は始まるとさっそく涙目に。演奏自体とてもよかったですが、色々な国の学生が1つの音楽を奏でているという様子に、たいへん感動しました。彼らは何語でコミュニケーションをとっているか知りませんが(やはり英語かな?)、演奏は言葉はいらない。目と目で合図をすれば、あとはお互いの響きに耳をすませ、同じ音楽を感じる。音楽は素晴らしいなとあらためて思いました。
思っていた以上に楽しいコンサートで、明日以降のジュリアード音楽院やウィーン国立音楽大学などその他の音楽学校もそれぞれ違いがあってプログラムもバリエーションに富み興味そそられます。
今年は今日だけですが来年はもうちょっと聴いてみたいかなという気分です。