三条大橋の工事、進んでますね。
(6/18ツイートより)

4月8日は、京都文化博物館別館ホールで行われた、三橋桜子さん、パブロ・エスカンデさんご夫妻主催のコンサートシリーズ、アンサンブル・コントラスタンテへ行ってきました。今回のテーマは「死と生」でした。
「死」というとなかなか重いテーマに感じますが、全体としてその対比としてある「生」が浮き立つような印象がありました。「生と死」ではなく「死と生」という語順にされたのも、「生」に光を当てようという意図があったのではと勝手に想像しています。
プログラムは以下のとおり
・ランベール 愛する人の影
・クープラン 2つのミュゼット (歌なし)
・モンテクレール ダイドーの死
・ヘンデル 調子の良い鍛冶屋(三橋桜子編曲) (歌なし)
・フローベルガー ブランシュロシュ氏の死に寄せる追悼曲 (歌なし)
・バッハ オルガンのためのトリオソナタ 第5番より ラルゴ (歌なし)
・パーセル 妖精の女王より「聞いて!風がこだましながら」 (歌なし)
・シューベルト リュートに寄せて
ポロネーズニ短調 (歌なし)
死と少女
・サンサーンス 死の舞踏 (歌なし)
・エスカンデ 5つの死の歌(イバルボウロウの詩による)
高熱
死
死のヴォカリーズ
船
道・フォーレ 組曲「ドリー」より子守唄 (歌なし)
・エスカンデ さくら(茨木のり子の詩による)
(バッハのラルゴは時間の関係で演奏されませんでした)
谷村由美子(ソプラノ)
三橋桜子(チェンバロ・オルガン・ピアノ)
パブロ・エスカンデ(オルガン・オッタビーノ・ピアノ)
お二人のコンサートのプログラムはいつもオリジナリティの高い、創意工夫の感じられるものばかりですが、その理由の一つは楽器の編成に合わせた編曲が多いというのがあるのではと思います。伴奏も連弾であったり、チェンバロとオルガンだったり、曲によって入れ替わって弾かれます。パブロさんが作曲家で演奏もこなされるので、かなり自由にできるのではないでしょうか?
例えば、サンサーンスの「死の舞踏」という曲は、元々オーケストラの曲ですが、ピアノとオルガン用に編曲され演奏されました。他ではなかなか聴けないと思います。かっこいい編曲、演奏でした。
また別の理由として、選曲が面白いというのもあると思います。今回もバロックから現代(パブロさん)まで幅広く、知らない曲が多かったです。
その中でまた聴いてみたいと思える曲が何曲かありました。例えばシューベルトの「リュートに寄せて」など。
そして、特に印象深かったのは「5つの死の歌」と「さくら」です。
「5つの死の歌」はウルグアイの詩人、イバルボウロウの詩でそれにインスパイアされてパブロさんが若いころに作ったということです。この曲を聴いていて、ピアソラを思い出しました。パブロさんはアルゼンチン出身のようなので、どこか似た感性があるのかなと思うことがあります。現代的な響きと哀愁を帯びた旋律に心動かされ、何度も心に波がおこり涙が出そうに。声が楽器のようになるヴォカリーズもいいなと改めて思いました。
そして「さくら」。これは詩人、茨木のり子の詩で、ソプラノの谷村さんがパブロさんに作曲を依頼、今回初めて公の場で演奏されるということでした。
この詩はなかなか強烈でした。
さくら
ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
先祖の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞だつせいでしょう
あでやかとも妖しいとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と
今回のテーマ、「死と生」について考えさせられる。死生観が表されていると感じる詩。
美しい音楽(ピアノ伴奏、歌声)とあいまって、迫ってきました。
谷村由美子さんの声は、ふくよかで柔らかい、けれど迫力もあり聴きごたえあるものでした。
終わって帰る前、お二人に挨拶しましたが、「すごくよかったです!」などとしか言い表せないことがもどかしかった。人が多くてゆっくりは話せなかったというのもあるのですが。
感じたこと、心に起こったことはそう簡単には言い表せない。せめて、帰って少しでもその時の感じを思い出せるようブログに書こうと思っていました。
書いてみるとやはり、難しい。


先日、京都府立植物園の再開発の話を知りました。中でも気になったのが、広場に野外ステージを作るということです。
植物園は、植物を観察したり、散歩したり、広場で遊んだり、ベンチに座って本をよんだり、池を眺めてぼーっとしたり、それぞれが思い思いに自然と触れ合うことのできる場所です。
広場に野外ステージ、ですぐ思い出したのが梅小路公園です。以前行ったときに、ちょうど野外ステージで演奏をしていました。スピーカーから流れる音が響き渡っていましたが、こちらは別に音楽を聴きにいったわけではないし、そういう気分でもないし、聴きたい音楽でもない(アコースティックの楽器ならまだ耳にも優しいと思いますが)。今ここに大音量の音楽はいならいと思いましたが、音はさえぎることができません。そこを去るしか音から逃れることはできません。音は音が届く空間を支配してしまうんですね。
広場を離れ、梅小路京都西駅の方へ行くと今度は別の場所でスピーカーから大音量の音楽が……。
スピーカーを使って「にぎやかに」することが楽しい気分を盛り上げる、という考えが普通になっているのかもしれませんが、どこでもそんな風にしてしまうってどうなんだろうと私は思っています。
音楽フェスのように、音楽を聴くために人が集まってくる場所ならいざ知らず、普通の公園での大音量音楽というのは、必ずしも歓迎されないのではないかと思います。梅小路公園で音楽フェスありますが、普段は普通の公園ですよね。
京都府立植物園の中には、自然の山のようなエリアがあり、街中にいるのを忘れるくらい、落ち着いた雰囲気があります。そこに、スピーカーからの大音量をとどろかせるのは、やや暴力的でもあるとも思えます。
街中のスーパーや商業施設では、当たり前のように音楽が流れています(隣接した店が流す音楽が混ざっていたり、途中でブチっと切れてアナウンスが入ったり、延々販促用の同じ曲が繰り返されたり)。あまり気にしている人はいないかもしれませんが、そうだとすればあまりにむやみに音楽が乱用されていて、慣れてしまっているのだと思います。
『シュタイナー教育の音と音楽』ー静けさのおおいの中でー(吉良創/Gakken)の中に次のように書かれています。
生まれたばかりの赤ちゃんにとって、まず必要なのは「静けさ」というおおいです。これは赤ちゃんだけのことではなく、私たち人間すべてにとって、「静けさ」のある状態は必要であり、つくり出さなければならないと思います。
私はドイツで四年ほど暮らしたことがあるのですが、そのときに感じた大きなことのひとつは、すべての環境が、それまでの私のいた東京の環境よりもずっと静かだということでした。
(中略)
そうした生活が続いていくと、自分の耳が変わってきたことに気づきました。今まで気づかなかった音に気づくことができるようになったのです。
P16-17
人間は外部の情報を得るとき、耳よりも目を使います。五感のうち9割近くが視覚による情報というデータもあります。なので音に対しては案外無頓着になりがちかもしれません。音楽関係や仕事柄耳を使う人、その他普通の人よりは音に注意を向ける人もいると思います。私も日々ピアノを弾きながら音色(音質)に耳を傾けます。ですから、音に対してやや敏感な面もあるかもしれません。
そういった個人差はあるでしょうが、やはり自然を楽しむ植物園は静かである方が望ましいと思います。静かであって初めて気づくことがあるはずです。意識していなくても、鳥の鳴き声や風や葉っぱの音が耳に入ってくるでしょう。自然の音は耳の感性を豊かにしてくれると思っています。
広場の野外ステージだけでなく、アリーナを含むスポーツゾーンも植物園に隣接する敷地に作る計画があり、大会や音楽イベントなどがあるとここも「にぎやか」になるかもしれません。にぎやかなのがだめというわけじゃないのです。植物園の雰囲気が壊されるのが残念なのです。まだ、美術館や図書館ならばいいのにと思います。
以下のサイトで署名を集められています。私も賛同しました。
京都府立植物園が危ない!「生きた植物の博物館」の存続にあなたのお力をお貸しください! The Kyoto Botanical Gardens are in danger!
長い年月をかけて作り上げられてきた京都府立植物園が、今後どうなるのか気になります。








先日、娘につき合って京都文化博物館で行われていた「みんなのミュシャ展」へ行ってきました。ミュシャの作品はこれまで何度かどこかで目にしたことのあるという程度で、この絵を描いた人がミュシャという名であることすら知らなかった。
で、見に行ってみて、すごかったです。なんとなくちらっと目にしたのとちゃんと見るのとではこれほど違うものかと改めて思いました。ほとんどの絵は女性が描かれ、その周りに花や装飾がほどこされている。絵のうまさがひしひしと感じられるのと同時に、多種多様なデザインを創造するパワー、それを緻密に描く根気強さ(?)に圧倒されました。

娘と夫は絵を描くから、ひたすら絵の描かれ方を観察し(特に人物)、その巧みさに感心していましたが、私はとにかく創造の力(特にデザインする力)を感じていました。絵の好みは別にして、大いに刺激を受けました。そして、私も早く帰って音楽に取り組みたいと思いました(笑)。これまでもそうですが、ジャンルに関わらず創造の熱を感じると、モチベーションが上がるようです(笑)。
ちなみにミュシャはチェコ出身で、展覧会のどこかに「スラヴ」に関することが書かれていて、それを見たために絵を見ている間、ずっと頭の中にドヴォルザークの「スラヴ舞曲 Op.72-2」が流れていました(彼もチェコ出身ですね)。少し切なく、民族色を感じられるようで、印象深い曲です。
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
昨日は家族で狛ねずみのある大豊神社に初詣に行きましたが、予想通りの人出で境内に入りきれない参拝者が哲学の道に沿って並んでいました。ネット情報によると元旦には3時間以上待った人もいたということで、早々にお参りは諦めて境内に入っておぜんざいをいただいて、並んでいる人たちの先にあるお社を少し離れた下から覗いて、狛ねずみらしきものの一つの一部をちらっと見て(きっとみんなこれが目的?)、しばらくぶらぶらしてから境内を出ました。



よく見ると軒桁に十二支が描かれている。

ねずにの置物に入ったおみくじを娘が買って、おみくじごと持って帰りました。木に結ぶのとどちらもありのようですね?
それから、哲学の道を下って行き熊野若王子神社へ行きました。こちらはすいていて、また甘酒も無料で振舞われていました。牛の像があるので、来年は混むかも。

どちらの神社も古く、まわりの自然と相まってしっとりした雰囲気です。こういう場所に来ると普段忘れがちな、自然や古い物の価値を感じます。
神社では特にお願いはしていませんが、今年も色々取り組んでいきたいと思っています。気が向いたら、またブログ読んでくださいね。
先日、嵐山へ行ってきました。
もみじの若葉は、紅葉とはまた違った美しさがあり、以前から好きですが、最近「青もみじ」という言葉を聞くようになりました。「青もみじ」という言葉を使った京都観光の案内も見かけるようになり、きっとまた多くの人が観光に訪れるだろうと思っています。
さて、嵐山は今の季節としてはやはり観光客が多い気がしました。「青もみじ」宣伝効果か、それとも単純に京都へ来る人が増えているためかはわかりません。
同じ日に色々行くと印象が混ざるので、今回は常寂光寺をメインにして、あとは周辺を散策しました。
常寂光寺山門から中を見ると、早速、期待していた光景が。かやぶきの仁王門の前に優雅に広がる青もみじの枝。なんと絵になる光景。

それからずっと、感嘆のため息をつきながら庭を散策しました。昔、俵万智さんが「眼福」という言葉を使ってらっしゃるのを読んだことがあるのですが、まさにこういう時、この言葉を思い出します。
目が喜んでいる、いや、目を通して心が喜んでいる。でも、画面とか本ではわからない、その場に身を置いて初めて感じることができる喜びです。あまり意識できてなくても、音やにおいや気温や色々な要素を体全体で感じているんだと思います。コンクリートやアスファルトに囲まれているよりも、生き物としてはやはりうれしいはず?(笑)

仁王門をくぐった先に見える光景
夫が庭を見て「インスタレーション」という言葉を使いましたが、まさに庭は、石、木、などの自然素材、そして生きた植物を使ったインスタレーション、アート作品なのだと思います。
インスタレーションとは、ウィキペディアでは次のように説明されています。
「1970年代以降一般化した、絵画・彫刻・映像・写真などと並ぶ現代美術における表現手法・ジャンルの一つ。ある特定の室内や屋外などにオブジェや装置を置いて、作家の意向に沿って空間を構成し変化・異化させ、場所や空間全体を作品として体験させる芸術」
これまで、それほどたくさんは見ていませんが、インスタレーションは光、風、音、映像などを使って空間の中で何かを表現するアートと認識しています。庭の場合、普通のインスタレーション作品に比べると、自然がそうなるままにまかせている部分が大きいと思います。季節や時間によって、ほんのひと時も同じ形を留めていない、変化し続けるアート作品。庭師がどうすれば自然を美しく見せられるかという仕掛けをすることで、私たちは自然ってこんなに美しいんだと気づかされる気がします。日本のように豊かな自然のあるところで、どうして昔からわざわざ人工の庭というものを作ってきたのか? やはり自然を愛でるためという気がします。

木洩れ日が美しい

境内一番上まで行くと京都タワーも見えます!要するに山ですね(笑)

シランの花
祇王寺も苔の美しいお寺。二尊院や落柿舎など素敵な場所が近くにたくさんあり、何度来てもその都度違う、見切れないほどのコンテンツに出会います。若い頃には気づかなかったことや考えなかったことが増えていく分、違った感じ方ができて楽しいんだと思います。
おまけに、何年か前の6月始めの祇王寺の写真です。

幻想的な苔の庭

ここもかやぶきの屋根ともみじの組み合わせ。絵になります。
今日は二条城で行われている、「アジア回廊現代美術展」へ行ってきました。
いつものように多くの観光客でにぎわっていましたが、中は広いのでそんなに混んでいるという感じもしませんでした。
展示会場の最初の作品は、庭に立つ「フルーツの木」で本当は大きな木の上に色々な大きなフルーツがなっているインパクトのある作品ですが、今日は強風のため膨らませてなくて、しぼんでいました。残念。
そして、屋内の会場へ入ると、まずカラフルな作品が目にはいります。と同時にその上に横たわる超太い梁が目に入り、その迫力に圧倒されます。一緒に行った夫はやはりそちらに反応。
中へ入っていき、作品を見て回ります。どうしても、建築物の存在感が強いので、ただアート作品を見ると言うよりも、その全く異質な組み合わせを楽しむといった感じです。でも、不思議にアート作品は、古い骨太で寛容な空間に包まれるような感じで佇んでいました。
庭の方にも、いくつかアート作品があり、これもまた渋い庭の中に面白みを加えるかのように展示されていました。
二条城はこの美術展があるから久しぶりに行ったのですが、展示物がない状態よりも、あった方が、その迫力や存在感に気づかされるのだと思いました。また、アート作品とのコラボが、普段と違う雰囲気を作り出し、空間の面白みを感じさせてくれる。線の細い和風建築もあるけれど、二条城は太くて強い感じ。そこに個性の強い現代アートがきても、それが和らぐ感じがして面白かった。
二条城は広いから、結局全部見る前に閉場時間が来てしまったのだけど、元々敷地内は俗世界とは切り離されたような場所で、さらにアート作品によって不思議な世界になっていた。今日はそこで、色々なことを感じたのだけど、こういう日常と違う場所に来ることで、普段感じないことを感じられる。感性が刺激される。
少し前に読んだ、アーサー・ビナードさんの『もしも、詩があったなら』(光文社新書)の中で、
「詩というものは、役に立つか立たないのか?」
という自問があり、
「自分と自分の愛する人びとが生きのびるために、役に立つのか」といった次元であれば、もしかしたら詩は有用かもしれない。
と自答しています。
それは、
「人びとの思考停止を突こうとするのが詩」
だから。
詩が文字によって、人の心に何か気づきを与える可能性があるなら、アートや建築空間や音楽などは感じることによって、もしかしたら普段眠っているかもしれない部分を呼び覚ますことがあるかもしれない。
「アートや音楽というものは、役に立つか立たないのか?」
自分の中に眠っている感性に刺激を与え、感じる力を養うという意味では役に立つかもしれないと、改めて思いました。例えば何かを見抜くには考える力も大切だけど、感じる力も大切ではなかろうか? だからそういった分野の経験や教育は大切とも!
まあ、役に立たなくても好きなものは好き!ですけどね。







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