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ピアノとチェンバロのサロンコンサート

先日、三橋桜子さんとパブロ・エスカンデさんご夫妻のサロンコンサートへ行ってきました。今回のコンサートはCD「Dolci」の発売記念コンサートで、昨年から少人数ずつ10回にわけて開催されました。昨年案内をいただいていたのですが、連絡ミスで行きそびれ、今回追加コンサートをされるというので、行かせていただきました。

「Dolci」(イタリア語でデザートという意味だそうです)はピアノ連弾のためのアンコール曲集で、23曲収録されています。聴いたことある有名な曲も多いのですが、連弾であること(パブロさんの編曲含む)、パブロさんのオリジナル曲も入っていること、あまり知られていない作曲家の曲もあることなど、やはり他では聞けない曲集になっていると思います。

コンサートは40分ほどでしたが、ピアノ連弾でCD収録曲、パブロさんの曲、ピアソラの曲など、チェンバロ連弾でバロック曲(ヴィバルディと、関西では恐らく初演と言われていた多分一般にはほとんど知られてない作曲家→忘れました)と10曲くらいだったでしょうか、とても濃い内容でした。お二人の息の合った演奏も素晴らしく、聴き入りました。

コンサートのあと、マテ茶と手作りクッキーをごちそうになり、その後、興味のある人たちが残ってチェンバロについて色々と教えていただいたりしました。
興味深かった点がいくつかあります。ピアノは昔作られた当初からはどんどん改良されていったわけですが、チェンバロは当時のままということ。弦をはじく部分の部品を自ら削って調整すること。上部鍵盤の位置をずらすとユニゾンで音が出ること(結果、大きな音が出せる。実際弾いてみて確認)、レバーの切り替えで弦を押さえて響きを変えられる(ピアノのペダルのような)、などなど。
そして一番驚いたのが、ピアノのように平均律だけではなく、音律を変えることができるということ。チェンバロは狂いやすくたびたび(コンサートの合間でも)調律をするということは、音律を変えることも容易ということなんでしょうか? 調性によってより美しく響く音律に合わせることができるのは、弦楽器や歌だと思っていましたが、鍵盤楽器でもそれが可能なわけですね(この辺りは少し専門的な話になりますね。過去に少し関連するような記事も書いていますが(「音律について少し」)、あまり詳しいわけでもなくうまく説明できないので、興味のある方は調べてくださいね)。

皆さんが帰られたあと、最後に私たち夫婦が残って桜子さん、パブロさんご家族と色々と話をしました。ゆっくりとお話をさせていただくのは何年かぶりで、楽しかったです。

帰って早速、家事をしつつ聴かせていただきました。短めの曲ばかりですが、盛りだくさんで聴きごたえあります。また何度もじっくり聴いてと楽しもうと思います。

曲目などこちらで詳細がご覧いただけます。https://amzn.to/3vMpQQM

「死と生」のコンサート

4月8日は、京都文化博物館別館ホールで行われた、三橋桜子さん、パブロ・エスカンデさんご夫妻主催のコンサートシリーズ、アンサンブル・コントラスタンテへ行ってきました。今回のテーマは「死と生」でした。
「死」というとなかなか重いテーマに感じますが、全体としてその対比としてある「生」が浮き立つような印象がありました。「生と死」ではなく「死と生」という語順にされたのも、「生」に光を当てようという意図があったのではと勝手に想像しています。

プログラムは以下のとおり

・ランベール 愛する人の影

・クープラン 2つのミュゼット (歌なし)

・モンテクレール ダイドーの死

・ヘンデル 調子の良い鍛冶屋(三橋桜子編曲) (歌なし)

・フローベルガー ブランシュロシュ氏の死に寄せる追悼曲 (歌なし)

・バッハ オルガンのためのトリオソナタ 第5番より ラルゴ (歌なし)

・パーセル 妖精の女王より「聞いて!風がこだましながら」 (歌なし)

・シューベルト リュートに寄せて

        ポロネーズニ短調 (歌なし)

        死と少女

・サンサーンス 死の舞踏 (歌なし)

・エスカンデ 5つの死の歌(イバルボウロウの詩による)
        高熱
        死
        死のヴォカリーズ
        船
        道

・フォーレ 組曲「ドリー」より子守唄 (歌なし)

・エスカンデ さくら(茨木のり子の詩による)

(バッハのラルゴは時間の関係で演奏されませんでした)

谷村由美子(ソプラノ)
三橋桜子(チェンバロ・オルガン・ピアノ)
パブロ・エスカンデ(オルガン・オッタビーノ・ピアノ)

お二人のコンサートのプログラムはいつもオリジナリティの高い、創意工夫の感じられるものばかりですが、その理由の一つは楽器の編成に合わせた編曲が多いというのがあるのではと思います。伴奏も連弾であったり、チェンバロとオルガンだったり、曲によって入れ替わって弾かれます。パブロさんが作曲家で演奏もこなされるので、かなり自由にできるのではないでしょうか?
例えば、サンサーンスの「死の舞踏」という曲は、元々オーケストラの曲ですが、ピアノとオルガン用に編曲され演奏されました。他ではなかなか聴けないと思います。かっこいい編曲、演奏でした。
また別の理由として、選曲が面白いというのもあると思います。今回もバロックから現代(パブロさん)まで幅広く、知らない曲が多かったです。
その中でまた聴いてみたいと思える曲が何曲かありました。例えばシューベルトの「リュートに寄せて」など。

そして、特に印象深かったのは「5つの死の歌」と「さくら」です。

「5つの死の歌」はウルグアイの詩人、イバルボウロウの詩でそれにインスパイアされてパブロさんが若いころに作ったということです。この曲を聴いていて、ピアソラを思い出しました。パブロさんはアルゼンチン出身のようなので、どこか似た感性があるのかなと思うことがあります。現代的な響きと哀愁を帯びた旋律に心動かされ、何度も心に波がおこり涙が出そうに。声が楽器のようになるヴォカリーズもいいなと改めて思いました。

そして「さくら」。これは詩人、茨木のり子の詩で、ソプラノの谷村さんがパブロさんに作曲を依頼、今回初めて公の場で演奏されるということでした。

この詩はなかなか強烈でした。

さくら

ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
先祖の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞だつせいでしょう
あでやかとも妖しいとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と

今回のテーマ、「死と生」について考えさせられる。死生観が表されていると感じる詩。
美しい音楽(ピアノ伴奏、歌声)とあいまって、迫ってきました。

谷村由美子さんの声は、ふくよかで柔らかい、けれど迫力もあり聴きごたえあるものでした。

終わって帰る前、お二人に挨拶しましたが、「すごくよかったです!」などとしか言い表せないことがもどかしかった。人が多くてゆっくりは話せなかったというのもあるのですが。
感じたこと、心に起こったことはそう簡単には言い表せない。せめて、帰って少しでもその時の感じを思い出せるようブログに書こうと思っていました。

書いてみるとやはり、難しい。

メンデルスゾーンの本

メンデルスゾーンの無言歌集に好きな曲が何曲かあり、今は3曲練習もしています。メンデルスゾーンについて書かれた本を前から探していますがあまり種類がありません。音楽之友社が出している「作曲家・人と作品シリーズ」にも今のところありません(出るのを期待しています)。図書館で検索してもあまりなく、とりあえず『メンデルスゾーンの音符たち』(音楽之友社)という本を借りてみました。

この「音符たち」シリーズがあるのは前から知っていましたが、2年に渡って『音楽の友』誌で連載されていて書籍化されたものです。メンデルスゾーンでこのシリーズは終了したということです。

これまで色々な作曲家の本を読んでいますが、伝記的なものが多く、彼らがどのように音楽に向き合っていたのか、どんな人生を送ったのか、人として興味があります。
『メンデルスゾーンの音符たち』は作品ごとの解説のような本です。ですから、メンデルスゾーンがどのような人だったのか、あまりわからないようです。とりあえず無言歌集のところを読みましたが残念ながら7ページだけです。取り上げられている作品はごく一部。ページ数などの制約もあったように書かれています。

まず「はじめに」では著者の池辺晋一郎さんはメンデルスゾーンを絶賛しています。

メンデルスゾーンはまちがいなく、音楽史上屈指の天才だ。しかも、極めて正統的な天才である。和声法、対位法、フーガや管弦楽法……エクリチュール(書法)に関する技術の高さはバッハに比肩できると言って過言でない。

その割には、他のメジャーな作曲家に比べるとそれほどその作品を知られていないと思います。派手さがないから?? 正統すぎるから??

7ページと少ない中にも、興味深いことが書かれています。

この曲集は6曲ずつの8巻で合計48曲。最初の巻から最後の巻(死後刊)までは20年以上の期間があります。全部で48曲ということはバッハの平均律クラヴィーア曲集のようにすべての調性で作られているのかと言えば、そうではない。それどころか、♯、♭は4つまでの調でおさえられている。
少し驚いたのは、この48曲中メンデルスゾーン自らがタイトルをつけたのは5曲のみだったということ。それは、3曲の『ヴェニスの舟歌』(Op19-6, 30-6, 62-5)、『デュエット』(Op38-6)、『民謡』(Op53-5)ということです。おそらく無言歌集の中で一番有名な『春の歌』も別の人がつけたのですね。

この本で取り上げられた無言歌は3曲の『ヴェニスの舟歌』と、『春の歌』(Op62-6)、『紡ぎ歌』(Op67-4)です。たまたま今弾いている舟歌が入っているというのは運がいい!
解説を読んで曲の中に仕掛けられた伏線のようなものに気づかされました。

無言歌集の曲を特に弾きたくなったのはわりと最近ですが、以前読んだ本で無言歌について言及されていたことがずっと印象に残っています。
その本は、『ある「完全な音楽家」の肖像』(―マダム・ピュイグ=ロジェが日本に遺したもの)です。2011年、その頃書いていたブログでアンリエット・ピュイグ=ロジェの言葉を紹介しています。

「全体に、ことさら難しいものを求め、やさしいものを馬鹿にする傾向があるのではないでしょうか。技術的に難しい曲が、かならずしも音楽的にすぐれたものとはかぎらないのですが……。たとえば、ピアノ曲のレパートリーの中でもとくに難しい作品を弾きこなす学生が、メンデルスゾーンの《無言歌》やフォーレの作品など、技術は中程度の難しさで、自身の人間性を最も発揮しなければならない曲になると、どう弾いていいか困ってしまう。全体にアクロバティックなパフォーマンスが重視される傾向にあるのは、悲しむべきことで、胸が痛みます」

なるほど、無言歌はそういう難しさがあるのだと当時改めて思いました。豊かな表現力を求められるような曲は若いころよりも年を重ねた方がより深みがでそうです。
無言歌集の曲はポリフォニックな曲が多く、声部を弾き分ける難しさというのもあります。メンデルスゾーンはバッハのマタイ受難曲を世の中に知らしめた人です。やはりバッハに強く影響を受けている作曲家の一人ではないでしょうか。

途中から無言歌の話ばかりになりました。
また別のメンデルスゾーンの面白そうな本を見つけたら読んでみたいです。

シューマン「子供の情景」

ふと、シューマンの「子供の情景」が弾きたくなり、とても久しぶりに弾きました。「子供の情景」は短い小品ばかりですが、バラエティに富んでいるしポリフォニックで素敵な曲がたくさん。一般にはトロイメライくらいしか知られていないのではと思うのですが、もったいない。

「子供の情景」は子供のために書かれた曲集ではなく、シューマンがクララと結婚する前、早くクララと結婚して子供のいる家庭を築きたくて待ちきれず作ったという話を、昔ピアニストの宮崎剛さんのレクチャーコンサートで聞いて笑ったのを覚えています。

日本語のタイトルは次のようです。

1.見知らぬ国と人々について
2.不思議なお話
3.鬼ごっこ
4.ねだる子供
5.満足
6.重大な出来事
7.トロイメライ
8.炉辺で
9.木馬の騎士
10.むきになって
11.こわがらせ
12.眠っている子供
13.詩人は語る

ぱっと見たらおとぎ話のタイトルのようですね。トロイメライだけは日本語に訳されてないですが、「夢」という意味だそうです。

シューマンは文学への造詣も深く、文才もあり、作家になるか音楽家になるか迷った時期があったというくらいで、言葉に対するこだわりが「子供の情景」以外の彼の曲のタイトルからも感じられます。

シューマンは同じロマン派のショパンと同年代で、どちらもバッハを熱心に勉強したようですが、この二人の音楽はかなり違うというのが面白い。ショパンは曲ごとににタイトルをつけない派であるのに対し、シューマンはつける派。タイトルのバリエーションが豊富なのと曲のムードのバリエーションが豊富なのと関係あるのかな?と改めて思いました。

シューマンの本は持ってますが(『シューマン』藤本一子/音楽之友社)、この記事を書くにあたり、調べたいことがどこに書いてあるか探すのも大変だからウィキペディアを見てみると、シラーやゲーテにに強い思い入れを持っていたことを見つけて、ベートーヴェンと同じだなあとまた興味を新たにしました(ベートーヴェンの本 その2)。

「子供の情景」だいぶ色あせてしまっています

ベートーヴェンの本 その2

先日、『ベートーヴェンの生涯』(青木やよひ著/平凡社)を読み終えました(改めてもうちょっとじっくり読みたいですが)。いやあ、良かった良かった。

興味深く感じた個所は山ほどあります(笑)。ご紹介しきれませんので、興味のある方は読んでください(笑)。それで、最も強く印象に残った事柄について書きたいと思います。超有名な『交響曲第九番』が生まれた背景についてです。ちょっと固い話と感じられる方はスルーしてくださいね。

著者、青木やよひさんの考察になりますが、まず、ベートーヴェンにとって「神」とは何だったのかという問いかけがあります。彼は「神」というものをいつも身近に感じていた。それは、「人間の良心のよりどころとして」そして、「苦難の癒し手として」。

ベートーヴェンにとっての最初の「神」は、洗礼を受けたボン(ドイツ)の聖レミギウス教会。この教会が属する宗派は「自然への愛好」「人間同士の友愛的連帯」「異教への寛容」を特色としていた。その教会で、ベートーヴェンは少年の頃よりオルガンも弾いている。

その後、ベートーヴェンはキリスト教以外の宗教や様々な思想にも出会う。

「古代ギリシャの詩人たちの作品やカントの自然史研究の理論書などの他に、インドの聖典や宗教書などに深く共感し、それらからの引用を数多く『日記』に書き残していた」

一方で、聖書からの引用は一度もないということ。

ベートーヴェンは第九を作曲する前に「ミサ・ソレムニス」という大曲を書いている。4年の歳月をかけ作り上げたけれど、それに満足できない。その理由をロマン・ロランが「多分彼の神が〈教会〉の神でなかった」と述べていることを紹介。

「人生のモットーとして机上に置いていたのも、エジプトのピラミッドに刻まれた碑文の一部だった。こうした彼の精神世界のありようは、正真のキリスト者にとっては〈異教的〉と見えることだろう」

自由・平等・友愛の精神のもと教会の権威を批判する立場をとるフリーメーソンという組織の会員に、尊敬し親交もあったゲーテ、第九の原詩の作者シラー、モーツァルト、ハイドンなどの他、親しい人たちが名を連ねていたけれど、ベートーヴェンの入信記録は見つかっていない。

「彼自身のアイデンティティーにメーソン的な思想基盤があったことは疑いない。それにもかかわらず入信しなかったとすれば、彼は思想信条は共有するが、いかなる集団の掟にも縛られたくないとする独特の自由精神の持主だったと見ることもできよう」

結局、ベートーヴェンが思う「神」とは、特定の既存の思想ではなかったという見方です。たくさんの素晴らしい考え方、思想を取り入れながらも、一つの思想の下に縛られたくない!ここ、とても共感できます、私。

それで、いよいよ「第九」です。彼にとっての「神」つまり「自分の思想」を音楽によって表現したものがあの曲だったということです。

『第九』は長い人生のさまざまな時期にベートーヴェンの中に宿った、時には対立さえする多種多様な思想や動機が、半ば無意識に合流し統合された作品と言えよう。しかしその方向性は一瞬にし て決ったのだ。『ミサ』から手が離れた時、自分の最後のメッセージは、あれではない、これだ!  と閃いたに違いない。これとは何か? 教会の典礼文ではなく、自分の言葉によって、自分の神に、 生きとし生けるものと共に、喜びにみちて祈ることが可能な音楽に他ならなかった。

(自分の言葉→原詩はシラーの詩「歓喜に寄せて」)

対立する思想さえも乗り越え、喜びを共有することは実際難しいし、理想的すぎるかもしれない。でも、ベートーヴェンのようにどこにも属さず自由な精神であることは(彼自身の思想はある)、色々な考えの人たちとの対話を閉ざさないということだと思う。私も最近ちょうどそのようなことを考えていたので、この本に出会ったのはグッドタイミングでした。

ベートーヴェンは20代から難聴が始まり、やがて聞こえなくなる(それで作曲ができていたことがすごすぎる!)。そして、何度も失恋をし、苦悩する。持病などもあり、様々な困難に直面するけれど、創作への意欲、使命感が何度も彼を奮い立たせる。そしてずっと彼を支えてきたのが、彼が信じる「神」(思想)であり、それが人々と共に喜びを分かち合う大作として結実した。なかなか感動的ではありませんか!

ベートーヴェンの葬儀にはウィーン中から2万人、3万人という規模の市民が集まったということです。彼が音楽を通し、社会にのためにしようとしたこと、それが多くの人の心を動かしたのかもしれません。

ベートーヴェンという人は、思っていたイメージをはるかに超える興味深い人物、偉大な音楽家でした。

 

 

ベートーヴェンの本

1日のうち、本を読む時間というのはほとんどないのですが(優先順位をつけるとそうなる)、最近また本を読みたい気分で、隙間時間を使って読んでいます。ながら読書です。主に夜、ドライヤーで髪を乾かしている時間などですが、手も耳も使えないけど目があいているので(笑)、パソコンで電子書籍です。そのあと、iPhoneでも読めるから続きをちょこっとストレッチしながらとか。

他に、最近またオーディオブックやYouTubeの朗読なども聞いています。これは台所で、手と目は料理に使うけど耳があいているから(笑)。特に台所に立つ時間は1日3時間以上はあるかな(片づけにも時間かかるしね)、長いので使わないともったいない。音楽を聴くこともあるけれど、ストリーミングの再生リストを流していると(いちいち手を止めて選んでられないので)、そのうち似たような曲、同じ曲ばかりかかってくるので、聴くのをやめてしまいます。おすすめ機能は気がきいているようで、微妙ですね。そしてまた本を求める。でもそれが続くとまた、活字から解き放たれ音楽で頭をほぐしたいと思ったりするのですが(笑)。台所でそれを繰り返している感じです。

最近読み始めた電子書籍は『ベートーヴェンの生涯』(平凡社)です。ロマン・ロランのが有名だと思うし、安かったし、それを買ったんですが、もう少しみてみると青木やよひさんという方の書かれた同じタイトルの本があり、レビューを見るとかなり高評価。これまでのベートーヴェンの伝記よりも、より細かく調べられていて信頼性が高い内容であるということで、サンプルを読んでみるとこちらの方が良さそうで、結局こちらも買ってそれを読んでいます。

ベートーヴェンについては、音楽家という側面以上に人として興味がありました。詳しくは知らないのですが、音楽(西洋クラシック音楽)を貴族や宗教ためのものから民衆のものへと変えたのが彼であるというようなことについて少し別の本で読んだ記憶があります。それってけっこうすごいことなんじゃないかなと思っていました。

ベートーヴェンの作品は、ピアノソナタを何曲か十代の頃レッスンで弾きましたが、それほど強い思い入れがあるわけでもなく、その後はソナタや他の小品などたまに弾くこともあるというくらいでした。今回はたまたま本を見つけたので、改めてベートーヴェンという人について知ろうと思いました。

他の音楽家の場合もそうですが、ベートーヴェンも生い立ちからすでに興味深い。興味そそられる点が多くて、とても紹介しきれませんが、最初の方はざーっくりこんな感じ。祖父の代から音楽家の家で、幼いころから父に厳しい音楽教育を受け(ほとんど虐待?)、父親よりも才能があり、家は父親が酒に溺れて家計が苦しく、母親が亡くなり、十代で兄弟や父親の面倒を見なければならなくなった(音楽で稼ぐ)という流れの中、それでもベートーヴェンは自分につらく当たってきた父親を受け入れ、大事にした。まずは彼の優しさ(人柄)に感動しました(大人だなぁ)。

即興演奏が得意な少年でしたが、10歳で初めて本格的に作曲を習います。最初の教材はバッハの『平均律クラヴィーア曲集』(いきなり!)。

1783年3月2日付の「マガツィーン・デア・ムジーク」で書かれた記事が、ベートーヴェンについての最初の報道記事で、その中で、11歳(実は12歳)のベートーヴェンが平均律クラヴィーア曲集を巧みに演奏すると絶賛、そして

彼がこのまま進歩を続けるならば、必ずや第二の ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトになるであろう

と書かれていることが紹介されています。ほめちぎりですね!

ベートーヴェンが最も敬愛したのはモーツァルトのようです。モーツァルトとの一度だけの出会いについても書かれています。モーツァルトが内心、若いベートーヴェンの才能を見抜きながらそれを本人に言わなかったのは、認めるのはちょっと悔しかったのかなと思ったりしました。

ハイドンやサリエリにも師事していますね。なんか、すごい。

十代のうちから哲学書なども読み、また音楽教師や他の大人たちからの影響もあり、音楽だけではなく広く思想についても思いめぐらしていたことが、のちのちの彼の生き方につながっていくことに、とても興味を持って読み進めています。

ところで、著者の青木やよひさんってどんな人だろうと検索してみると、びっくり。興味のある人はこちらからどうぞ↓(さらに経歴は別のページに)

もう亡くなられているのですが、エコロジカル・フェミニスト(この言葉は初めて知りました)ということで、この考え方(エコロジカル・フェミニズム)は大変興味深いです。私も似たようなことを考えたりします。主流のフェミニズムについて詳しくないですが、エコロジカル・フェミニズムの方が問題の本質に迫っていると思えます。性別に関わらず、多くの人がなんとなくおかしいなと感じていることの本質に迫っている。これについては話がそれるし、ヘビーだし(汗)、これ以上ここでは書きませんが。

青木やよひさんが、ベートーヴェンを自分の思想とつながる芸術家と認識して書いた『ベートーヴェンの生涯』は、やはり面白いに違いない(笑)。ますます、期待が高まります。そういう意味ではロマン・ロランも、尊敬できる、共感できる人間として、ベートーヴェンについて書いているようです。こちらの本も持ってるからまた読むかもしれません。

録音の方も日々、取り組んでいます。編曲ものの録音は一旦終え、アルバム曲の録音に入っています。まだまだかかりそう~(汗)。

 

ピアノのための和声は?

ピアノのための和声の本というのは、演奏者向けのものは多少あっても、作曲のためのというのはあまりないように思います。和声の本を読んでいてよく感じる疑問(色々ありますが)のうちの一つがピアノ曲の場合どうなの?ということですが、それについていくつか書かれている文章をご紹介します。

一つは、以前もブログに書いていますが、『実用和声学』(中田喜直/音楽之友社)からのものです。中田喜直さんは「夏の思い出」や「ちいさい秋みつけた」なども作曲された方です。

ピアノは音楽の基本的な楽器である。もちろん和声学もピアノを使って勉強するが、和声学はピアノのためのものではないので具合が悪い。和声学はその名の通り、和音の中の一つ一つの音を独立した声部として扱い、その声部の動きを厳格に規定したものであるから、混声合唱か、異なる楽器の四重奏でやらなければ本当に理解できないわけである。

平行八度や平行五度の禁則は、そのようにすればある程度理由はわかるが、ピアノで弾いたのでは悪く聞こえない場合が多い。

また、『「なぜ?」が分かるとおもしろい和声学』(川崎絵都夫・石井栄治共著/FAIRY inc)には次のような記述があります。

器楽曲は通常、声部という考え方で作曲されていないので、和声学よりも自由な書法になることが多い。

ある和声学関係の本に、モーツァルトのピアノソナタの譜例をあげて、平行五度が使われているがうっかりミスか?と書かれていました。私は音楽的にそれがミスとは思えないし、そんな例はピアノ曲にたくさんあって、ということは別に問題はないことではと思いましたが、『「なぜ?」が分かるとおもしろい和声学』にも別のモーツァルトピアノソナタを例に、連続8度だが禁則ではないと説明されています。そもそも和声学でピアノ曲を分析するのはどうかということですね。

その和声理論についても

いわゆる機能和声理論は、バッハからロマン派までの音楽語法を矛盾なく包摂しうる高度に体系化された理論であるが、時代がより近代に近づくにつれて、それによって説明しきれない音楽の例が増大してくるのである。(『近代和声の機能理論への試み』(橋本正昭・高野茂著)より)

と書かれているように、ドビュッシーあたり以降から当てはまらないものが増えてきて、どう考えればいいかややこしくなってくるわけですね。

古い和声学と近代の和声についてどう考えればいいのか、シャルル・ケックランの『和声の変遷』(音楽之友社)に書かれていることが面白いです。この本は昭和43年に出されたのが最後で、何年か前古本で見つけました。もう茶色くなっていますが貴重な資料です。ケックランはドビュッシーやフォーレの曲のオーケストレーションをやったこともある人です。本の中から興味深い箇所をいくつか引用します。

「決して過去のものを軽蔑したり、素朴なスタイルを軽んじたりしてはならない」

「芸術家があらかじめ、人の踏んできた道をさけようと考えたところで、決して独創的になったといえない」

「芸術家が斬新で個性的であるという特権を持とうとするには、ありきたりの和音を一生懸命さけたからといってそうなるものでもない」

「私たちの知っている和声学はその時代のすべての音楽の法則集でもなければ、過去の音楽の法則集でもない」

「作曲にあたっては、和声技法について≪固定した法則≫などというものはないことは明白である」

「決まりは相対的なものであり、わずらわされないことが大切である」

などなど、和声についてどのように考えればいいかというヒントがたくさんです。抽象的ですけどね。

色々な音楽家の考え方に触れながら、自分なりに学んでいければいいのかなと思っています。

『ミシェル・ルグラン自伝』から少し

前回の記事からずい分日があきましたが、その後、『ミシェル・ルグラン自伝』([著]ミシェル・ルグラン/[共著]ステファン・ルルージュ/アルテスパブリッシング)を図書館で借りました。ところが、なかなか読む時間がないまま日が過ぎ、もうすぐ返却日がせまってきているので、また借りなおすかもしれませんが、とりあえず前回引用した部分

「もっとも重要なのは、永遠の初心者でいられる能力である」

のあたりだけでも読んでおこうと探しました。多分最後の方じゃないかなと思ってページをめくっていると、やはり最後の締めくくりの部分にありました。

「私の創作への原動力となるのは、アカデミーの燕尾服ではなく、好奇心あふれた精神と即興性、そして音楽自体の豊かさと多様性だ。

そしてもっとも重要なのは、永遠に初心者のままでいられる能力である。

人生のもっとも美しい瞬間のひとつは、なにかを発見する瞬間であり、なにかを学ぶ瞬間だ。」

改めて、共感できます。

また、もう少しページをさかのぼると、面白いなと思う部分があったので、ついでに引用させてもらいます。ミシェル・ルグランが20歳の時、パリに来たイーゴリー・ストラヴィンスキーと話す機会があり、勇気をふりしぼって質問をしたということです。

「「先生、ピエール・ブーレーズが《春の祭典》を分析した本をお読みになりましたか?」

彼は微笑んで、軽いロシア訛りのあるフランス語で答えてくれた。

「読んではいない、ざっと目を通しただけだよ。彼は私の作曲を自動車の構造のように完全に分解して、どのフレーズが意図的に、どのフレーズを逆さにした対位法になっているかを説明している。わずかな転調、微細なテンポの変化にも、私が自分では考えたこともなかったような秘密の意図を見つけ出してる」

やや間を置いて、彼は付け加えた。

「これは覚えておくといい。本物の創作者は、自分が何をしているか、けっして自分では分からないものだよ」

なかなか面白いエピソードだと思います。そして、それを聞いたミシェル・ルグランは、

「この言葉は私に啓示のような効果をもたらし、私の人生を照らしていくことになる。このときから、私は十六分音符ひとつひとつの存在理由を気にする必要はないと悟った。疑問や孤独にかかわらず、自分の直感を信じて思い描いた通りの道を進むべきだ。」

全く次元の違う人たちの話ですが、私も勇気づけられました!!

自分の道を行くしかないですが、やはり時々不安にもなりますからね。

この記事を書き終えてないまま、本を返しに行きました。今回はなにも予約してないから、何か新しいのあるかな?と音楽関係の本棚を眺めていると、これまで読んだことのある本のタイトルが目に入ります。それぞれのタイトルを見ると、読んだ当時の自分の心境や、何を求めていたのかなどが思い出されます。そして、今はそのことについては、もう自分なりに納得できたからもういいかなという気持になっている事柄もあって、時間の流れを感じます。他の図書館から取り寄せてもらって読んだ本もたくさんあるから、ずいぶんと図書館で勉強させてもらったなと思います。そんな中から、この本は保存版だと思ったら買うのですが、買うとなぜかあまり読まないのですね。なので、買うのに慎重になってしまう。(^_^;)

他の本棚も見て回って、今日は詩集を借りてきました。何かまた新しい発見があるかなと楽しみです。

永遠の初心者で……

「もっとも重要なのは、永遠の初心者でいられる能力である」

これは、以前ツイッターでたまたま見かけた本の帯に書いてあった言葉です。その本は『ミシェル・ルグラン自伝 ビトゥイーン・イエスタデイ・アンド・トゥモロウ』(アルテスパブリッシング)で、ミシェル・ルグランさんは検索したらフランスの作曲家、ピアニスト、映画監督、俳優ということです(本の紹介にはこのように→フランス映画音楽界の巨匠が名画・名盤のドラマと80年の人生を初めて赤裸々に綴った珠玉の回想録!)。この人の名前は知らなかったけど、『シェルブールの雨傘』『愛と哀しみのボレロ』などなど映画音楽を作られてたということで、聴けば知ってるというのはあると思います。

ミシェル・ルグランさんのことも知らないし、この本もまだ読んでませんが(今図書館で検索したらあったので予約しました!)、この帯の言葉はとても響きました。

何年経験を重ねても、わからないことはたくさんあり、ずっと発見はある。結局、音楽というものを通して、自分の中の未知の世界を探究しているのだから。日々ピアノの前に座るたび、今日も何かあるという期待があります。そういう気持を持ち続けていければ幸せだなと思います。

以前、あるピアニストの方に聞いた話です。ドイツに留学されていた時に、先生がいつもレッスンが終わった時に、「ありがとう」と言ったそうです。つまり、今日、私はあなたにピアノのレッスンをしたけれど、私もあなたから教わりましたと。人に何かを教えている時に、自分にも気づきがあるということに感謝するという姿勢に、そのピアニストは共感されていました。私もすばらしいなと思いました。

さて、本の内容はまだ知りませんが、帯の言葉から色々と思ったのでした。

ストラヴィンスキーの言葉

2016年も間もなく終わり。大晦日はいつも、一応主婦業もしているのでいくら手を抜いても普段よりはやることがあり、今日もお正月のための買い物(最低限ですが)などで時間をとられました。
元旦くらいは多少はいつもと違わないとなあと毎年めんどくさいなと思いながら、いかに簡単にちょっとお正月らしい雰囲気を出せるかを考えながらスーパーをうろうろしています。

そして大晦日でも毎年ピアノを弾きます。弾きたいから弾くだけ。今年は今作ってる曲が最後の曲になりました。まだ出来上がってないけど。なんか大晦日はいつもしみじみした気持ちで弾きます。今年はこれで終わりだなと。

最後に『フリープレイ―人生と芸術におけるインプロヴィゼーション』(スティーブン・ナハマノヴィッチ著/フィルムアート社)の中の、「練習すること」より、ストラヴィンスキーの言葉を引用します。

「作品を紙に書く行為というものは、パン生地をこねるように、
私にとって、創造の喜びと切り離すことはできません。
私に関する限り、スピリチュアルな努力と
心理的身体的な努力を切り離すことはできません。
これらは、同じレベルで私に直面し、ヒエラルキーがないのです」

それでは、皆さま良いお年を!