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お寺でバロック

日曜はパブロ・エスカンデさんと三橋桜子さんご夫妻からご案内いただいたコンサートに行ってきました。場所は京都市左京区の法然院。哲学の道の途中から東へ坂を上がって行った奥にあります。哲学の道へは時たま行くことがありますが、法然院は久しぶりです。山門がとても素敵。来月になれば、紅葉で人もたくさんでしょうが、夕方近くということもあってかそんなに多くはなかった。でもコンサートには多くの人が来られていました。

今回のコンサートは、初期バロックの作品ばかりで、お二人の他にバロックの演奏家が二人いっしょに演奏されました。チェンバロの他、バロックギター、テオルボ、コルネットなど初めて見たり聴いたりする楽器がありました。パブロさんがオランダから船で送ったという小さなパイプオルガンも。
お寺の本堂の真ん中にチェンバロがある光景はなかなか不思議な感じでした。他の部屋より天井が少し高く、端に向って少し丸みをもたせてあり、思っていたとおり、柔らかないい音がしていました。

今回演奏された初期バロックの作品は、作曲家も曲も知らないものばかり。でも、全体的に優しい音色、歌も含めた楽器の音の溶け合う美しさ、趣向をこらしたプログラム、知らない楽器への興味などからとても楽しめる内容でした。

近頃は、トークも充実しているとよりコンサートの満足度も高まる感じがしますが、今回も初期バロックの作品や楽器などについての説明がたくさんあって、おもしろかった。
バロック時代は即興演奏もさかんで、八分音符を三連符のように弾いていたということは本で読んだりしていました。そういう演奏も聴いたことあります。これは後のジャズのようですが、今回のお話でバロック時代の即興も何かインスピレーションを得て演奏するというよりも、たくさんのフレーズをストックしておいて演奏する時に引き出しからそれを取り出すというようなことを聞いて、そうか、ジャズもそうやって学習すると聞いたな、と思ったのでした。今回の演奏でも、即興演奏の部分があったようですが、もともとの曲を知らないので、どの部分がそうか、ちゃんとわかりませんでした。

休憩時間に、少しパブロさんと話せたので、最近ジャズを勉強しはじめたと言うと、すぐに何が言いたいかわかってくれたようでした。今日のコンサートとの接点。初期バロック作品はより自由な感じがする(クラシック音楽の中で)ということについて共感できました(夫も)。

コンサートの始めに、住職の法話みたいなのが少しあって、仏教は宗派が違ってもそれを認め合う寛容さがあり、それは大切なことであり、日本のお寺でヨーロッパの音楽が演奏されるのも意義深いことであるというようなことをおっしゃってました(おおざっぱな記憶ですが)。
お寺でバロックは、期待通り、いやそれ以上に素敵でした。

バッハを弾く

ダニエル・バレンボイムは『バレンボイム音楽論―対話と共存のフーガ』の中で「私はバッハで育った」と書いています。またバレンボイムの親友であるエドワード・サイードも『サイード音楽評論 2』の中で

「ショパンもシューマンもリストも、さらに彼らに先立つベートーヴェンもモーツァルトも、みんな揃って『平均律クラヴィーア曲集』で育ったようなものなのである」

と書いています。

また、シャルル・ケクランの『和声の変遷』の中の「近代の対位法技法」の中でも、

「近代では、どの若い作曲家もバッハを研究しないものはないし、また―各人各様に―バッハの影響を受けないものはない」

と書かれています。

ショパンがいつも平均律クラヴィーア曲集を弾いていたという話は有名だと思いますし、シューマンを弾けばバッハを研究してたんだろうなと感じられます。

以前に分厚い本も買って最初は張り切っていくらか読んで、その後はまあまあ…。
とにかく何より弾くことによって音楽を感じ、旋律と和声の絶妙なバランスに触れ、自分の感性が磨けたらなと願っています。地道にこつこつと、でも楽しい!

 

「新しい」か「古い」かではなく

今ぼちぼち読んでいるシャルル・ケクランの『和声の変遷』には譜例がたくさん出てきますが、フォーレ、ドビュッシー、ラヴェル、シャブリエ、サン・サーンス、サティ、ムソルグスキー、ビゼー、ケクラン(著者)などなど、響きとしては近代の新しい感じのものがほとんどです(ほとんど知らない曲ばかり。実際音を出してみて、ふうん、きれいなあとか、よくわらからんとか)。
でも、譜例では新しい方法を紹介しつつ、繰り返し、古い手法をおろそかにするべきでないことも念を押すように書かれています。
例えば次のように。

(序)
「私は学生たちに―これは大変大切なことである―決して不協和音の中に身を没してはならぬと注意しよう。しかるに学生はあまりにもかたくなな熱意のままにその中に溺れている。それは彼らが完全三和音の美感覚を失ったからである。完全三和音のあの洗練された内的な本質を味わうには真の教養というものが必要なのである。しかし、独創的であろうと心をくだき、平凡さをおそれるというのならまた話は別である。たしかに平凡であってはならないし、又真の美を含むものは何かの点で独創的である。しかし芸術家があらかじめ、人の踏んで来た道をさけようと考えたところで、決して独創的になったとはいえない。(中略)芸術家が斬新で個性的であるという特権を持とうとするには、ありきたりの和音を一生懸命さけたからといってそうなるものでない。また、平凡さを救うものは、多調音楽であるのでもない。」
「ここでは近代の不協和音(往々にしてやわらかい)の一般的な発展について研究すると同時に、新しい和音形式を分析するのであるが、しかし決して万能薬とも言うべきものをお見せしようというのではない。くりかえしていうが、学生諸君―および音楽会の聴衆諸君―決して、過去のものを軽蔑したり、素朴なスタイルを軽んじたりしてはならない。」

(第五章 特殊例)
「本書は新しい音楽語を研究しようというものであるが、在来の和音もなお可能であるということを指摘しておきたい。」
「作者のファンタジーや感情を正確に表現するためにどのような和声にすればよいかと言うことについては法則もなければ定まった手法もない」
「古い完全三和音またはその方式を新しい個性的な方法で用いることもできるからである。」

そして「第六章 近代の対位法技法」で、近代の作曲家たちがは皆バッハを研究し影響を受けているという話につながっていきます。
以前、武満徹について書いたことがありますが、武満徹が晩年調性音楽寄りになっていったことについてかなり批判を受けたということに、なぜそうなるんだろうと違和感を持ちました。作曲家は常に新しいものを求め続けなければならないから、それは調性を感じるものではいけないのかと。そうじゃないんじゃないかと。
それで、この本もですが、オリヴィエ・アランの『和声の歴史』や、アンリ・ゴナールの『調性音楽を読む本』を読んで、大切なのはやはり新しいとか古いとかじゃなくて、「音楽」なのだと再認識しています。著者はみんなフランス人なのですが、物事を多面的にとらえて深く考察し、こちらに考えるための色々なヒントを提供してくれるという点が共通していると感じます。芸術に、音楽に答えはないから、どのように向き合うのかということが重要であると思うし、そのことについてとても心強い助言を得た気がしています。
『和声の変遷』はまだ途中ですし、その他の本もとても密度が濃いし、また読み返して感動したいです。

音楽性というものは

少し前に、シャルル・ケクランの『和声の変遷』という本を買いました。京都芸大図書館で下見をして、欲しいと思っていました。でも古い本で普通の本屋さんでは手に入らないのでネットの古本屋さんで見つけました。紙は茶色くなってるし、所々鉛筆で書き込みもあり(消しゴムで消せるからよかった)、少したばこのようなにおいもしますが、それでも見つかってよかった。
譜例がたくさんあって、音を出しながら読み進めていていますが(参考になってるかどうかわかりませんがとりあえず)、音を出せる時間帯はなるべくピアノの練習や作曲などをしているので、なかなか先に進みません(ようやく5分の1くらいで止まってます)。でも、すでに興味深いことがいくつかあって、それは理論についてというより、音楽への向き合い方のような考え方についてです。
一例をあげてみます。途中の「特殊例」という章に次のようなことが書かれています。

「和声学の法則や禁止が現代の音楽家によって大抵は破られている。五十年前の人たちはそれほどこれらの法則を犯さなかった。そして十八世紀 ―あるいはそれ以前の― 大家たちは、これらの法則とは全然ちがう用例をしめした。ベートーヴェンの考え方(彼曰く、“法則は私のする通りになっている”)や、グルックの考え方(“音楽として要求されるならば、私の犯さなければならぬと信じたものはもはや法則ではない”)については既に誰もが知っていることである。」
(中略)

「音楽性というものはきわめて神秘である。どの作曲家もみな同じ音楽性をもっているということはない。ただし音楽性が存在するという点では、すぐれた音楽家たちはみな共通している。(しかし場合によっては意見の異なることもある)
“美の法則”を数理的に樹立しようという理論にとっては、音楽性というものは厄介なものである。“芸術の数理的理論”というものは論じる価値はあるが、それは量的には説明しえない要素を含んでいる。つまり、その要素というのは、質的なものであって量的なものでないところの人間の感情である(ベルグソン)。

この人間的な要素がつねに芸術の根底にある。それは数だの大きさだのによっては分解できないものである。人間の魂とその表現(芸術の物的手段によってなされる表現)、この間の関係は、心と物、質と量、無限と有限等におけると同様に神秘なものである。
したがって、過去および現在の大家たちの作品に見出される数多くの特殊例は一々非難したり懸念したりする必要はない。今日以降も、またちがった特殊例が見出されるであろう。そして、それらはすべて理論では証明できぬものであろう!」

“人間の魂とその表現”。まさに、日々その狭間を行き来している気がします。音楽性とは神秘であり、無限ですね。どこにも答えはないから終わりがない。
理論の部分はまあまあ適当にとばしつつ目を通して、こういった部分は何度も「そうそう」と思いながら読み返している感じです(笑)。

 

『オペラをつくる』より

『オペラをつくる』(武満徹・大江健三郎著/岩波新書)という本を多少おおざっぱに読みました。この本は1990年に出版されています。武満さんが66歳で亡くなる6年前です。
実際に具体的なオペラ作品をつくる過程というよりも、ブレーンストーミングを行っているような内容で、様々な小説、映画、オペラを例にあげ、表現ということについて多くのことが考察されています。
武満さんがオペラに興味を持ち始めたのも、既成のオペラの影響よりも、文学、映画、演劇などの表現方法から色々な刺激を受けてのことのようです。

ここに紹介されているような、小説、映画は恐らく私はあまり読んだり観たりしたくないようなものが多そうだなというのが私の感想ですが(経験上、いくらそこに多くの意味が含まれていても読んだり観たりしたあとに気持ちが重くなるものが苦手なので)、その肝心な作者が作品で表現したいもの、その手段などについて両者は語っていて、物語についてはごく簡単な説明のため、あまり重い気持ちにならずに(でも想像してしまう)そういう見方もあるのか、と興味深く読める部分がたくさんあります。

武満さんは音楽家として、大江さんは作家としての表現について多くを語られていますが、やはり作曲家の武満さんの言葉により興味があります。音楽やそれ以外のことから何を感じていらっしゃったのか。少し長いですが、そのうちの一部分を引用したいと思います。

「こんなことは人に話すことではないし、ことに音楽を専門としている人が聞いたら笑うかもしれないけれども、僕はどういうわけか、鯉の滝上りじゃないけれど、歴史を逆に歩いている、音楽史を逆に歩いているみたいなところがある。やっと最近になって古いものに興味を持ち出してきた。自分ではそのことを非常に警戒しています。老化じゃないか、精神が弱くなってきているんじゃないか、肉体が衰えてきたから精神も弱くなってきているのじゃないかなどと思いますが、そうとばかりも言えないたとえばモーツァルトを聴いたり、ベートーヴェンを聴いていると昔よりたいへん打たれるときがある。それはどういうことに打たれるかというと、僕も曲がりなりに音楽を三十年以上やってきて、ある程度技術的、経験的に、自分の技術でこういう音楽をつくることができるといちおうはわかる。しかし、モーツァルトをなにげなく聴いているとき、自分がいままで取得した技術で、これはこうなっているからこういうふうにひびいているのだということはわかる。
ところが真面目に、僕が主体的に真面目になるのではなく、モーツァルトの音楽がたまたま真面目にさせるのですが、ちょっと聴いてみると、僕はとてもこういうふうにはできないという異常なものが見える。

それは具体的にどんなことなのかというと、たとえばモーツァルトの晩年のシンフォニー(四十番)をみると、主題である旋律は実に簡単なものだ。たった二つの音しかないのですが、それですべての音楽の力学というか、これは西洋音楽のことですが、はっきりわかる。たった二つの音のつながりだけなのに、そこに他の音楽とはまったく異なった独自のひびきの世界がある。そういうことがなぜ生ずるのかということは、いまの僕には非常に大きな問題なんです。
自分の技術でいろいろな旋律をつなげてあるアラベスクをつくって、おもしろい音響空間をつくるということは、さほどむずかしくはないです。ところが、たった二つの音で、これはベートーヴェンもそうです。タタタターン(運命)。そこに総体としてあるものの重さは、そんなに単純なものじゃないということがわかるのです。それはある程度自分が音楽をやってきて自ずからわかってきた。そうしたことを理解できるようになったことが、はたしていいか悪いかはわからないです。モーツァルトにしてもベートーヴェンにしても、”最後の作品” といえるようなものを書いている。そういうものをいくらか理解できるようになった。感覚的にも理解できるし、知的にも理解できる。総体として人間の表現というか、それを書かずにはいられなかった人間というものをいくらか身近なものに見えるようになったのです。

それは作曲の技術とか、そういうことで言えばなんでもなく解析される事柄でしかないのですが、しかし、たった二つの音をつないでいる意思というか、それは物理では説明できないものです。そういうものが人間を動かしている。そうなってくると西洋音楽だろうが、アフリカの音楽だろうが、東洋の音楽だろうが、なんの関係もないのではないかと思えてきます。
そうした根底的に、普遍的な原理というものは、大きなオペラをつくるときにことに大事なのではないかと思います。非常に単純でいて複雑。うまく言えませんが、自分が音楽をやってきて、直感的にそう思うようになってきた。しかし、自分がこういう音楽をやってきて、最初に西洋の音楽をはじめて、途中で伝統的な日本の音楽に気づいたり、他の音楽に気づかされたりして、しかもやっぱり西洋音楽のなかにある ― もちろん西洋の中にもつまらない、装飾的な、芸術音楽としてつまらないものがあり、おもしろかったり、慰められたりするものはあるのですが、そうじゃなくて ― 本当に最初のもので、同時に最後のものであるようなもの。永遠なるものをいつももっているようなものが、西洋芸術のなかに多くあるのではないかと思います。」

この始めのあたりを読んで、私はどちらかというとバロックからロマン派くらいまでの形式に無意識にとらわれていた部分があると最近意識し始めたので、逆かな?と思ったりしました(振り返ればロマン派のあとの作品よりもはるかに長い時間それ以前の作品に接してきている)。
それで引用して記事にしてみようと思いました。そこから後の部分もいいことが書いてあるので続けました。
武満さんはドビュッシーが好きなようでしたが、ドビュッシーは古典的な手法をどんどん壊していったような人で、武満さんはそのあたりからスタートして何年もたって古典に向き始めた。
私はむしろ、もっと新しいものを聴いたり研究した方がいいなと最近思っています。好き嫌いはともかく、それほど積極的でなかった新しめの音楽も聴くようにしています。やはり選曲はしますが(無理なものは無理(笑))。そうすると案外、いいなと思うものにも出会います。シャルル・ケクランやその弟子のタイユフェールなども最近聴いている作曲家の一部です(クープランもケクランの弟子と最近知りました)。
実際武満さんは、1994年のリヨンの新しいオペラ劇場こけら落としの作品を委嘱されてたんですね。
志半ばで、さぞ残念だったと思います。

クラシック音楽におけるポピュラー性とは?

シェーンベルクの『作曲の基礎技法』の中に、「ポピュラー調」、「ポピュラー性」という言葉が出てきます。前回のブログで武満徹がポピュラー音楽を嗜好したという、一柳彗さんの分析について書きましたが、例えばシェーンベルクは次のようなことを書いています。
「シューベルトの多くのメロディーがポピュラー性をもっているのは、ポピュラー音楽に見られるように、一つのリズム形が、たえず反復するからである。しかし、シューベルトのメロディーの高貴さは、そのゆたかな旋律線のなかに、本来のものとして秘められている」
また、
「彼らは、自分のテーマに、ちょっとした「ポピュラー調」を求めた。
(彼らはクラシック音楽の巨匠のこと)
クラシック音楽における、ポピュラー性とはやはりその言葉のとおり、わかりやすさ、親しみやすさということになるような感じですね。
バロック、古典、ロマン派(後期途中くらい?)くらいまでのクラシックはそういう意味ではわかりやすい、感情移入しやすいものが多かったのかもしれません。その後、だんだんとポピュラー性を排除していった(それが目的でなくても結果的に)のが、一般的に現代音楽と呼ばれているものでしょうか。
私はやはり自分の音楽を、「わかってほしい」からポピュラー調路線ですね(笑)。

一柳彗さんの語る武満徹

作曲家でピアニストの一柳彗(いちやなぎとし)さんの『音楽という営み』(NTT出版)という本を読んでいます。1998年出版で少し古いですが、西洋と日本の音楽の違いを中立的な視点で分析されているなど、非常に興味深いテーマについていくつも書かれています。
この本の中の、「同時代の作曲家」という中で武満徹について書かれています。一柳さんは武満さんとのつながりが深かったようで、一柳さんの分析する武満徹像は興味そそられます。特に気になった一部を引用します。

「武満の音楽に対する姿勢は生涯ほぼ一貫していたと言ってよいだろう。たしかに、詩的なたたずまいのなかで緊迫感が持続する初期の作風とくらべると、七〇年代から晩年までの作品は成熟度が高まるにつれ、先鋭さが影をひそめてくる。晩年の作品では、古典的な三和音を意識的に用いた耽美的な音色や、たゆとうような甘美な旋律がしばしば用いられており、ケージが六〇年代に述べていた甘さがいよいよ目立つようになってくる。現代の作曲家で古典的な三和音を度々使用した作曲家は武満くらいであろうが、私にはそれは、クラシック音楽から援用されたものというより、武満のポピュラー音楽への嗜好がそうさせたものと受け取れる。
武満は自らを、ドビュッシーと関係づけて意識していた面があるようだ。ドイツの音楽の重々しい石の建築物のような有機的な構築性より、ドビュッシーの音楽が内在させている自然との交感や文学性、音楽的には多彩な音色や瞬間瞬間の独立した響きが織りなすテクスチュアに共感を覚えたのであろう。武満の音楽の洗練された内容は、たしかにドビュッシーを彷彿させるものがある。」

このあたりを読んで思ったのが、ここでいうポピュラー音楽とは何か?ということです。現代、音楽ジャンルとして一般的に言われているポップスやロックと言った意味ではないように感じました。より、一般の人(専門家、マニアではない)にわかりやすい音楽ということではないかということです。私も武満徹の歌曲は好きです。やはりわかりやすいからだと思います。「甘い」とか「ポピュラーである」ことは現代音楽の作曲家としては、あまり評価されないことなんでしょうかね? とても気になるテーマです。

ちなみにジョン・ケージは一柳さんに「私はトオルの音楽の甘さには耐えられないが、彼は人物としてはすばらしいと思う」と言っていたということです。

また、おもしろいなと思ったのは、ドビュッシーに傾倒していた武満徹は十代で一柳さんと付き合い始めたころ、作曲家になるか、美術評論家か迷っていたそうですが、ドビュッシーも音楽と同じくらい絵が好きで、葛飾北斎など日本の画家に強い影響を受けて作った作品もあるということです(ドビュッシーのエピソードは以前別の雑誌で読みました)。武満徹はドビュッシーの音楽の中にある「絵」を感じたのかもしれませんね。

私は武満徹についてはそれほど知りませんでしたが、一柳さんの文章を読んで興味が深まりました。実は私は人の作品ややっていることは内面の表れであると思っていて、その人が何を考え、どんな人物であるかということの方により興味を持ちます。例えばダニエル・バレンボイムの音楽はほとんで聞きませんが、彼の哲学には強い関心があります。そういう人は他にも何人かいます。一柳さんの曲もまだ聴いたことがありませんが、こんな素晴らしいことを色々考えている人がいたんだと思いました。音楽も聴きます、近々(笑)。

日本テレマン協会の「福袋コンサート」

最近、作曲とImprovisation(即興)の関係についてあれこれ考えているさなかですが、今日はパブロ・エスカンデさんからお招きいただいたコンサートに行ってクラシック音楽を楽しんできました。日本テレマン協会のマンスリーコンサート(室内楽)ですが、今日のタイトルは「New Year’s Gift 福袋コンサート」でした。さすがパブロさんらしく、テレマンからクライスラーまで変化に富んだ楽しいプログラムでした。

ゲストのソプラノが歌われた、ヨハン・シュトラウス二世の「春の声」の演奏はワルツのリズムにとてもわくわくしたし、クライスラーの「プレリュードとアレグロ」は大好きな曲で、生で聴けてやったーという感じでした。素晴らしい演奏でした。
これらの曲は花があるというか、気持ちが高揚しますね。静かな曲が心を安らかにするのに対して対照的で、どちらも音楽の素晴らしいところだと思います。
パブロさんは前半はチェンバロ、後半はピアノ伴奏でしたが、本当に何でも弾かれるしいつもすごいなと思います。
そうやって聴きながら、いつも自分の音楽についても考えています。いい刺激となります。

サロンでイタリアンバロック

昨日の夜は、淀屋橋の大阪倶楽部で行われた、日本テレマン協会のサロンコンサートへ行ってきました。今回のタイトルは『リコーダーとバスで辿る…イタリア・バロックの系譜』というもので、このコンサートの音楽アドバイザーのパブロ・エスカンデさんからお知らせいただいていました。パブロさんは今回はずっとチェンバロでした。

出発する直前に夫の仕事の電話が長引いて、7時の開演に10分ほど遅れてしまいました。到着するとサロンの扉2か所が開け放たれホールの外のロビーに椅子が並べられていて、中に入りきれないお客さんがそこに座っていました。私たちは最後尾に椅子を用意していただいて座りました。大きなコンサートホールなどではあり得ないことですよね(笑)。でもその柔軟な感じがいいです。音がやや聞こえにくかったですが、まわりが広々していて雰囲気も良く十分快適でした。そして出演者は私たちの座っているすぐ近くで待機していて、パブロさんとも前半が終わった後とコンサート終了後すぐに話すことができました。

前回のテレマン協会のコンサートは、トルコがテーマでしたが、パブロさんの選曲や編曲はオリジナリティが感じられてとても楽しめます。昨日はヴィバルディ、コレッリ、スカルラッティの曲でしたが、リコーダーとバスが主役でほとんど知らない曲ばかりでした。
ディレクターの延原武春さんはトークがとてもおもしろく演奏者を巻き込んで笑いを誘うのですが、実はとても大事なことではと最近思います。トークが楽しいと場が和みます。演奏者も聴衆もとてもリラックスしたムードの中で音楽を楽しめる。

昨日の朝のコンサートで私もマイクを用意していただいたのですが、もっとうまくしゃべれるようになりたいなと思っています。普段知らない人でも平気で話しかけられるくらいですが、多くの人の前でしゃべる時は誰に向ってしゃべっているのかわからない妙な感覚になります。でも曲や作曲家のエピソードなど紹介して知らない曲でも興味をもっていただき、なごやかな雰囲気の中で聴いていただきたいというのが私の思いです。そのためにはトークの技術も磨かねば!(笑)

ピアノで歌う

しばらくショパンは弾いてなかったのですが、最近ショパン気分です。ノクターンやプレリュードなどの中から何曲か弾いていますが、以前よりいっそう曲の中の歌を感じて、弾いたことのある曲をもっと「歌いたい」気持ちで弾いています。
モーツァルトもショパンも「歌う」ことが大切であると言っていた作曲家です。ショパンはモーツァルトのように自分が書いた文章をあまり残していないようで、『弟子から見たショパン』(ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル著・米谷治郎/中島弘二訳/音楽之友社)はとても貴重な資料だと思いますが、この本の中に、ピアノを使って歌うことをたびたびレッスンで言われたという弟子たちの証言があります。
少し引用します。

「ショパンが(わたしの勉強について)尋ねましたので、わたしは歌を聴くのが何より役に立ちました、と答えました:「それは結構なことです。そもそも音楽は歌であるべきなのです」と、彼は教えてくれました。ショパンの指にかかると、ピアノはほんとうに様々な歌を歌うのでした。」(匿名希望のスコットランド女性/ハデン)

「ショパンはレッスンをしているときも、「指を使って歌うのですよ!」と、いつも言っていました。」(グレッチ/クレヴィンク)

「ショパンが弾くと、フレーズはみな歌のように響きました。澄み切った音色に耳を傾けていると、音符が音節で小節が言葉となって、個々のフレーズが思想を表現しているように思われてくるのです。彼の演奏は、大言壮語のまったくない、簡潔で気品のある朗読のようなものでした。(ミクリ/コチャルスキ)

「(ショパンの曲を演奏するには)今弾いた音を、最後の瞬間にまで響かせて次の音につなげることです。とにかく絶対に誇張してはいけません。」(クールティ/アゲタン)

ショパンはモーツァルトを「神」と言っていたと、この本か別の本かどこかで見かけました(この本だけでも分厚くて一度見失ったらどこに書いてあったっけ?と探すのも一苦労)。
私はこの二人の作曲家に、誇張を嫌うという点や歌うことを大切にしている点など共通性を感じています。
ピアノを使って「歌うこと」は本当に楽しいことです。あとはそれが人に伝わるよう、よりよい歌をめざし続けます。