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ショパンの演奏美学

レッスンで話題になった(前回の記事で書いた)『弟子から見たショパンーそのピアノ教育法と演奏美学』(ジャン=ジャックエーゲルディンゲル著/音楽之友社)を少し読んでいます。とにかく、分厚い本ですし(注釈も細かく多い)、多分今回も自分の興味がある所を選んで読むだろうと思います。

とりあえず、「序」の中にとても興味深い部分があります。時間がたって記憶があいまいですが前回読んだ時もそう思ってたはず。ショパンのこだわりが感じられる箇所で共感を覚えています。一部ご紹介します。

「ピアノを弾きたいのなら、歌わなければなりません」

P20

「(ショパンの)声楽へのこれほどのまでの愛着と、人を圧倒するような大音量を拒み、自然で素朴な演奏を好むことには、何らかの関係があると見て然るべきだろう」

P21

「(ショパンは)あまりに狭い職人芸的な見方に反対して、技術の習得はもっと芸術的なものだと主張している。空疎な練習を機械的にくり返してだんだんマンネリになるかわりに、聴覚を極度に集中させるのが彼のやり方なのだ!
このような集中によって、すばらしい音色を得るには不可欠な二つの要素が確実に得られる。耳が良くなり、筋肉を自由に動かし弛緩させることができるようになるのである。ショパンによれば技術とは、名人芸を身につけることよりもまず音の響き具合であり、タッチの用い方なのだということをもっと認識する必要があるのではないだろうか。「だからタッチにふさわしい腕の位置さえ覚えてしまえば、このうえなく美しい音色は自ずと得られ、長い音符も短い音符も思いのままに何でも弾けるようになる」

P22

「当時のピアノ教師たちは、無理な練習を重ねて強制的に指を「均等」にしようとしていたのだが、ショパンはその逆を行って、指の個性、つまりもともと「不均等」なものこそ多様な響きを生み出すものとして、むしろ助長していったのである。(中略)こうして彼は弟子に、退屈なばかりか生理学的にも無理を伴う練習をさせず、弟子の奏でる色彩あふれる響きの多様性を一挙に開花させていったのである。

P23

松田先生にも教えていただきましたが、ショパンの目指す音楽とそのための奏法はロシアピアニズムと重なる部分があると改めて感じます。この本を何年か前読んだときは、ロシアピアニズムについてあまり知らなかったので、今回は改めて新鮮な驚きがあります。

共通すると感じる点はピアノで歌うこと、そのためには機械的な練習ではなく耳を研ぎ澄まし音色を聴くこと、美しい音色のためにはそれにふさわしい体の位置を知り、使い方を身につけること、そういったことです。

また、上の引用の中に「生理学的にも無理を伴う練習」というのがありますが、手や指が強い負担を感じるような練習というのは、それによって多少思うようになったとしても、いずれ手の故障につながる心配がありますよね(『ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと』にも書いてあるように)。例えば指の独立のために特に上がりにくい薬指を高く上げる練習というのもまだあるようですが、手の構造上かなり無理がありますよね。その前提がハイフィンガー奏法だから、奏法が変わればその必要もなくなりますね?
ショパンは体のことを理解した上で、当時のやり方とは違った合理的な考え方で弟子を指導していたということですから、弟子の証言満載のこの本はやはり参考になりそうです(以前ある程度は読んだのですがみんなショパンをほめちぎっているという印象。彼は教育熱心でヨーロッパ各地からショパンの教えを乞いに弟子が集まったとか。その数は正確にはわからないが記録による研究では150人(おそらく長・短期入れて)に及んでるのではないかと。その間に作曲してたとかすごすぎる)。

私がロシアン奏法を習おうと思ったのも、音色や表現をもっと豊かにしたいからです。ロシアン奏法はクラシックの奏法ですが、その奏法を通して自分の音楽表現(ジャンルでくくらない)を良くしていければいいな、自分が前より少しは良くなったかもと思えることができれば、それが続いていけばいいなと思っています。また、これらのことがピアノを弾いておられる方々の参考になれば幸いです。

最新版ではなく私の持っている本です。引用もここからです。

ロシアン奏法とショパンの教えの共通点

今日のロシアン奏法レッスンで、松田先生が『弟子から見たショパン』(ジャン=ジャックエーゲルディンゲル著/音楽之友社)の話をされました。この本はだいぶ前に買って、まだ全部読めず置いてあるのですが、ショパンが指示している弾き方にロシアン奏法と共通する部分があるということです。手の傾け方や、タッチの方法など。該当箇所を教えていただいて、なるほど。ただ、先生のお持ちの本は増補最新版で中身がちょっと変わってそうです。
ショパンが、手の形を理解して無理な弾き方をしないという合理的なことを言っていたことが書いてあったとぼんやり記憶していますが、その他の細かい部分は覚えていないし、また読もうかなと思っています。

ショパンが体のつくりを理解してピアノを弾いていたのと対照的に、同時期の作曲家、シューマンは手に負担のかかる間違った練習をしてしまって手を痛めピアノが弾けなくなってしまった。昔はヨーロッパでも手を鍛えるために変な器具を使ったりしていたみたいですね。

今はまだ、ロシアン奏法の基礎をやっていて、まだ感覚的につかめるには時間がかかりそうですが(当然です!)、普通の曲を弾くとこれまでのように弾いてしまうから、ちょっと控えた方が良さそうです。これまでもそうですが、これからもちょっとずつ地道にやっていくのみです(汗)。

音色に目覚めたできごと

もう何年も前になりますが、ポーランドのピアニスト、アンジェイ・ヤシンスキ教授の公開レッスンを見に行ったことがあります。その時の経験が私がピアノの音色に目覚めるきっかけになったと思っています(確か)。公開レッスンですから、先生は自分のリサイタルのようには演奏されないわけですが、合間合間にさらっと見本に弾かれます。その時に聴いたヤシンスキ教授のモーツァルトにはっとさせられたのです。気楽に弾いている感じなのになんという音色。ピアノからあのような音が出るのかと(ちなみにヤシンスキ教授はショパンとモーツァルトがお得意なようです。ボーランド出身ですからね、ショパンコンクールの審査員もされている)。

それからしばらくは、モーツァルトを少しでも美しく弾くことに挑戦していました。下部雑音が混ざらない方がいいのかとか、色々研究もしました。下部雑音を意識しすぎると、打鍵が浅めになり不安定になる。それで、ピアニスト内藤晃さんが書かれた「ピアノでオーケストラを」という冊子を読んでいると、「下部雑音の有無を用いて音色をコントロールする」ことについてなど書かれていて、そうか、曲にもよるだろうけど使い分けが必要なのかと思ったり。なかなかイメージしている演奏には近づけない(汗)。

まあ、そんな経緯があって、音色というものにより注意がいくようになったのです。
ここ何年かは自作曲を作って弾くことが多かったのですが、テンポがゆったり気味でシンプルなものが多い。そうすると自然と出している音一つ一つがわりと良く聞こえて、音質チェックができる。それで、ピアノの残響がきれいなあとか感じているのですが、これはまさに倍音を楽しんでいるんだなと思っていました。

なので、最近読んだ『ロシアピアニズム』(大野眞嗣氏著/yamaha music media)に倍音を響かせる弾き方について書かれていたのを見て、自分はわりとそのつもりなんだけどなあと思っていました。

そして、前回の記事で書いた話につながるのですが、調律師さんが弾き方によって基音と倍音のバランスが変わり音色が変わるということをピアノの構造から説明されるのを聞いて、改めてさらに倍音を響かせる弾き方があると認識しました(何も考えずに弾いても弦は共鳴するから倍音は出ているんだけど)。

そして、松田紗依先生のレッスンで目の前でタッチの違いによる音色の違いを聞いて、感動したわけです(笑)。

今回この記事を書くにあたって、内藤晃さんの「ピアノでオーケストラを」、『ピアノの演奏と知識』(雁部一浩著/音楽之友社)→(この本は確か音色に目覚めるよりずいぶん前に読んだのですが、当時、ピアノの構造上、ピアニストが意図的に操作できるのは音の「長さ」と「大きさ」だけ(雑音効果をのぞき)と書かれているのに対して、そんなもんだろうか?と思っていました。今回、それは違うだろうと思えるようになりました)、そしてヤシンスキ教授の公開レッスン時のメモをチェックしました。

そのメモの中に、「打鍵後、リボンを引っ張るようにその強さを変える」というのがありました。これがもしかしたら、鍵盤の上で指をすべらせる倍音を響かせるタッチのことだろうかと、今頃思いいたりました。当時はメモはしていたけどそこまで考えていなかったと思う。けれど、メモしておいて良かった(笑)。

ヤシンスキ教授の演奏、生で聴く機会はもうないでしょうけど、YouTubeにあったのを見つけました。

それとはまた別に、たまたまYouTubeで倍音について説明されているジャズピアニストの動画を見つけて、なんとなく聞いていたんですが、一通り説明が終わったあと、質問者が、ピアノを弾かれるとき倍音を意識されていますか?と尋ねると、そのピアニストは少し考えてから、いえ、ほとんど意識しません、その他のことに意識がいっているのでと答えられていました。ジャズピアニストの場合、やはりアドリブとか考えることがいっぱいあって大変なのかもしれません。また音数の多い、速い曲などの場合もそういう響きを感じるチャンス自体少ないかもしれない。

ピアノという楽器は音と音の間に段差があり(半音、例えばドとドのシャープの間は音がない)、弦楽器や歌に比べ、「歌う」点において不利な楽器で、不利な点を補う方法の一つとして倍音を生かすというのがあると思います。

先日のレッスンで、松田先生がチッコリーニのテクニックについて弾きながら説明されました。チッコリーニ……すぐに思い出せなかったけど、音源も持っているし、以前本も読んだことがあるのを思い出しました。その本についてブログに書いていたことがあります(美しい音をめざして)。その中からの引用です。

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アルド・チッコリーニが5歳で初めてピアノを習った時の先生が言った言葉です。

「アルド、綺麗な音を出して頂戴! 私に美しい音を下さい! とても表現力に富んだ麗しい音の調べが欲しいの」

『アルド・チッコリーニ わが人生』(パスカル・ル・コール著/全音楽譜出版社)

ちょっとショックなくらい、感心しました。レッスンを始めた時から、自分の出している音を意識させるとは、とてもすばらしいことだと思いました。

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『ロシアピアニズム』に、日本ではデュナーミク(強弱)によって変化をつけ、音色そのものにこだわる指導をしている先生は少ないというようなことを書いてありました。私も自分の経験を振り返り、確かにそういう傾向があるかなと思っています。

この3年ほど前の記事でも、「これからも、美しい音をめざして修行を続けます!」と書いてました(笑)。はい、まだまだ続きます(笑)。

学びは続くよ

最近では、YouTubeなどで多くのピアノの先生、ピアニストなどがピアノの練習方法、奏法、音楽表現についてなどを実際に弾きながら説明する動画をアップされていますね。そのことによって色々な考え方、方法があることもわかります。昔なら、自分の習っている先生のやり方が一番正しいと皆思っていたかもしれないけれど、簡単に色々な情報にアクセスできる今は、何が正解なのかわかりにくくなっているとも言えると思います。

こういった動画を色々見ていると、初心者の人なら何をお手本にすればいいのか迷ってしまうだろうし、経験者でも自分のやってきた方法はこれでいいのか、考えさせられるかもしれません。

ただ、それは当然かもしれません。もともと音楽に「正解」などないのだからね。ずっと考えたり迷ったりしながら、やっていくものだと思います。まずは自分がどうなりたいのか、どんな音楽をどのように表現したいのかをイメージし、そのためには誰を見本にしたり、誰の考えを参考にしたりしていけばいいのか、共感できる人の力を借りながら自分で考え、学んでいくもんじゃないかなと思います。

今また『ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと』(トーマス・マーク他著/春秋社)をパラパラ読んでいますが(久々に読んでまた面白いなと思っています)、最初に読んだときにとても印象に残っている部分があります。もしかしたら、以前もブログで書いたかもしれません(今ネットに上げてる記事以前にも長年たくさん書いていてもはや何を書いたか書いてないか覚えていない)。

アルトゥール・ルービンシュタインが80歳を超えたころに言ったそうです。―「この歳になって、私はようやくピアノを学び始めた」と。
彼は60年以上のあいだ世界的に有名なピアニストであり続けたのですから、このような発言は冗談としか思えないものかもしれません。しかし、彼は本当に誠実な人でしたので、彼のこの発言は、新鮮さ、生命への愛、そして新しい経験を常に受け入れるといった、彼の性格と人生への姿勢を証明しているものであると、私は信じています。

P174

まるで次元の違う人の話ですが、その人にとっての目指すものはそれぞれで、学ぼうと思う限りずっと学ぶことになるんだろうなと思えます。

私も日々迷いながら、考え、試み、また考えと繰り返しています。でもそうやって向き合えるものがあることは幸せだなと思っています。80歳になってもルービンシュタインみたいなセリフを言えれば最高じゃないですか。それだけ前向きにやれているということだからね。


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感じ方が変わった??

今日はちょっと「あれっ」と思ったことがありました。何年かぶりにアルベニスの『プレガリア』という曲を弾いたんですが(弾くと言っても練習してないから、ゆっくり確かめるように)、以前はどうしても「泣ける」曲だったのが、今日は泣かなかった(笑)。弾く前からそんな予感はしていましたが、やはりその通りだった。

以前、ブログにこの曲について書いたことがあるんですが(『いつか弾きたい曲』)、なんか謎に琴線に触れる曲で、涙で譜面が見えない(だからまともに弾けない)という珍しい曲でした。

弾いてなかった何年かの間に、私に何が起こったのだろう(笑)。鈍くなったのだろうか(汗)。いや、先日『大きな古時計』を弾いていて泣きそうになったよ(笑)。

今日は必要以上に感情に流されず、曲をじっくり味わうことができました。ゆっくりと歌うように響きを聴きながら弾くのはとても心地がいい。考えてみれば、前述の記事を書いたころに曲を作り始めています。それから少しずつ音楽に対する向き合い方も変わってきた。それで、今日は作品としての興味も感じながら多少冷静に接していたと思います。それが理由かはわかりません。無意識の中で起こっていることは、わからないものだと改めて認識したのでした。これで、また機会があったら弾くことができそうです。

ちなみに、ずっと前に書いた『どうして涙が出る?』という記事は、私のブログ記事の中で最も読まれている記事です。今日は「どうして涙が出ない?」です(笑)。

シューマン「子供の情景」

ふと、シューマンの「子供の情景」が弾きたくなり、とても久しぶりに弾きました。「子供の情景」は短い小品ばかりですが、バラエティに富んでいるしポリフォニックで素敵な曲がたくさん。一般にはトロイメライくらいしか知られていないのではと思うのですが、もったいない。

「子供の情景」は子供のために書かれた曲集ではなく、シューマンがクララと結婚する前、早くクララと結婚して子供のいる家庭を築きたくて待ちきれず作ったという話を、昔ピアニストの宮崎剛さんのレクチャーコンサートで聞いて笑ったのを覚えています。

日本語のタイトルは次のようです。

1.見知らぬ国と人々について
2.不思議なお話
3.鬼ごっこ
4.ねだる子供
5.満足
6.重大な出来事
7.トロイメライ
8.炉辺で
9.木馬の騎士
10.むきになって
11.こわがらせ
12.眠っている子供
13.詩人は語る

ぱっと見たらおとぎ話のタイトルのようですね。トロイメライだけは日本語に訳されてないですが、「夢」という意味だそうです。

シューマンは文学への造詣も深く、文才もあり、作家になるか音楽家になるか迷った時期があったというくらいで、言葉に対するこだわりが「子供の情景」以外の彼の曲のタイトルからも感じられます。

シューマンは同じロマン派のショパンと同年代で、どちらもバッハを熱心に勉強したようですが、この二人の音楽はかなり違うというのが面白い。ショパンは曲ごとににタイトルをつけない派であるのに対し、シューマンはつける派。タイトルのバリエーションが豊富なのと曲のムードのバリエーションが豊富なのと関係あるのかな?と改めて思いました。

シューマンの本は持ってますが(『シューマン』藤本一子/音楽之友社)、この記事を書くにあたり、調べたいことがどこに書いてあるか探すのも大変だからウィキペディアを見てみると、シラーやゲーテにに強い思い入れを持っていたことを見つけて、ベートーヴェンと同じだなあとまた興味を新たにしました(ベートーヴェンの本 その2)。

「子供の情景」だいぶ色あせてしまっています

ベートーヴェンの本 その2

先日、『ベートーヴェンの生涯』(青木やよひ著/平凡社)を読み終えました(改めてもうちょっとじっくり読みたいですが)。いやあ、良かった良かった。

興味深く感じた個所は山ほどあります(笑)。ご紹介しきれませんので、興味のある方は読んでください(笑)。それで、最も強く印象に残った事柄について書きたいと思います。超有名な『交響曲第九番』が生まれた背景についてです。ちょっと固い話と感じられる方はスルーしてくださいね。

著者、青木やよひさんの考察になりますが、まず、ベートーヴェンにとって「神」とは何だったのかという問いかけがあります。彼は「神」というものをいつも身近に感じていた。それは、「人間の良心のよりどころとして」そして、「苦難の癒し手として」。

ベートーヴェンにとっての最初の「神」は、洗礼を受けたボン(ドイツ)の聖レミギウス教会。この教会が属する宗派は「自然への愛好」「人間同士の友愛的連帯」「異教への寛容」を特色としていた。その教会で、ベートーヴェンは少年の頃よりオルガンも弾いている。

その後、ベートーヴェンはキリスト教以外の宗教や様々な思想にも出会う。

「古代ギリシャの詩人たちの作品やカントの自然史研究の理論書などの他に、インドの聖典や宗教書などに深く共感し、それらからの引用を数多く『日記』に書き残していた」

一方で、聖書からの引用は一度もないということ。

ベートーヴェンは第九を作曲する前に「ミサ・ソレムニス」という大曲を書いている。4年の歳月をかけ作り上げたけれど、それに満足できない。その理由をロマン・ロランが「多分彼の神が〈教会〉の神でなかった」と述べていることを紹介。

「人生のモットーとして机上に置いていたのも、エジプトのピラミッドに刻まれた碑文の一部だった。こうした彼の精神世界のありようは、正真のキリスト者にとっては〈異教的〉と見えることだろう」

自由・平等・友愛の精神のもと教会の権威を批判する立場をとるフリーメーソンという組織の会員に、尊敬し親交もあったゲーテ、第九の原詩の作者シラー、モーツァルト、ハイドンなどの他、親しい人たちが名を連ねていたけれど、ベートーヴェンの入信記録は見つかっていない。

「彼自身のアイデンティティーにメーソン的な思想基盤があったことは疑いない。それにもかかわらず入信しなかったとすれば、彼は思想信条は共有するが、いかなる集団の掟にも縛られたくないとする独特の自由精神の持主だったと見ることもできよう」

結局、ベートーヴェンが思う「神」とは、特定の既存の思想ではなかったという見方です。たくさんの素晴らしい考え方、思想を取り入れながらも、一つの思想の下に縛られたくない!ここ、とても共感できます、私。

それで、いよいよ「第九」です。彼にとっての「神」つまり「自分の思想」を音楽によって表現したものがあの曲だったということです。

『第九』は長い人生のさまざまな時期にベートーヴェンの中に宿った、時には対立さえする多種多様な思想や動機が、半ば無意識に合流し統合された作品と言えよう。しかしその方向性は一瞬にし て決ったのだ。『ミサ』から手が離れた時、自分の最後のメッセージは、あれではない、これだ!  と閃いたに違いない。これとは何か? 教会の典礼文ではなく、自分の言葉によって、自分の神に、 生きとし生けるものと共に、喜びにみちて祈ることが可能な音楽に他ならなかった。

(自分の言葉→原詩はシラーの詩「歓喜に寄せて」)

対立する思想さえも乗り越え、喜びを共有することは実際難しいし、理想的すぎるかもしれない。でも、ベートーヴェンのようにどこにも属さず自由な精神であることは(彼自身の思想はある)、色々な考えの人たちとの対話を閉ざさないということだと思う。私も最近ちょうどそのようなことを考えていたので、この本に出会ったのはグッドタイミングでした。

ベートーヴェンは20代から難聴が始まり、やがて聞こえなくなる(それで作曲ができていたことがすごすぎる!)。そして、何度も失恋をし、苦悩する。持病などもあり、様々な困難に直面するけれど、創作への意欲、使命感が何度も彼を奮い立たせる。そしてずっと彼を支えてきたのが、彼が信じる「神」(思想)であり、それが人々と共に喜びを分かち合う大作として結実した。なかなか感動的ではありませんか!

ベートーヴェンの葬儀にはウィーン中から2万人、3万人という規模の市民が集まったということです。彼が音楽を通し、社会にのためにしようとしたこと、それが多くの人の心を動かしたのかもしれません。

ベートーヴェンという人は、思っていたイメージをはるかに超える興味深い人物、偉大な音楽家でした。

 

 

ベートーヴェンの本

1日のうち、本を読む時間というのはほとんどないのですが(優先順位をつけるとそうなる)、最近また本を読みたい気分で、隙間時間を使って読んでいます。ながら読書です。主に夜、ドライヤーで髪を乾かしている時間などですが、手も耳も使えないけど目があいているので(笑)、パソコンで電子書籍です。そのあと、iPhoneでも読めるから続きをちょこっとストレッチしながらとか。

他に、最近またオーディオブックやYouTubeの朗読なども聞いています。これは台所で、手と目は料理に使うけど耳があいているから(笑)。特に台所に立つ時間は1日3時間以上はあるかな(片づけにも時間かかるしね)、長いので使わないともったいない。音楽を聴くこともあるけれど、ストリーミングの再生リストを流していると(いちいち手を止めて選んでられないので)、そのうち似たような曲、同じ曲ばかりかかってくるので、聴くのをやめてしまいます。おすすめ機能は気がきいているようで、微妙ですね。そしてまた本を求める。でもそれが続くとまた、活字から解き放たれ音楽で頭をほぐしたいと思ったりするのですが(笑)。台所でそれを繰り返している感じです。

最近読み始めた電子書籍は『ベートーヴェンの生涯』(平凡社)です。ロマン・ロランのが有名だと思うし、安かったし、それを買ったんですが、もう少しみてみると青木やよひさんという方の書かれた同じタイトルの本があり、レビューを見るとかなり高評価。これまでのベートーヴェンの伝記よりも、より細かく調べられていて信頼性が高い内容であるということで、サンプルを読んでみるとこちらの方が良さそうで、結局こちらも買ってそれを読んでいます。

ベートーヴェンについては、音楽家という側面以上に人として興味がありました。詳しくは知らないのですが、音楽(西洋クラシック音楽)を貴族や宗教ためのものから民衆のものへと変えたのが彼であるというようなことについて少し別の本で読んだ記憶があります。それってけっこうすごいことなんじゃないかなと思っていました。

ベートーヴェンの作品は、ピアノソナタを何曲か十代の頃レッスンで弾きましたが、それほど強い思い入れがあるわけでもなく、その後はソナタや他の小品などたまに弾くこともあるというくらいでした。今回はたまたま本を見つけたので、改めてベートーヴェンという人について知ろうと思いました。

他の音楽家の場合もそうですが、ベートーヴェンも生い立ちからすでに興味深い。興味そそられる点が多くて、とても紹介しきれませんが、最初の方はざーっくりこんな感じ。祖父の代から音楽家の家で、幼いころから父に厳しい音楽教育を受け(ほとんど虐待?)、父親よりも才能があり、家は父親が酒に溺れて家計が苦しく、母親が亡くなり、十代で兄弟や父親の面倒を見なければならなくなった(音楽で稼ぐ)という流れの中、それでもベートーヴェンは自分につらく当たってきた父親を受け入れ、大事にした。まずは彼の優しさ(人柄)に感動しました(大人だなぁ)。

即興演奏が得意な少年でしたが、10歳で初めて本格的に作曲を習います。最初の教材はバッハの『平均律クラヴィーア曲集』(いきなり!)。

1783年3月2日付の「マガツィーン・デア・ムジーク」で書かれた記事が、ベートーヴェンについての最初の報道記事で、その中で、11歳(実は12歳)のベートーヴェンが平均律クラヴィーア曲集を巧みに演奏すると絶賛、そして

彼がこのまま進歩を続けるならば、必ずや第二の ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトになるであろう

と書かれていることが紹介されています。ほめちぎりですね!

ベートーヴェンが最も敬愛したのはモーツァルトのようです。モーツァルトとの一度だけの出会いについても書かれています。モーツァルトが内心、若いベートーヴェンの才能を見抜きながらそれを本人に言わなかったのは、認めるのはちょっと悔しかったのかなと思ったりしました。

ハイドンやサリエリにも師事していますね。なんか、すごい。

十代のうちから哲学書なども読み、また音楽教師や他の大人たちからの影響もあり、音楽だけではなく広く思想についても思いめぐらしていたことが、のちのちの彼の生き方につながっていくことに、とても興味を持って読み進めています。

ところで、著者の青木やよひさんってどんな人だろうと検索してみると、びっくり。興味のある人はこちらからどうぞ↓(さらに経歴は別のページに)

もう亡くなられているのですが、エコロジカル・フェミニスト(この言葉は初めて知りました)ということで、この考え方(エコロジカル・フェミニズム)は大変興味深いです。私も似たようなことを考えたりします。主流のフェミニズムについて詳しくないですが、エコロジカル・フェミニズムの方が問題の本質に迫っていると思えます。性別に関わらず、多くの人がなんとなくおかしいなと感じていることの本質に迫っている。これについては話がそれるし、ヘビーだし(汗)、これ以上ここでは書きませんが。

青木やよひさんが、ベートーヴェンを自分の思想とつながる芸術家と認識して書いた『ベートーヴェンの生涯』は、やはり面白いに違いない(笑)。ますます、期待が高まります。そういう意味ではロマン・ロランも、尊敬できる、共感できる人間として、ベートーヴェンについて書いているようです。こちらの本も持ってるからまた読むかもしれません。

録音の方も日々、取り組んでいます。編曲ものの録音は一旦終え、アルバム曲の録音に入っています。まだまだかかりそう~(汗)。

 

ピアノのための和声は?

ピアノのための和声の本というのは、演奏者向けのものは多少あっても、作曲のためのというのはあまりないように思います。和声の本を読んでいてよく感じる疑問(色々ありますが)のうちの一つがピアノ曲の場合どうなの?ということですが、それについていくつか書かれている文章をご紹介します。

一つは、以前もブログに書いていますが、『実用和声学』(中田喜直/音楽之友社)からのものです。中田喜直さんは「夏の思い出」や「ちいさい秋みつけた」なども作曲された方です。

ピアノは音楽の基本的な楽器である。もちろん和声学もピアノを使って勉強するが、和声学はピアノのためのものではないので具合が悪い。和声学はその名の通り、和音の中の一つ一つの音を独立した声部として扱い、その声部の動きを厳格に規定したものであるから、混声合唱か、異なる楽器の四重奏でやらなければ本当に理解できないわけである。

平行八度や平行五度の禁則は、そのようにすればある程度理由はわかるが、ピアノで弾いたのでは悪く聞こえない場合が多い。

また、『「なぜ?」が分かるとおもしろい和声学』(川崎絵都夫・石井栄治共著/FAIRY inc)には次のような記述があります。

器楽曲は通常、声部という考え方で作曲されていないので、和声学よりも自由な書法になることが多い。

ある和声学関係の本に、モーツァルトのピアノソナタの譜例をあげて、平行五度が使われているがうっかりミスか?と書かれていました。私は音楽的にそれがミスとは思えないし、そんな例はピアノ曲にたくさんあって、ということは別に問題はないことではと思いましたが、『「なぜ?」が分かるとおもしろい和声学』にも別のモーツァルトピアノソナタを例に、連続8度だが禁則ではないと説明されています。そもそも和声学でピアノ曲を分析するのはどうかということですね。

その和声理論についても

いわゆる機能和声理論は、バッハからロマン派までの音楽語法を矛盾なく包摂しうる高度に体系化された理論であるが、時代がより近代に近づくにつれて、それによって説明しきれない音楽の例が増大してくるのである。(『近代和声の機能理論への試み』(橋本正昭・高野茂著)より)

と書かれているように、ドビュッシーあたり以降から当てはまらないものが増えてきて、どう考えればいいかややこしくなってくるわけですね。

古い和声学と近代の和声についてどう考えればいいのか、シャルル・ケックランの『和声の変遷』(音楽之友社)に書かれていることが面白いです。この本は昭和43年に出されたのが最後で、何年か前古本で見つけました。もう茶色くなっていますが貴重な資料です。ケックランはドビュッシーやフォーレの曲のオーケストレーションをやったこともある人です。本の中から興味深い箇所をいくつか引用します。

「決して過去のものを軽蔑したり、素朴なスタイルを軽んじたりしてはならない」

「芸術家があらかじめ、人の踏んできた道をさけようと考えたところで、決して独創的になったといえない」

「芸術家が斬新で個性的であるという特権を持とうとするには、ありきたりの和音を一生懸命さけたからといってそうなるものでもない」

「私たちの知っている和声学はその時代のすべての音楽の法則集でもなければ、過去の音楽の法則集でもない」

「作曲にあたっては、和声技法について≪固定した法則≫などというものはないことは明白である」

「決まりは相対的なものであり、わずらわされないことが大切である」

などなど、和声についてどのように考えればいいかというヒントがたくさんです。抽象的ですけどね。

色々な音楽家の考え方に触れながら、自分なりに学んでいければいいのかなと思っています。

教会のバロックコンサート

昨日は久しぶりにクラシックのコンサートに行ってきました。最近は、案内をいただいたり、招待していただいたりしないと行っていない気がします(知り合いとか関係ある人とかが演奏する)。

今回は、1ヶ月ほど前に三橋桜子さん、パブロ・エスカンデさんご夫妻に案内をいただいた、「教会コンサートシリーズChiaroscuro ~光と影~」というタイトルのコンサートでした。お手紙によるとお二人でアンサンブル・コントラスタンテというグループを始められたということです。

前もどこかで書いていたと思いますが、何年か前パブロさんから音楽理論などのレッスンを受けていたことがあって、それから何度かコンサートにも行かせていただいています。

コントラスタンテとはコントラストのことかなと思ってますが、前半は聞いた感じオーソドックスな感じのバロック音楽(でも知らない曲ばかり)で、後半はネオ・バロックということでしたが、わりと最近の作曲家の新しい雰囲気も感じられる音楽でした(パブロさんの作品はこちら)。以前からお二人のコンサートは工夫を凝らしたプログラムばかりですが、今回もコントラストをつけて違いを楽しめるように考えられたんだろうなと思いました。

出演者は、パンフレット掲載順にパブロ・エスカンデさん(作曲・編曲・チェンバロ)、三橋桜子さん(チェンバロ)、中嶋俊晴さん(カウンター・テナー)、伊佐治道生さん(ヴァイオリン)、曽田健さん(チェロ)。皆さん素晴らしかったです!

プログラムの中で、ペルトという作曲家の「鏡の中の鏡」という曲が特に気になりました。シンプルなチェンバロの伴奏(三橋桜子さん)に、チェロがロングトーンのメロディをじっくり歌うという感じの曲です。全体的に音数が少ないのだけど、より印象付けられる感じがする。

最近私が作った曲で、シンプルな左手の伴奏に右手でゆったりとしたメロディをのせるというのがあって、それを弾いているうちに、これは弦で歌うといいだろうなと思って、友人のヴァイオリニストに今度ヴィオラで弾いてもらうことをお願いしました(とりあえずスタジオで合わせてみる)。比べるのはおこがましいかもしれませんが、構成と雰囲気はちょっとだけ似てるかもと思って、合わせてみた時のこともイメージしながら興味深く聴いていました。

パブロさんの作品、桜子さんとの連弾はかっこよかったです。パブロさんはアルゼンチン出身ですが、作品からどこかタンゴ??のリズム感があるのかなと感じることがあります。

今回も、凝った選曲、素敵な演奏、楽しいトークと、知らない曲ばかりでもとても楽しめました。パブロさんとも久々に少し話せたし、よかったです。

コンサート前から怪しい空模様だったけど……
前半、最後の曲、ヘンデルのオペラ「リチャード1世」より アリア ”激しい嵐に揺り動かされようと”の時、外では雷が鳴り、稲光がちかちか。偶然の演出に会場内もちょっとざわついていました。